第3話 失敗した仲間まで殺す。
先に動いたのは与七だった。
短刀を低く構え、朔の左側へ回り込む。昨日の襲撃で傷めた足を狙っているのだ。
朔は右へ退いた。
与七が間合いを詰める。
刃が横に走った。
朔は小刀で受け止めたが、腕に強い衝撃が伝わった。相手は剣術の達人ではない。それでも、与七の腕は朔より確かだった。
「抵抗をやめよ!」
「それがしは、まだ死にとうござらぬ!」
朔は後退しながら、積まれた材木の陰へ回った。
与七は追ってくる。
しかし、二歩進んだところで足を止めた。
「……その手は通じぬぞ」
朔は苦笑した。
「何のことでござる」
「材木を蹴り倒すつもりであろう」
図星だった。
修行中、朔は何度も似たような手を使っていた。正面から勝てない相手には、周囲のものを利用する。それが朔の戦い方だった。
「おぬしの考えることくらい、分かっておる」
与七は材木へ近づかず、反対側から回り込んだ。
朔は慌てて水車小屋へ飛び込んだ。
建物の中は薄暗く、壊れた歯車や木桶が散乱している。床板の一部は腐り、踏めば崩れそうだった。
朔は中央の柱の陰へ隠れた。
与七が入ってくる。
「逃げても無駄だ、朔」
足音が近づく。
朔は息を殺した。
「わしは、おぬしの逃げる場所を知っておる」
確かにそのとおりだった。
幼い頃から、与七とは何度も隠れん坊のような修行を繰り返してきた。森の中へ隠れても、屋根裏へ逃げても、最後には見つかった。
与七は、朔の考えることをよく知っている。
だが。
朔もまた、与七の癖を知っていた。
与七は罠を仕掛けることに長けている。そのため、足元の縄や仕掛けには人一倍用心深い。
しかし逆に、相手が自分より巧みに罠を仕掛けるとは考えていない節があった。
朔は床に落ちていた麻縄を拾った。
水車を修理するために使われていたものだろう。古びてはいるが、まだ十分に丈夫だった。
朔はその縄を柱へ回し、素早く結び目を作った。
与七が近づいてくる。
「朔、そこにおるな」
朔はわざと音を立てた。
木桶を蹴り飛ばす。
ガタン!
与七が振り向く。
その瞬間、朔は柱の陰から飛び出した。
与七の短刀が振り下ろされる。
朔はかろうじて身をかわし、相手の腕へ縄を投げかけた。
「何っ!」
縄が与七の右腕に絡んだ。
朔は柱の反対側へ身体を投げ、全体重をかけて引いた。
結び目が締まる。
与七の腕が柱へ引き寄せられた。
「ぐっ!」
短刀が床へ落ちた。
朔はさらに縄を引いた。
与七は体勢を崩し、肩を柱へ強く打ちつけた。
「うあっ!」
痛みに顔をゆがめた与七が、膝をついた。
右腕が動かなくなっている。
朔は荒い息をつきながら、小刀を構えた。
勝った。
いや、勝ったというほど立派なものではない。
ただ、相手の油断を突いただけだった。
与七は朔を見上げた。
その目には、怒りよりも驚きが浮かんでいた。
「……やるではないか」
朔は答えられなかった。
与七は自分の腕を見て、苦笑した。
「この縄……わしが教えた結び方ではないか」
「覚えておったのでござる」
「よりによって、わしの技でわしを捕らえるとはな」
「……申し訳ござらぬ」
与七は笑わなかった。
朔も笑えなかった。
幼い頃から共に過ごしてきた仲間を、自分の手で傷つけた。
たとえ命を守るためだったとしても、その事実は消えない。
朔は小刀を握りしめた。
与七を殺すことは、今なら容易い。
右腕は柱に縛られ、短刀も手放している。
喉元へ刃を当てれば、それで終わる。
そうすれば追っ手が一人減る。
だが、朔にはどうしてもできなかった。
「……それがしには、殺せませぬ」
与七は黙っていた。
「おぬしを殺してまで、生き延びとうはござらぬ」
朔は小刀を鞘へ戻した。
与七は顔を上げた。
「甘いな、朔」
「そうかもしれませぬ」
「忍びが敵に情けをかければ、いつか自分が死ぬぞ」
「おぬしは敵ではござらぬ」
朔は静かに答えた。
「それがしの仲間にござる」
与七の表情がわずかに変わった。
そのときだった。
ヒュッ!
