↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忍務 —SHINMU—  作者: 虫松
第二部 忍者は仲間を殺す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/18

第6話 三本の線が交差する朱印

小屋の中には、乾燥させた薬草の匂いが漂っていた。


 壁には束ねた草が吊るされ、棚には薬瓶や木箱が並んでいる。


 片隅には寝具が二組。


 囲炉裏には小さな火が残っていた。


 朔は部屋の中を見渡した。


 入口は一つ。


 裏側に小窓が二つ。


 床板の下には、何かを収納できそうな空間がある。


 そして、壁に立てかけられた竹の杖。


 薬売りの女が一人で暮らすには、少しばかり用心深すぎる造りだった。


「こちらへ座ってください」


 梔子は与七を囲炉裏の前へ座らせた。


「着物を少し緩めますよ」


「……承知した」


 与七が苦しそうに右肩を出す。


 梔子は傷の周囲を慎重に触れた。


「痛みますか?」


「うっ!」


「こちらは?」


「ぐっ……!」


「では、ここは?」


「痛いに決まっておろう!」


「元気なお方ですね」


 梔子は涼しい顔で答えた。


 朔は思わず苦笑した。


 与七がこれほど一方的に振り回されるところは、初めて見た。


 梔子は肩を調べ終えると、薬草を煎じた湯で布を湿らせた。


「骨が大きくずれている様子はありません。ただし、肩の周りを強く痛めています。無理をすれば長く腕が使えなくなるかもしれません」


「それほど悪いのか」


「よい傷ではありませんね」


 梔子は布で擦り傷を清め、肩を固定するように帯を巻いた。


 与七が顔をしかめる。


「……おぬし、ずいぶん手慣れておるな」


「怪我人はよく見ておりますから」


「薬売りが、これほど忍びの傷を扱うものか?」


 梔子の手が一瞬止まった。


 だが、すぐに作業を再開した。


「忍びも武士も、傷つけば同じ人間でございますよ」


 与七は黙った。


 朔は、そのやり取りを見逃さなかった。


 この女は、忍びを相手にした経験がある。


 しかも一度や二度ではない。


 梔子は手当てを終えると、余った包帯を畳んだ。


「今夜はなるべく動かさないことです」


「今夜は休めそうにござらぬ」


 朔が答えると、梔子は小窓へ視線を向けた。


「そうでしょうね」


「……何?」


「そろそろ、お客様が来る頃でしょうから」


 朔の背筋が冷たくなった。


 その言葉を聞き返そうとした瞬間、梔子は右手を差し出した。


「さて。お約束の密書を」


 朔は竹筒から和紙を取り出した。


 自分の処刑命令が記された紙である。


 梔子はそれを見るなり、表情を変えた。


 ほんの一瞬だった。


 しかし、朔は見逃さなかった。


「……知っておられるのか」


「何を?」


「この印でござる」


 梔子は答えず、和紙の上部を見つめた。


 黒い円の中に、三本の線が交差する朱印。


 影綱の上位評定が重要な命令を下す際に使う印だった。


 梔子は指先を近づけ、紙に触れないまま線の形を追った。


「……やはり」


 小さくつぶやいた。


 朔は身を乗り出した。


「何が、やはりなのでござる」


「この印、本物ですね」


「分かるのでござるか」


「少なくとも、印そのものは」


「では、命令も本物ということでござるな」


「それは違います」


 梔子は即座に否定した。


「印が本物であることと、命令が正当なものであることは別です」


 朔は眉をひそめた。


「どういう意味でござる」


「例えば、城主の印を持つ者が、勝手に文書へ押したといたしましょう。その文書は城主の命令になりますか?」


「……ならぬ」


「そういうことです」


 梔子は和紙の端を指さした。


「この印は、確かに影綱の上位評定で使われるものです。しかし、その印を押した者が、必ずしも評定全体の意思を受けているとは限りません」


 朔は息をのんだ。


 今まで、そのように考えたことはなかった。


 影綱の朱印があれば、正式な命令。


 そう教えられてきたからだ。


「では、何者かが印を盗んだのでござるか」


「その可能性もございます」


「ほかには?」


「印を使う資格のある人物が、誰にも知らせず命令を出した可能性も」


 朔は黙った。


 上位評定の誰かが、独断で自分の暗殺を命じた。


 そういうことなのか。


 しかし、それならばなぜ多数の忍びが命令に従っているのだろう。


