第6話 三本の線が交差する朱印
小屋の中には、乾燥させた薬草の匂いが漂っていた。
壁には束ねた草が吊るされ、棚には薬瓶や木箱が並んでいる。
片隅には寝具が二組。
囲炉裏には小さな火が残っていた。
朔は部屋の中を見渡した。
入口は一つ。
裏側に小窓が二つ。
床板の下には、何かを収納できそうな空間がある。
そして、壁に立てかけられた竹の杖。
薬売りの女が一人で暮らすには、少しばかり用心深すぎる造りだった。
「こちらへ座ってください」
梔子は与七を囲炉裏の前へ座らせた。
「着物を少し緩めますよ」
「……承知した」
与七が苦しそうに右肩を出す。
梔子は傷の周囲を慎重に触れた。
「痛みますか?」
「うっ!」
「こちらは?」
「ぐっ……!」
「では、ここは?」
「痛いに決まっておろう!」
「元気なお方ですね」
梔子は涼しい顔で答えた。
朔は思わず苦笑した。
与七がこれほど一方的に振り回されるところは、初めて見た。
梔子は肩を調べ終えると、薬草を煎じた湯で布を湿らせた。
「骨が大きくずれている様子はありません。ただし、肩の周りを強く痛めています。無理をすれば長く腕が使えなくなるかもしれません」
「それほど悪いのか」
「よい傷ではありませんね」
梔子は布で擦り傷を清め、肩を固定するように帯を巻いた。
与七が顔をしかめる。
「……おぬし、ずいぶん手慣れておるな」
「怪我人はよく見ておりますから」
「薬売りが、これほど忍びの傷を扱うものか?」
梔子の手が一瞬止まった。
だが、すぐに作業を再開した。
「忍びも武士も、傷つけば同じ人間でございますよ」
与七は黙った。
朔は、そのやり取りを見逃さなかった。
この女は、忍びを相手にした経験がある。
しかも一度や二度ではない。
梔子は手当てを終えると、余った包帯を畳んだ。
「今夜はなるべく動かさないことです」
「今夜は休めそうにござらぬ」
朔が答えると、梔子は小窓へ視線を向けた。
「そうでしょうね」
「……何?」
「そろそろ、お客様が来る頃でしょうから」
朔の背筋が冷たくなった。
その言葉を聞き返そうとした瞬間、梔子は右手を差し出した。
「さて。お約束の密書を」
朔は竹筒から和紙を取り出した。
自分の処刑命令が記された紙である。
梔子はそれを見るなり、表情を変えた。
ほんの一瞬だった。
しかし、朔は見逃さなかった。
「……知っておられるのか」
「何を?」
「この印でござる」
梔子は答えず、和紙の上部を見つめた。
黒い円の中に、三本の線が交差する朱印。
影綱の上位評定が重要な命令を下す際に使う印だった。
梔子は指先を近づけ、紙に触れないまま線の形を追った。
「……やはり」
小さくつぶやいた。
朔は身を乗り出した。
「何が、やはりなのでござる」
「この印、本物ですね」
「分かるのでござるか」
「少なくとも、印そのものは」
「では、命令も本物ということでござるな」
「それは違います」
梔子は即座に否定した。
「印が本物であることと、命令が正当なものであることは別です」
朔は眉をひそめた。
「どういう意味でござる」
「例えば、城主の印を持つ者が、勝手に文書へ押したといたしましょう。その文書は城主の命令になりますか?」
「……ならぬ」
「そういうことです」
梔子は和紙の端を指さした。
「この印は、確かに影綱の上位評定で使われるものです。しかし、その印を押した者が、必ずしも評定全体の意思を受けているとは限りません」
朔は息をのんだ。
今まで、そのように考えたことはなかった。
影綱の朱印があれば、正式な命令。
そう教えられてきたからだ。
「では、何者かが印を盗んだのでござるか」
「その可能性もございます」
「ほかには?」
「印を使う資格のある人物が、誰にも知らせず命令を出した可能性も」
朔は黙った。
上位評定の誰かが、独断で自分の暗殺を命じた。
そういうことなのか。
しかし、それならばなぜ多数の忍びが命令に従っているのだろう。
梔子はさらに和紙を見つめた。
