第2話 二人の間に、冷たい沈黙
同じ頃、影綱の屋敷では、黒瀬伊織が三人の中忍を前に座っていた。
書院には昼だというのに障子が閉められ、部屋の隅では一本の灯明が燃えていた。
伊織の前には、朱印の押された命令書が置かれている。
――鴉羽朔、逃亡中。
――本件は影綱の機密保全に関わる重大事案なり。
――処分を完了せよ。
短い命令だった。
それだけに、解釈の余地はほとんどなかった。
「朔は北川へ向かっておる」
伊織が言った。
「日向与七を渡し場へ配置いたしました」
中忍の一人が答えた。
「河原と街道にも見張りを置いております。鴉羽の得意とする山道も、主要な抜け道は押さえました」
「与七には何と命じた」
「鴉羽朔を発見次第、拘束せよと」
伊織は顔を上げた。
「拘束?」
「はっ。生け捕りが可能であれば、まず捕縛いたします。その後、処分を――」
「上位評定の命令を読み違えるな」
低い声だった。
中忍の顔が強張った。
「処分を完了せよと書かれておる。捕縛は手段の一つにすぎぬ。情に流され、任務を失敗することは許されぬ」
「……承知いたしました」
伊織はしばらく黙っていた。
目の前にいる三人は、いずれも自分が育てた忍びである。
命令を疑う者はいない。
上からの指示があれば従う。
そのように教えたのは、ほかならぬ伊織自身だった。
「宇佐見半兵衛はいかがいたしますか」
別の中忍が尋ねた。
「引き続き追跡させよ。ただし、独断で動くことは禁ずる」
「はっ」
「それと、与七の動きは別の者に監視させよ」
三人のうち一人が、怪訝そうな顔をした。
「与七を、でございますか?」
「朔とは古くからの仲だ。情をかける可能性がある」
「なるほど」
伊織は命令書を畳んだ。
「任務に私情を挟む者は、忍びとして失格だ」
冷たい言葉だった。
しかし、そう言う伊織自身の指は、畳んだ紙の端を強く押さえていた。
中忍たちが退出すると、伊織は一人で書院に残った。
しばらくして、机の引き出しを開ける。
中には古い木札が一枚あった。
八年前、朔が正式に影綱へ入った際に作られたものだった。
鴉羽朔。
その名が、幼い筆跡で書かれている。
伊織は木札を見つめた。
「……なぜ、おぬしでなければならぬ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
師として育てた弟子。
何の疑いもなく、自分を慕ってきた若者。
その命を奪えと、上位評定が命じている。
だが命令書には、処分の理由が一切記されていない。
上位評定の命令に理由が書かれていないのは珍しいことではなかった。しかし、今回に限っては、伊織にも腑に落ちない点があった。
朔ほどの下忍を処分するために、なぜ影綱の最高機関が直接動くのか。
そしてなぜ、同じ対象者を生きたまま確保しようとする別の命令まで存在するのか。
伊織はその答えを知らされていなかった。
ただ、命令を受けた以上、動かぬわけにはいかない。
伊織は立ち上がった。
壁に掛けられた刀を取り、腰へ差す。
「馬を用意せよ」
廊下の向こうで控えていた忍びが答えた。
「どちらへ?」
「北川へ参る」
「黒瀬殿自らでございますか」
「そうだ」
伊織は静かに言った。
「朔のことは、わしが始末をつける」
北川の上流には、古い水車小屋が残されていた。
朔がそこへ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
小屋は十年以上使われていない。水車は朽ち、川を引き込む水路には枯れ枝や石が詰まっている。
朔は小屋の裏手から川へ出た。
期待していた丸木橋は、半分崩れていた。
中央の丸太が二本抜け落ち、残った一本もひどく腐っている。
人が渡るには危険だった。
「……困ったことでござるな」
朔は川幅を測るように左右を見た。
水は速い。
今の傷ついた身体で泳いで渡るのは難しいだろう。
しばらく考えた末、朔は水車小屋へ戻った。
建物の裏には古い材木が何本か積まれている。
それを使えば、どうにか橋を補強できるかもしれなかった。
朔は材木を運び始めた。
そのときだった。
「朔」
背後から声がした。
聞き慣れた声だった。
朔はゆっくりと振り返った。
水車小屋の入口に、一人の男が立っていた。
旅人の姿をした日向与七だった。
「……与七」
「やはり、ここへ参ったか」
与七は苦笑した。
「おぬしは昔から、橋が壊れておっても諦めぬ男であったな」
朔は何も答えなかった。
与七はゆっくりと小屋へ入ってきた。
腰には短刀を差している。
「渡し場でおぬしを待っておった」
「知っておる」
「気づいておったのか」
「茶屋で舟ばかり見ておったであろう。あれでは怪しまれる」
与七は小さく笑った。
「おぬしには敵わぬな」
「ならば、見逃してはくれぬか」
「それはできぬ」
即答だった。
朔の表情が曇った。
「……与七。それがしは何も悪いことをしておらぬ」
「分かっておる」
「では、なぜ追う」
「命令だからだ」
朔は目を伏せた。
また、それか。
影綱の者は誰もが同じことを言う。
命令だから。
理由を知らぬから。
疑う必要がないから。
それでは、命令さえ下されれば誰でも殺すのか。
朔は顔を上げた。
「与七。おぬしは、それがしを殺せるのか」
与七は黙っていた。
「それがしとおぬしは、十年近く共に過ごしてきた。飯を分け合い、稽古に励み、幾度となく助け合ってきた。そのすべてを忘れよと申すのか」
「忘れられるはずがなかろう」
与七の声が低くなった。
「ならば――」
「だからこそ、わしに任務が与えられたのだ」
朔は言葉を失った。
与七は続けた。
「おぬしのことは、誰よりもよく知っておる。逃げ道も、考え方も、戦い方もな。ほかの忍びでは取り逃がすかもしれぬ。だが、わしならば捕らえられる」
「……それを承知で引き受けたのでござるか」
「そうだ」
与七は腰の短刀を抜いた。
「朔。抵抗せず、共に戻れ」
「戻ればどうなる」
「上の者がお裁きになる」
「処分の命令が出ておるのだぞ」
「知っておる」
「ならば、戻ることは死ぬことと同じではないか!」
与七は何も答えなかった。
朔は短刀へ視線を落とした。
その刃は、すでに抜かれている。
与七は友を捕らえる覚悟を決めているのだ。
ならば、それがしも覚悟を決めねばならぬ。
しかし。
どうしても、刀を抜く気にはなれなかった。
朔はもう一度、与七の顔を見た。
「……最後に一つだけ聞かせてくだされ」
「何じゃ」
「おぬしは、誰から命令を受けた」
「黒瀬伊織殿だ」
朔の胸が締めつけられた。
師匠。
やはり、師匠が。
「伊織殿は、何と申された」
「鴉羽朔を捕らえよ。逃走を許すな、と」
「それだけか」
「それだけだ」
与七は一歩前へ進んだ。
「朔。これ以上、わしを困らせるな」
朔は静かに息を吐いた。
「……申し訳ござらぬ」
そして、腰の小刀へ手を伸ばした。
「それがしにも、死ぬわけにはいかぬ理由があるのでござる」
与七の目が細くなった。
二人の間に、冷たい沈黙が流れた。
遠くで川の水音が響いている。
かつて同じ修行場で木刀を交えた二人が、今度は本物の刃を向け合っていた。
つづく