小屋の外から矢が飛んできた。
朔のすぐ横を通り過ぎ、柱へ突き刺さる。
「伏せよ!」
与七が叫んだ。
続けて二本目の矢が飛んだ。
今度は、与七の胸元を狙っていた。
朔は反射的に身を投げ出した。
二人が床へ転がる。
矢は与七の背後の板壁へ深々と突き刺さった。
朔は目を見開いた。
今の矢は。
それがしではなく、与七を狙っていた。
「……何ゆえ?」
与七の顔色が変わっていた。
「おかしい」
「何がでござる」
「外におるのは、わしと同じ組の忍びのはずだ」
朔は窓の外を見た。
杉林の間に、弓を構えた男が立っていた。
黒い頭巾。
影綱の忍びである。
男は小屋の中を見つめ、三本目の矢をつがえた。
「与七! 伏せておれ!」
朔は縄を切り、与七を柱の陰へ引きずり込んだ。
直後、矢が床を叩いた。
「……どういうことじゃ」
与七がうめいた。
「わしは、鴉羽朔を生け捕りにせよと命じられた。だが、あの男は……」
「おぬしまで殺そうとしておる」
朔は答えた。
与七は何も言わなかった。
朔は周囲を見渡した。
正面の扉は射手に見張られている。
裏手の窓も狭い。
しかも与七は肩を傷め、自由に動けない。
ここで長く留まれば、二人とも殺される。
朔は水車小屋の奥を見た。
床下には、水を引き込む古い水路がある。
水量は少ないが、大人が一人通れるほどの隙間が残っていた。
「与七。動けるか」
「左腕ならば、どうにかな」
「では、ついてまいれ」
「何をするつもりじゃ」
「逃げるのでござる」
与七は目を見開いた。
「わしまで連れてゆく気か!」
「ここへ置いていけば、殺される」
「わしはおぬしを捕らえに来たのだぞ!」
「承知しておる」
「ならば、なぜ助ける!」
朔は与七を見た。
「……おぬしが、それがしの仲間だからでござる」
与七は言葉を失った。
朔は床板を外し、狭い水路へ身を滑り込ませた。
冷たい水が膝を濡らした。
「早う!」
与七はしばらく迷っていたが、やがて朔の後に続いた。
二人が水路へ入った直後、小屋の扉が開かれた。
複数の足音が聞こえる。
「鴉羽を探せ!」
「日向与七もだ!」
朔と与七は顔を見合わせた。
今、何と申した。
与七も探せ?
なぜだ。
朔は息を殺し、水路を進んだ。
背後では、男たちが小屋の中を捜索している。
その声が、朔の耳へ届いた。
「日向与七は任務を失敗した。上から命令が出ておる」
「どのような命令だ」
「鴉羽朔とともに処分せよ、とな」
与七の顔から血の気が引いた。
朔も動きを止めた。
影綱は。
失敗した仲間まで殺すのか。
水路は水車小屋の裏手から川へ続いていた。
朔と与七は泥まみれになりながら外へ這い出した。
あたりは夕闇に包まれている。
山の向こうでは鳥が鳴き、川面には月が映り始めていた。
朔は岩陰へ身を隠した。
与七も隣へ座り込む。
しばらく、二人とも言葉を発しなかった。
与七は右肩を押さえたまま、ぼんやりと川を見つめていた。
「……わしは、何をしておったのであろうな」
やがて、与七がつぶやいた。
「どうしたのでござる」
「命令だからと、おぬしを追った。命令だからと、昔の仲間に刃を向けた」
与七は苦く笑った。
「そして今度は、わし自身が処分されるらしい」
朔は何も言えなかった。
与七は続けた。
「朔。わしらは、何のために忍びになったのだ」
「……」
「主君のためか。影綱のためか。それとも、誰かの命令を果たすためだけか」
朔はしばらく考えた。
答えは見つからなかった。
影綱にいた頃ならば、迷わず答えただろう。
忍びは命令に従うために生きる。
それが正しいと信じていた。
しかし今は、その命令によって自分も与七も殺されようとしている。
ならば、その正しさとは何なのか。
「……分かりませぬ」
朔は静かに答えた。
「それがしにも、まだ分からぬのでござる」
与七は目を閉じた。
しばらくして、低い声で言った。
「朔。おぬしに伝えておくことがある」