「この墨……」
「墨がどうかいたしたか」
「色が違います」
「何?」
「本文の文字と、最後の命令文。使われている墨が違うのです」
朔は慌てて紙を覗き込んだ。
確かに、よく見ると後半の文字だけがわずかに青みを帯びている。
だが、普通なら気づかないほどの違いだった。
「……まさか」
梔子は静かに言った。
「命令書が書かれたあと、何者かが一部を書き加えた可能性があります」
朔の心臓が速く打ち始めた。
「どの部分でござる」
梔子は、指先で一行を示した。
――密書受領後、速やかに処分せよ。
朔はその文字を見つめた。
自分の命を奪う、最も重要な一文。
そこだけが、別の墨で書かれている。
「……これが、後から加えられたと申すか」
「断定はできません。ただ、調べる価値はございます」
梔子の声は冷静だった。
だが朔には分かった。
彼女は何かを知っている。
ただの推測ではない。
この印も、墨の違いも、何を意味しているのか理解したうえで話している。
「梔子殿」
「何でしょう」
「おぬしは、影綱の者ではござらぬのか」
梔子は微笑んだ。
「違います」
「では、なぜ影綱の内部事情を知っておられる」
「薬売りは、さまざまなお客様のお話を聞くものですから」
「それでは答えになっておらぬ」
「そうでしょうか」
朔は小刀の柄へ手を当てた。
「それがしは、もう騙されとうござらぬ」
梔子の笑みが消えた。
しばらく、二人は見つめ合った。
やがて女は静かに言った。
「……鴉羽朔殿」
朔は息をのんだ。
「それがしの名まで……」
「あなたが何者なのか、存じております」
「いつからでござる」
「初めてお会いしたときからです」
霞ヶ城へ向かう山道。
薬を売ろうと声をかけてきた女。
あのときから、すでに自分の正体を知っていたというのか。
朔は小刀を抜きかけた。
しかし梔子は動かなかった。
「刀を抜くなら、どうぞ」
その声には、わずかな冷たさがあった。
「ただし、それではあなたが知りたいことは何も分かりませんよ」
朔は歯を食いしばった。
そして、ゆっくりと柄から手を離した。
「……よろしい。話を聞かせてくだされ」
梔子はうなずいた。
「あなたの名を使って、霞ヶ城へ密書を届けた者がいるそうですね」
朔の目が見開かれた。
「そのことまで知っておられるのか!」
「ええ」
「誰でござる!」
梔子は少しだけ目を伏せた。
答えるまでに、わずかな間があった。
「……それは、まだ申し上げられません」
「なぜじゃ!」
「確かめねばならないことがございます」
「それがしは、その者のために命を狙われておるのだぞ!」
「存じております」
「ならば、教えてくだされ!」
梔子は首を横へ振った。
「今は、まだ」
朔は怒りを抑えきれなかった。
誰もが何かを隠している。
師匠も、影綱も、目の前の女も。
その秘密のために、自分の命が狙われている。
「……おぬしも同じでござるな」
朔は低くつぶやいた。
「影綱の者と、何も変わらぬ」
梔子の表情がわずかに曇った。
しかし反論はしなかった。
そのときだった。
小屋の外から、かすかな音が聞こえた。
コツ。
乾いた木片が、石に触れるような音だった。
梔子が顔を上げた。
それまでの穏やかな表情が消えた。
「……お静かに」
朔は口を閉じた。
与七も身を起こす。
梔子は小窓へ近づき、外を覗いた。
そして、小さく息を吐いた。
「遅かったようですね」
「何がでござる」
梔子は振り返った。
「追っ手です」
朔は小刀を抜いた。
「何人でござる」
「……四人」
与七が立ち上がろうとした。
「四人なら、どうにか――」
「おやめなさい」
梔子は即座に制した。
「あの者たちは、あなた方がこれまで相手にしてきた忍びとは違います」
朔は女の顔を見た。
「どういう意味でござる」
梔子は静かに答えた。
「影綱の暗殺専門部隊です」
そして、初めて恐怖を隠さぬ声で続けた。
「あの者たちは、仲間を殺すために育てられた忍びなのです」
つづく




