第5話 誰も信じられない。
忍びにとって、最も危険なものは何か。
刀か。
毒か。
それとも、敵の忍術か。
鴉羽朔は、これまで幾度となく師匠にその問いを投げかけられてきた。
そのたびに答えは違った。
しかし、今なら分かる。
最も恐ろしいのは、誰を信じてよいのか分からなくなることだ。
目の前には、薬売りを名乗る女がいる。
背後には、昨日まで仲間だった忍者たちが迫っている。
そして隣には、つい先ほどまで自分を殺そうとしていた友がいる。
この世で信じられる者など、本当に存在するのだろうか。
「お入りなさい。いつまでも外にいては、追っ手に見つかってしまいますよ」
女は微笑んでいた。
二十代半ばほどの、黒髪を後ろにまとめた女だった。質素な着物に薬売りの木箱。華美な装飾品もなければ、刀を差している様子もない。
どこから見ても、旅の薬売りである。
しかし朔には分かっていた。
この女は普通の薬売りではない。
「……おぬし、何者でござる」
朔は小刀の柄から手を離さずに尋ねた。
「先ほど名乗りましたでしょう。梔子と申します」
「名を尋ねたのではござらぬ」
「では、何をお知りになりたいのです?」
「なぜ、それがしの密書のことを知っておる」
梔子は答えなかった。
代わりに、朔の隣で肩を押さえている与七へ目を向けた。
「そちらのお方、ひどく顔色が悪いですよ」
「……大きなお世話じゃ」
与七が苦しそうに答えた。
「まあ。口は達者ですこと」
梔子は薬箱を開けた。
「右肩を傷めておられますね。骨が折れていなければよいのですが」
「おぬしに分かるのか」
「薬売りですもの」
梔子は淡々と答えた。
「もっとも、薬では治せないものもございます。例えば、命令に従うだけの愚かな頭などは」
与七の眉が動いた。
「……何じゃと?」
「お気になさらず。独り言です」
梔子は笑顔を崩さなかった。
朔は彼女を注意深く観察した。
話し方に隙がない。
こちらを怒らせ、反応を確かめているようにも見える。
それに、先ほどから女の視線は朔の顔と懐を交互に見ていた。
密書の隠し場所を知っている。
やはり、ただの薬売りではない。
「それがしらを助ける理由を聞かせてくだされ」
朔が尋ねると、梔子は少しだけ首をかしげた。
「理由がなければ、人を助けてはいけませんか?」
「忍びの世界では、理由のない親切ほど恐ろしいものはござらぬ」
「なるほど。それは賢いお考えですね」
梔子は薬箱の蓋を閉じた。
「では、取引をいたしましょう」
「取引?」
「そちらのお方の傷を手当ていたします。その代わり、あなたがお持ちの密書を見せてください」
朔は即座に首を横へ振った。
「ならぬ」
「どうして?」
「それがしの命を狙う命令書でござる。誰にでも見せられるものではござらぬ」
「だからこそ、見たいのです」
梔子の声が、わずかに低くなった。
「その密書に押されている朱印を確かめたいのですよ」
朔は息をのんだ。
「……朱印?」
「ええ」
「なぜ、朱印のことを知っておる?」
梔子はしばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「私は、印を見るのが好きなのです」
「ふざけておられるのか」
「いいえ。印というものは、人の名前よりも正直なことがございますから」
女は微笑んだ。
「もっとも、人が正しく使っていれば、のお話ですが」
朔は判断に迷った。
与七の傷は、見るからに悪化していた。
顔色が悪く、右腕もほとんど動かせない。水車小屋で縄に引き込まれた際、肩を強く痛めたのだ。
このまま山道を歩かせれば、いずれ動けなくなるかもしれない。
しかし、得体の知れない女に密書を見せるのも危険だった。
朔が迷っていると、与七が口を開いた。
「朔。見せてやれ」
「与七?」
「わしの傷のために、おぬしまで命を落とす必要はない」
「されど……」
「その女が敵ならば、どうせ密書の存在を知っておる。今さら隠しても同じことじゃ」
朔は唇を噛んだ。
確かに一理ある。
梔子が敵なら、すでに自分たちの正体を知っている。
それでも、信用できるわけではない。
「……密書はそれがしが持つ。その場で見るだけにしていただきたい」
梔子はうなずいた。
「結構です」
「写しを取ることも許しませぬ」
「承知しました」
「それと、与七の手当てが先でござる」
梔子は初めて、少し驚いたような顔をした。
「ご自分の命を狙った方でしょう?」
「それがしの友にござる」
「……そうですか」
梔子は一瞬だけ目を伏せた。
しかし、すぐに普段の笑顔へ戻った。
「では、お入りください。お二人とも」
つづく




