第4話 薬売りの女
その夜。
北川の渡し場へ、一頭の馬が到着した。
馬から下りたのは、黒瀬伊織だった。
待機していた中忍たちが一斉に頭を下げる。
「黒瀬殿!」
「朔はどうした」
「日向与七が発見し、水車小屋で交戦いたしました」
「結果は」
「逃しました」
伊織の眉がわずかに動いた。
「与七は?」
「鴉羽朔とともに逃亡しております」
伊織はしばらく黙っていた。
そして静かに尋ねた。
「……二人ともか」
「はっ」
中忍は続けた。
「与七は朔を捕らえるどころか、共に逃げた模様にございます。上からは与七についても処分せよとの追加命令が届いております」
伊織は空を見上げた。
月が雲に隠れていた。
「朔は昔から、仲間を見捨てられぬ男であった」
「は?」
「何でもない」
伊織は腰の刀へ手を当てた。
「追跡を続けよ。ただし、これより先はわしが指揮を執る」
「承知いたしました」
中忍たちは再び頭を下げた。
伊織は川の向こうを見つめた。
かつて自分が忍術を教えた弟子たちが、今は二人で逃げている。
朔と与七。
どちらも未熟な下忍だった。
忍者として特別優れているわけではない。
それでも、二人は命令を受けた多くの追っ手から逃げ延びた。
伊織はわずかに目を細めた。
「……朔」
その名をつぶやく。
「おぬしは、どこまで逃げられる」
誰にも聞こえない声だった。
やがて伊織は馬へ乗り、東へ向かった。
一方、朔と与七は川沿いの小道を進んでいた。
与七の肩の痛みは強くなっているようだった。朔が休もうと申し出たが、与七は首を横に振った。
「このままでは夜明けまでに追いつかれる」
「されど、無理をすれば傷が悪化いたす」
「おぬしに心配されるとは、わしも落ちぶれたものよ」
与七は強がって笑った。
しかし、朔には分かっていた。
このまま歩かせるのは危険だ。
どこかで傷の手当てをしなければならない。
朔が周囲を見渡したときだった。
道の先に、小さな明かりが見えた。
山道の脇に、一軒の粗末な小屋がある。
軒先には薬草が干され、戸口には小さな薬箱が置かれていた。
朔は足を止めた。
「……薬売りか」
すると、小屋の中から女の声がした。
「夜分に、お怪我のお方が二人もお越しとは」
朔は小刀へ手をかけた。
戸がゆっくりと開く。
中から現れたのは、二十代半ばほどの女だった。
黒い髪を後ろにまとめ、質素な着物を着ている。
見覚えがあった。
霞ヶ城へ向かう山道で、傷薬を売ろうとしていた女である。
女は朔を見つめると、穏やかに微笑んだ。
「またお会いしましたね」
朔は驚いた。
「……おぬしは、あのときの」
「覚えていてくださったのですか」
女は小さく笑った。
「だから申し上げたでしょう。山道では怪我をすることもある、と」
朔は警戒しながら尋ねた。
「……何者でござる」
女はすぐには答えなかった。
代わりに、与七の傷ついた肩へ目を向けた。
「そのお方、右肩をひどく痛めておられますね。今すぐ手当てをなさったほうがよろしいでしょう」
「それがしらのことを、なぜ知っておられる」
女は微笑んだまま答えた。
「お名前をお聞きしても?」
朔は答えなかった。
すると女は、まるで世間話でもするような口調で言った。
「では、こちらから名乗りましょう」
女は軽く頭を下げた。
「梔子と申します」
朔は目を細めた。
梔子。
聞いたことのない名だった。
しかし、女の落ち着いた様子はただの薬売りには見えなかった。
朔が一歩後退すると、梔子は小さくため息をついた。
「そんなに警戒なさらなくても結構ですよ」
「警戒するなと申されても、そうはいかぬ」
「では、一つだけ教えて差し上げましょう」
梔子は朔の懐を指さした。
「あなたがお持ちの竹筒。その中の密書は、もう霞ヶ城には届けられないでしょうね」
朔の表情が凍った。
「……なぜ、そのことを知っておる!」
梔子は静かに答えた。
「だって、その密書の中身を決めた者たちのことを、少しは知っておりますから」
朔は小刀を抜いた。
「何者じゃ!」
梔子はまったく動じなかった。
ただ、薄暗い小屋の奥へ視線を向けた。
「お入りなさい。お話はそれからです」
そして最後に、こう告げた。
「影綱の忍びが味方を殺すのは、決して珍しいことではありません。あなたが知らなかっただけです」
朔は動けなかった。
山道に冷たい風が吹き抜けた。
背後では、追っ手の足音が少しずつ近づいていた。
そして目の前には、自分たちの命を狙う組織の秘密を知るという、正体不明の女が立っている。
味方なのか。
敵なのか。
今度こそ、それがしは誰を信じればよいのだ。
朔は小刀を握りしめたまま、梔子を見つめた。
梔子は微笑んでいた。
だが、その笑みが何を意味するのか、朔には少しも分からなかった。
つづく




