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忍務 —SHINMU—  作者: 虫松
第二部 忍者は仲間を殺す

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第3話 失敗した仲間まで殺す。

先に動いたのは与七だった。


 短刀を低く構え、朔の左側へ回り込む。昨日の襲撃で傷めた足を狙っているのだ。


 朔は右へ退いた。


 与七が間合いを詰める。


 刃が横に走った。


 朔は小刀で受け止めたが、腕に強い衝撃が伝わった。相手は剣術の達人ではない。それでも、与七の腕は朔より確かだった。


「抵抗をやめよ!」


「それがしは、まだ死にとうござらぬ!」


 朔は後退しながら、積まれた材木の陰へ回った。


 与七は追ってくる。


 しかし、二歩進んだところで足を止めた。


「……その手は通じぬぞ」


 朔は苦笑した。


「何のことでござる」


「材木を蹴り倒すつもりであろう」


 図星だった。


 修行中、朔は何度も似たような手を使っていた。正面から勝てない相手には、周囲のものを利用する。それが朔の戦い方だった。


「おぬしの考えることくらい、分かっておる」


 与七は材木へ近づかず、反対側から回り込んだ。


 朔は慌てて水車小屋へ飛び込んだ。


 建物の中は薄暗く、壊れた歯車や木桶が散乱している。床板の一部は腐り、踏めば崩れそうだった。


 朔は中央の柱の陰へ隠れた。


 与七が入ってくる。


「逃げても無駄だ、朔」


 足音が近づく。


 朔は息を殺した。


「わしは、おぬしの逃げる場所を知っておる」


 確かにそのとおりだった。


 幼い頃から、与七とは何度も隠れん坊のような修行を繰り返してきた。森の中へ隠れても、屋根裏へ逃げても、最後には見つかった。


 与七は、朔の考えることをよく知っている。


 だが。


 朔もまた、与七の癖を知っていた。


 与七は罠を仕掛けることに長けている。そのため、足元の縄や仕掛けには人一倍用心深い。


 しかし逆に、相手が自分より巧みに罠を仕掛けるとは考えていない節があった。


 朔は床に落ちていた麻縄を拾った。


 水車を修理するために使われていたものだろう。古びてはいるが、まだ十分に丈夫だった。


 朔はその縄を柱へ回し、素早く結び目を作った。


 与七が近づいてくる。


「朔、そこにおるな」


 朔はわざと音を立てた。


 木桶を蹴り飛ばす。


 ガタン!


 与七が振り向く。


 その瞬間、朔は柱の陰から飛び出した。


 与七の短刀が振り下ろされる。


 朔はかろうじて身をかわし、相手の腕へ縄を投げかけた。


「何っ!」


 縄が与七の右腕に絡んだ。


 朔は柱の反対側へ身体を投げ、全体重をかけて引いた。


 結び目が締まる。


 与七の腕が柱へ引き寄せられた。


「ぐっ!」


 短刀が床へ落ちた。


 朔はさらに縄を引いた。


 与七は体勢を崩し、肩を柱へ強く打ちつけた。


「うあっ!」


 痛みに顔をゆがめた与七が、膝をついた。


 右腕が動かなくなっている。


 朔は荒い息をつきながら、小刀を構えた。


 勝った。


 いや、勝ったというほど立派なものではない。


 ただ、相手の油断を突いただけだった。


 与七は朔を見上げた。


 その目には、怒りよりも驚きが浮かんでいた。


「……やるではないか」


 朔は答えられなかった。


 与七は自分の腕を見て、苦笑した。


「この縄……わしが教えた結び方ではないか」


「覚えておったのでござる」


「よりによって、わしの技でわしを捕らえるとはな」


「……申し訳ござらぬ」


 与七は笑わなかった。


 朔も笑えなかった。


 幼い頃から共に過ごしてきた仲間を、自分の手で傷つけた。


 たとえ命を守るためだったとしても、その事実は消えない。


 朔は小刀を握りしめた。


 与七を殺すことは、今なら容易い。


 右腕は柱に縛られ、短刀も手放している。


 喉元へ刃を当てれば、それで終わる。


 そうすれば追っ手が一人減る。


 だが、朔にはどうしてもできなかった。


「……それがしには、殺せませぬ」


 与七は黙っていた。


「おぬしを殺してまで、生き延びとうはござらぬ」


 朔は小刀を鞘へ戻した。


 与七は顔を上げた。


「甘いな、朔」


「そうかもしれませぬ」


「忍びが敵に情けをかければ、いつか自分が死ぬぞ」


「おぬしは敵ではござらぬ」


 朔は静かに答えた。


「それがしの仲間にござる」


 与七の表情がわずかに変わった。


 そのときだった。


 ヒュッ!