「何でござる」
「わしは北川の渡し場へ配置される前、上忍から一つの話を聞いた」
朔は顔を上げた。
「おぬしの処分命令についてだ」
「……何を聞いたのでござる」
「おぬしを殺せという命令と、生きたまま捕らえよという命令。この二つが別々の経路から出されていることは知っておろう」
「承知しております」
「だが、わしが聞いた話では、そもそもおぬしが密書を運んでいること自体がおかしいのだ」
朔は眉をひそめた。
「何を申される」
与七は朔を見つめた。
「おぬしが霞ヶ城へ運ぶはずだった密書は、すでに届けられたことになっておる」
朔は耳を疑った。
「……何?」
「影綱の輸送記録に、そう報告されていた」
「待たれよ。密書はここにござるぞ」
朔は懐から竹筒を取り出した。
「このとおり、まだ持っておる!」
「それは分かっておる」
「では、誰が届けたというのでござるか!」
与七は首を横に振った。
「分からぬ」
朔は愕然とした。
自分は命を懸けて密書を運んだ。
その途中で襲われ、組織から追われる身になった。
ところが、届けるはずの密書はすでに届けられたという。
何者かが、朔の代わりに霞ヶ城へ密書を運んだのか。
それとも、輸送記録そのものが偽造されたのか。
与七はさらに続けた。
「しかも、妙なことがもう一つある」
「……まだあるのでござるか」
「輸送記録には、届けた忍びの名前も記されていた」
朔は身を乗り出した。
「誰でござる!」
与七は少しだけ言いよどんだ。
そして、静かに答えた。
「……鴉羽朔」
朔は動けなくなった。
川の音だけが、二人の間に響いた。
「……それがし?」
「そうだ」
「それがしは、まだ霞ヶ城へ到着しておらぬぞ」
「承知しておる」
「ならば、どういうことなのだ!」
与七は答えなかった。
いや、答えられなかった。
朔は竹筒を握りしめた。
影綱の記録では、自分はすでに死んだことになっている。
その一方で、霞ヶ城では自分が密書を届けたことになっている。
死んだはずの男が、密書を届けた。
生きている自分は、裏切り者として追われている。
いったい、何が起きている。
朔は立ち上がった。
「……霞ヶ城へ参る」
与七が顔を上げた。
「正気か、朔」
「ほかに道はござらぬ」
「城へ行けば殺されるぞ!」
「承知しておる」
朔は川の向こう岸を見つめた。
「だが、そこに何かがあるのだ。誰かがそれがしの名を使い、密書を届けたというなら、その者を探さねばならぬ」
「……」
「それがしの名を騙る者がいるならば、直接顔を拝んでやろうぞ」
与七は苦しそうに立ち上がった。
「わしも参る」
朔は驚いた。
「与七?」
「わしも影綱へは戻れぬ。おぬしを逃がしたというだけで、処分される身になった」
「されど、肩の傷が……」
「心配無用じゃ。左腕が残っておる」
与七は笑おうとした。
しかし、痛みのためか、顔をしかめた。
朔はしばらく友の姿を見つめた。
先ほどまで、与七は敵だった。
自分を捕らえるために追いかけてきた忍びだった。
しかし今は、同じ組織から追われる身になっている。
皮肉なものだった。
影綱は命令によって二人を敵同士にした。
そして、同じ命令によって再び仲間に戻してしまった。
「……かたじけない」
朔は深く頭を下げた。
与七は左手で朔の肩を叩いた。
「礼を申すのは、まだ早いぞ」
「何ゆえ」
「わしは、おぬしに肩を傷められたのだからな」
朔は苦笑した。
「団子三本で許してくだされ」
「五本じゃ」
「高うござるな」
「命の値段に比べれば安いものだ」
二人は小さく笑い合った。
久しぶりに、心から笑った気がした。
しかし、その笑いは長く続かなかった。
川の向こうで、松明が揺れたのである。
一つ。
二つ。
三つ。
追っ手が近づいている。
朔と与七はすぐに身を低くした。
「……行くぞ」
「承知」
二人は川沿いの暗い道へ走り出した。
つづく