 梔子はさらに和紙を見つめた。


「この墨……」


「墨がどうかいたしたか」


「色が違います」


「何?」


「本文の文字と、最後の命令文。使われている墨が違うのです」


 朔は慌てて紙を覗き込んだ。


 確かに、よく見ると後半の文字だけがわずかに青みを帯びている。


 だが、普通なら気づかないほどの違いだった。


「……まさか」


 梔子は静かに言った。


「命令書が書かれたあと、何者かが一部を書き加えた可能性があります」


 朔の心臓が速く打ち始めた。


「どの部分でござる」


 梔子は、指先で一行を示した。


 ――密書受領後、速やかに処分せよ。


 朔はその文字を見つめた。


 自分の命を奪う、最も重要な一文。


 そこだけが、別の墨で書かれている。


「……これが、後から加えられたと申すか」


「断定はできません。ただ、調べる価値はございます」


 梔子の声は冷静だった。


 だが朔には分かった。


 彼女は何かを知っている。


 ただの推測ではない。


 この印も、墨の違いも、何を意味しているのか理解したうえで話している。


「梔子殿」


「何でしょう」


「おぬしは、影綱の者ではござらぬのか」


 梔子は微笑んだ。


「違います」


「では、なぜ影綱の内部事情を知っておられる」


「薬売りは、さまざまなお客様のお話を聞くものですから」


「それでは答えになっておらぬ」


「そうでしょうか」


 朔は小刀の柄へ手を当てた。


「それがしは、もう騙されとうござらぬ」


 梔子の笑みが消えた。


 しばらく、二人は見つめ合った。


 やがて女は静かに言った。


「……鴉羽朔殿」


 朔は息をのんだ。


「それがしの名まで……」


「あなたが何者なのか、存じております」


「いつからでござる」


「初めてお会いしたときからです」


 霞ヶ城へ向かう山道。


 薬を売ろうと声をかけてきた女。


 あのときから、すでに自分の正体を知っていたというのか。


 朔は小刀を抜きかけた。


 しかし梔子は動かなかった。


「刀を抜くなら、どうぞ」


 その声には、わずかな冷たさがあった。


「ただし、それではあなたが知りたいことは何も分かりませんよ」


 朔は歯を食いしばった。


 そして、ゆっくりと柄から手を離した。


「……よろしい。話を聞かせてくだされ」


 梔子はうなずいた。


「あなたの名を使って、霞ヶ城へ密書を届けた者がいるそうですね」


 朔の目が見開かれた。


「そのことまで知っておられるのか!」


「ええ」


「誰でござる!」


 梔子は少しだけ目を伏せた。


 答えるまでに、わずかな間があった。


「……それは、まだ申し上げられません」


「なぜじゃ!」


「確かめねばならないことがございます」


「それがしは、その者のために命を狙われておるのだぞ!」


「存じております」


「ならば、教えてくだされ!」


 梔子は首を横へ振った。


「今は、まだ」


 朔は怒りを抑えきれなかった。


 誰もが何かを隠している。


 師匠も、影綱も、目の前の女も。


 その秘密のために、自分の命が狙われている。


「……おぬしも同じでござるな」


 朔は低くつぶやいた。


「影綱の者と、何も変わらぬ」


 梔子の表情がわずかに曇った。


 しかし反論はしなかった。


 そのときだった。


 小屋の外から、かすかな音が聞こえた。


 コツ。


 乾いた木片が、石に触れるような音だった。


 梔子が顔を上げた。


 それまでの穏やかな表情が消えた。


「……お静かに」


 朔は口を閉じた。


 与七も身を起こす。


 梔子は小窓へ近づき、外を覗いた。


 そして、小さく息を吐いた。


「遅かったようですね」


「何がでござる」


 梔子は振り返った。


「追っ手です」


 朔は小刀を抜いた。


「何人でござる」


「……四人」


 与七が立ち上がろうとした。


「四人なら、どうにか――」


「おやめなさい」


 梔子は即座に制した。


「あの者たちは、あなた方がこれまで相手にしてきた忍びとは違います」


 朔は女の顔を見た。


「どういう意味でござる」


 梔子は静かに答えた。


「影綱の暗殺専門部隊です」


 そして、初めて恐怖を隠さぬ声で続けた。


 「あの者たちは、仲間を殺すために育てられた忍びなのです」



つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。