 小屋の外から矢が飛んできた。


 朔のすぐ横を通り過ぎ、柱へ突き刺さる。


「伏せよ!」


 与七が叫んだ。


 続けて二本目の矢が飛んだ。


 今度は、与七の胸元を狙っていた。


 朔は反射的に身を投げ出した。


 二人が床へ転がる。


 矢は与七の背後の板壁へ深々と突き刺さった。


 朔は目を見開いた。


 今の矢は。


 それがしではなく、与七を狙っていた。


「……何ゆえ?」


 与七の顔色が変わっていた。


「おかしい」


「何がでござる」


「外におるのは、わしと同じ組の忍びのはずだ」


 朔は窓の外を見た。


 杉林の間に、弓を構えた男が立っていた。


 黒い頭巾。


 影綱の忍びである。


 男は小屋の中を見つめ、三本目の矢をつがえた。


「与七! 伏せておれ!」


 朔は縄を切り、与七を柱の陰へ引きずり込んだ。


 直後、矢が床を叩いた。


「……どういうことじゃ」


 与七がうめいた。


「わしは、鴉羽朔を生け捕りにせよと命じられた。だが、あの男は……」


「おぬしまで殺そうとしておる」


 朔は答えた。


 与七は何も言わなかった。


 朔は周囲を見渡した。


 正面の扉は射手に見張られている。


 裏手の窓も狭い。


 しかも与七は肩を傷め、自由に動けない。


 ここで長く留まれば、二人とも殺される。


 朔は水車小屋の奥を見た。


 床下には、水を引き込む古い水路がある。


 水量は少ないが、大人が一人通れるほどの隙間が残っていた。


「与七。動けるか」


「左腕ならば、どうにかな」


「では、ついてまいれ」


「何をするつもりじゃ」


「逃げるのでござる」


 与七は目を見開いた。


「わしまで連れてゆく気か!」


「ここへ置いていけば、殺される」


「わしはおぬしを捕らえに来たのだぞ!」


「承知しておる」


「ならば、なぜ助ける!」


 朔は与七を見た。


「……おぬしが、それがしの仲間だからでござる」


 与七は言葉を失った。


 朔は床板を外し、狭い水路へ身を滑り込ませた。


 冷たい水が膝を濡らした。


「早う!」


 与七はしばらく迷っていたが、やがて朔の後に続いた。


 二人が水路へ入った直後、小屋の扉が開かれた。


 複数の足音が聞こえる。


「鴉羽を探せ!」


「日向与七もだ!」


 朔と与七は顔を見合わせた。


 今、何と申した。


 与七も探せ?


