第9話 山中の小さな炭焼き小屋
三人がようやく足を止めたのは、山を一つ越えた場所だった。
すでに夜半を過ぎていた。
木々の間から、遠くの村の明かりが見える。
西へ続く古い炭焼き道だった。
朔は大きく息を吐いた。
足が震えていた。
腹の痛みも、ますます強くなっている。
与七はその場へ座り込み、肩を押さえた。
梔子はすぐに包帯を確かめた。
「……無茶をなさいますね、お二人とも」
朔は苦笑した。
「忍びとは、無茶をする稼業にござる」
「それは存じております」
梔子は呆れたように答えた。
与七は息を整えながら、朔を見た。
「……戻ってくるとは思わなんだ」
「それがしも、戻るつもりはなかった」
「ならば、なぜ」
朔はしばらく考えた。
そして静かに答えた。
「……おぬしが死ぬところを、見とうなかったのでござる」
与七は何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「まことに、忍びに向かぬ男じゃ」
「よく申される」
「されど……」
与七は朔へ目を向けた。
「そのような男だからこそ、わしはおぬしと共に修行してこられたのかもしれぬな」
朔は黙ってうなずいた。
だが、心の中では別のことを考えていた。
先ほどの刈手衆。
自分は、あの男に一撃すら与えられなかった。
剣を抜いた瞬間に制圧された。
もし梔子がいなければ、あの場で殺されていただろう。
今まで、朔は変装や観察力があれば忍びとして十分に働けると思っていた。
実際、密書運びでは何度も成功してきた。
しかし、組織から追われる身になった今、その考えが甘かったと思い知らされていた。
敵に見つからないことと、見つかったあとに生き残ることは違う。
朔は自分の手を見つめた。
震えていた。
恐怖のためだった。
「……強くならねばならぬ」
朔は小さくつぶやいた。
梔子が顔を上げた。
「何かおっしゃいましたか?」
「それがしは、あまりにも弱い」
朔は答えた。
「このままでは、誰も守れぬ」
梔子はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「強さとは、刀の腕前だけではありませんよ」
「……何?」
「あなたは、あの者たちより弱かった。ですが、生き残りました」
「梔子殿のおかげにござる」
「それだけではありません」
梔子は朔を見つめた。
「あなたは自分が勝てない相手だと知り、逃げることを選んだ。それは愚かなことではありません」
朔は黙っていた。
「忍びは、最後まで生きて情報を持ち帰ることが大切です。敵を倒しても、自分が死んでしまっては何も伝えられませんから」
朔は顔を上げた。
その言葉は、かつて師匠に教わったことと似ていた。
黒瀬伊織も、よく同じようなことを言っていた。
朔は梔子を見つめた。
「……おぬし、やはり忍びではござらぬのか」
梔子は微笑んだ。
「ただの薬売りです」
朔はため息をついた。
「その言葉を信じるには、あまりに腕が立ちすぎる」
「褒め言葉として受け取っておきます」
梔子は笑った。
その笑顔が本心なのか、朔には分からなかった。
やがて、三人は山中の小さな炭焼き小屋へたどり着いた。
今は使われておらず、中には古い薪が積まれているだけだった。
朔は戸口から外を見張り、梔子は与七の傷をもう一度手当てした。
与七は痛みに耐えながら、朔へ尋ねた。
「ところで、朔」
「何じゃ」
「あのとき投げた竹筒は、まことに密書だったのか」
朔は懐から竹筒を取り出した。
与七が目を丸くした。
「……まだ持っておったのか!」
「無論じゃ」
「では、投げたものは?」
「薬を入れる空の竹筒にござる」
与七は梔子を見た。
梔子は涼しい顔で微笑んでいた。
「私が用意いたしました」
「いつの間に!」
「小屋を出る前ですよ」
与七は呆れた。
「おぬしら、いつの間にそのような相談をしておった」
朔は苦笑した。
「相談などしておらぬ。梔子殿が目で合図なされたゆえ、そういうことかと考えたまで」
与七は大きくため息をついた。
「……まことに恐ろしい二人じゃ」
梔子は小さく笑った。
しかし朔は笑わなかった。
密書は守れた。
だが、それだけだ。
自分の処刑命令を下した者の正体は分からない。
霞ヶ城へ密書を届けたという偽の自分についても、何一つ分かっていない。
そして何より、影綱の暗殺部隊が動き始めた。
刈手衆。
あの者たちは、普通の追っ手とは違う。
生き残るためには、今まで以上に慎重にならなければならない。
朔は梔子へ向き直った。
「梔子殿」
「何でしょう」
「もう一度だけ、お尋ねいたす」
「はい」
「おぬしは、誰のために動いておられる」
梔子は答えなかった。
朔は続けた。
「それがしを助けた理由も、密書を調べた理由も、何も説明しておられぬ。影綱とは無関係と申されるが、どうにも信じられませぬ」
梔子は静かに朔を見つめた。
しばらくして、口を開いた。
「……探しているものがございます」
「何をでござる」
「古い記録です」
「記録?」
「かつて、ある村が戦で滅びました。その村の人々がどうなったのか、確かめたいのです」
朔は眉をひそめた。
「なぜ、それがしに関係するのでござる」
梔子は一瞬だけ目を伏せた。
「あなたの密書に押されていた印。その印を、私は以前にも見たことがあるのです」
「……どこで」
梔子は静かに答えた。
「その村が滅びる直前に届いた命令書に」
朔は息をのんだ。
黒い円に、三本の線。
影綱の上位評定の印。
それが、村の滅亡に関係しているというのか。
「……影綱が、その村を滅ぼしたのでござるか」
「分かりません」
梔子は首を横へ振った。
「だから調べているのです」
朔は黙った。
初めて、梔子が自分を助けた理由の一端が見えた気がした。
彼女もまた、影綱に関する何かを追っている。
そして、その手掛かりが自分の密書にあるのだ。
「……なるほど」
朔は小さくうなずいた。
「おぬしも、影綱の秘密を知りたいのでござるな」
「そういうことです」
「ならば、目的は同じかもしれませぬ」
梔子は微笑んだ。
「ええ。今のところは」
その言葉が、朔には妙に引っかかった。
今のところ。
つまり、いずれ目的が違うと分かれば、敵になるかもしれないということなのか。
しかし、それ以上は問い詰めなかった。
今は協力するほかない。
朔は竹筒を懐へしまった。
「では、しばらく共に参ろう」
「よろしいのですか?」
「信用したわけではござらぬ」
朔は真顔で答えた。
「ただ、それがし一人では生き残れぬことが分かっただけにござる」
梔子は少しだけ驚いたような顔をした。
そして静かに笑った。
「……あなたは、不思議なお方ですね」
「よく申される」
朔はため息をついた。
「それがしは、ただの下忍にござる」
梔子は何も答えなかった。
ただ、その言葉を聞いた瞬間、わずかに表情が変わった。
まるで、何かを知っているかのように。
つづく