 なぜだ。


 朔は息を殺し、水路を進んだ。


 背後では、男たちが小屋の中を捜索している。


 その声が、朔の耳へ届いた。


「日向与七は任務を失敗した。上から命令が出ておる」


「どのような命令だ」


「鴉羽朔とともに処分せよ、とな」


 与七の顔から血の気が引いた。


 朔も動きを止めた。


 影綱は。


 失敗した仲間まで殺すのか。




 水路は水車小屋の裏手から川へ続いていた。


 朔と与七は泥まみれになりながら外へ這い出した。


 あたりは夕闇に包まれている。


 山の向こうでは鳥が鳴き、川面には月が映り始めていた。


 朔は岩陰へ身を隠した。


 与七も隣へ座り込む。


 しばらく、二人とも言葉を発しなかった。


 与七は右肩を押さえたまま、ぼんやりと川を見つめていた。


「……わしは、何をしておったのであろうな」


 やがて、与七がつぶやいた。


「どうしたのでござる」


「命令だからと、おぬしを追った。命令だからと、昔の仲間に刃を向けた」


 与七は苦く笑った。


「そして今度は、わし自身が処分されるらしい」


 朔は何も言えなかった。


 与七は続けた。


「朔。わしらは、何のために忍びになったのだ」


「……」


「主君のためか。影綱のためか。それとも、誰かの命令を果たすためだけか」


 朔はしばらく考えた。


 答えは見つからなかった。


 影綱にいた頃ならば、迷わず答えただろう。


 忍びは命令に従うために生きる。


 それが正しいと信じていた。


 しかし今は、その命令によって自分も与七も殺されようとしている。


 ならば、その正しさとは何なのか。


「……分かりませぬ」


 朔は静かに答えた。


「それがしにも、まだ分からぬのでござる」


 与七は目を閉じた。


 しばらくして、低い声で言った。


「朔。おぬしに伝えておくことがある」


「何でござる」


「わしは北川の渡し場へ配置される前、上忍から一つの話を聞いた」


 朔は顔を上げた。


「おぬしの処分命令についてだ」


「……何を聞いたのでござる」


「おぬしを殺せという命令と、生きたまま捕らえよという命令。この二つが別々の経路から出されていることは知っておろう」


「承知しております」


「だが、わしが聞いた話では、そもそもおぬしが密書を運んでいること自体がおかしいのだ」


 朔は眉をひそめた。


「何を申される」


 与七は朔を見つめた。


「おぬしが霞ヶ城へ運ぶはずだった密書は、すでに届けられたことになっておる」


 朔は耳を疑った。


「……何?」


「影綱の輸送記録に、そう報告されていた」


「待たれよ。密書はここにござるぞ」


 朔は懐から竹筒を取り出した。


「このとおり、まだ持っておる!」


「それは分かっておる」


「では、誰が届けたというのでござるか!」


 与七は首を横に振った。


「分からぬ」


 朔は愕然とした。


 自分は命を懸けて密書を運んだ。


 その途中で襲われ、組織から追われる身になった。


 ところが、届けるはずの密書はすでに届けられたという。


 何者かが、朔の代わりに霞ヶ城へ密書を運んだのか。


 それとも、輸送記録そのものが偽造されたのか。


 与七はさらに続けた。


「しかも、妙なことがもう一つある」


「……まだあるのでござるか」


「輸送記録には、届けた忍びの名前も記されていた」


 朔は身を乗り出した。


「誰でござる!」


 与七は少しだけ言いよどんだ。


 そして、静かに答えた。


「……鴉羽朔」


 朔は動けなくなった。


 川の音だけが、二人の間に響いた。


「……それがし?」


「そうだ」


「それがしは、まだ霞ヶ城へ到着しておらぬぞ」


「承知しておる」


「ならば、どういうことなのだ!」


 与七は答えなかった。


 いや、答えられなかった。


 朔は竹筒を握りしめた。


 影綱の記録では、自分はすでに死んだことになっている。


 その一方で、霞ヶ城では自分が密書を届けたことになっている。


 死んだはずの男が、密書を届けた。


 生きている自分は、裏切り者として追われている。


 いったい、何が起きている。


 朔は立ち上がった。


「……霞ヶ城へ参る」


 与七が顔を上げた。


「正気か、朔」


「ほかに道はござらぬ」


「城へ行けば殺されるぞ!」


「承知しておる」


 朔は川の向こう岸を見つめた。


「だが、そこに何かがあるのだ。誰かがそれがしの名を使い、密書を届けたというなら、その者を探さねばならぬ」


「……」


「それがしの名を騙る者がいるならば、直接顔を拝んでやろうぞ」


 与七は苦しそうに立ち上がった。


「わしも参る」


 朔は驚いた。


「与七?」


「わしも影綱へは戻れぬ。おぬしを逃がしたというだけで、処分される身になった」


「されど、肩の傷が……」


「心配無用じゃ。左腕が残っておる」


 与七は笑おうとした。


 しかし、痛みのためか、顔をしかめた。


 朔はしばらく友の姿を見つめた。


 先ほどまで、与七は敵だった。


 自分を捕らえるために追いかけてきた忍びだった。


 しかし今は、同じ組織から追われる身になっている。


 皮肉なものだった。


 影綱は命令によって二人を敵同士にした。


 そして、同じ命令によって再び仲間に戻してしまった。


「……かたじけない」


 朔は深く頭を下げた。


 与七は左手で朔の肩を叩いた。


「礼を申すのは、まだ早いぞ」


「何ゆえ」


「わしは、おぬしに肩を傷められたのだからな」


 朔は苦笑した。


「団子三本で許してくだされ」


「五本じゃ」


「高うござるな」


「命の値段に比べれば安いものだ」


 二人は小さく笑い合った。


 久しぶりに、心から笑った気がした。


 しかし、その笑いは長く続かなかった。


 川の向こうで、松明が揺れたのである。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 追っ手が近づいている。


 朔と与七はすぐに身を低くした。


「……行くぞ」


「承知」


 二人は川沿いの暗い道へ走り出した。



つづく

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