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第三話

第三話


 デートまでの間もヨシとはSNSで連絡を取り合った。文面のヨシはやっぱりどこか素っ気ないが、それでも「オレ」とのやりとりや以前と比べると優しく見える。胸に刺さったままチクチクと痛む、この小さなトゲみたいなものは罪悪感ということにして、このお遊びもそろそろ潮時かな、なんて考えていた。とり返しが付かなくなる前に引き返さなければ。

 デートの前日は姉ちゃんと喋る気にならなくて、一人で酒を飲んだ。


 デート当日、家を出るタイミングでヨシと鉢合わせないように、早めに家を出るつもりで起きた。姉ちゃんはなんだかんだ言って、毎回乗り気でオレにメイクや髪をやってくれる。今日も女としてヨシと出かけてくる、とだけ伝えてあった。

「あたし妹って憧れだったんだよね〜。妹いたらこんな感じだったのかなぁ。んで、今日はどうする?水族館でしょ?ショーとか見るんなら髪はアップにする?」

「オレにはよくわかんないから任せる。」


 髪は緩くおだんご(最近は「シニョン」というらしい)にしてもらい、トータルコーディネートも任せる。メイクもしてもらって、家を出るというとき、珍しく姉ちゃんが玄関まで送りに来た。

「いってらっしゃい、せっかくなんだし楽しんで来なよ。」

「…ん、ありがと。」

姉という生き物は末恐ろしい。一体何をどこまで知っての行動なのかは分からないが、オレはどうやら心配されているようだ。

 道すがら、姉ちゃんの言葉を反芻していた。「楽しんで来なよ」。そうだ、元はと言えばヨシをちょっと揶揄ってやろうと思って始めたことなのだ。そこに色々あって、罪悪感とか恐さとか、得体の知れない感情が乗っかって複雑な気持ちになっていたけど、始まりは楽しい気持ちだったはずだ。それに今だって、ただヨシと水族館に遊びに行くだけ、子供のころに一緒に行ったこともある。気心の知れた親友とデートだなんて、最高ではないか。

 なんて誰にするでもない言い訳をしながら集合場所の駅に着く。そうだ、今日はもう目一杯楽しんでやろう。

 時間までは三十分以上ある。柱の前に立って、どこかで時間を潰そうか、などと考えていたら前から親友が小走りで近づいてくるのが見えた。

「ごめん、待ったか?」

息を整えながら聞いてくるヨシの台詞があまりにもデートの“それ”なので思わず笑ってしまう。サラサラの前髪をワックスでアップにしたスタイルは、デートのためだろう、初めて見る髪型だった。

「『今来たところ』です。まだ約束の時間まで三十分はあるんだから、謝らなくていいんですよ。随分早いですね。」

「薫ちゃんこそ。俺より早く来ているとは思わなかった。」

オレの中で完全に気持ちの切り替えが出来た気がした。

「楽しみだったので早く来ちゃったんです!せっかくですから、早めに出発しましょう!」

オレはヨシの筋張った手をとって歩き始める。ヨシは頬を染めてそっと視線を逸らした。


 水族館は家族連れやカップルで賑わっている。普段のオレなら人混みでも頭ひとつ分抜けて見渡せるが、「薫」はそうではない。エントランスを抜けてすぐに、映画館のスクリーンくらいありそうな大きさの水槽が置かれており、中では生い茂った水草の間を様々な小魚が暮らしている。

「水族館って感じがする〜!」

オレはテンションが上がってきて、館内をキョロキョロと見回す。水槽の周りは人だかりが出来ていた。

「ヨシユキさん、ほら!」

オレはヨシに自分の手を差し出す。

「はぐれないように!」

ヨシは慎重にオレの手をとった。

 順路に従って歩いて行くとクラゲのコーナーに入る。昔は、クラゲは綺麗だけどなぜこんなに人気があるのか分からなかったが、今なら分かる。間接照明で薄暗い中を寄り添って進む。周りには美しく彩られたクラゲ。これはムードなのだ。まさにデートにうってつけである。色とりどりの照明に照らされたクラゲはどれも綺麗だったけど、オレは真ん中のデカい水槽に静かに揺蕩うヒレの長いクラゲが気に入った。ヨシに見せようと顔を上げるとヨシと目が合う。これ、綺麗ですよ!と言ってオレが指差した方に目を向けるヨシの横顔もライトで彩られていた。

 ヨシと綺麗だね、なんて言い合いながらゆっくり進んでいると、女性の客二人組がこちらをチラりと見やりながら話しているのが聞こえた。

「あのカップルさぁ、」「あぁ、あのメガネの彼氏の?」

お、これはオレたちのことか?何故か噂されているらしい。オレたちも“カップル”に見えているのか。ヨシはこんな美少女とカップルとして歩けて良かったなぁ。オレはなぜだか少し誇らしげな気持ちだった。

 クラゲのコーナーを抜けると、珍しい生き物の展示や深海魚、小さなカニなどを間近でみられるコーナーなどなどが続く。ひとつひとつ眺めるうちにどんどん浮き足立ってくる。水族館ってこんなに面白いんだったか。今度は建物二階分をぶち抜いたみたいな大きな水槽に、ありとあらゆる海の生き物が暮らしていた。この階はその水槽の上半分しか見えておらず、下の階に降りると水槽を真横から見られる構造になっているようだ。思わず「すげぇ」と口から溢れる。

「この水槽にはジンベエザメもいるらしいよ。」

ヨシがパンフレットを見ながら教えてくれる。

「サメ?!見たい!早く!見やすいところに行きましょう!」

オレはデカい生き物が好きなので当然サメも好きだ。ヨシを引っ張って大階段を駆け降りる。人だかりでよく見えないと思って人の少ない端の方から水槽に近寄ったが、サメは見当たらない。サメ……。

「あっち側なら人も少ないし見やすいかもしれない。」ヨシが指差した方は確かに穴場になっているらしい。「行ってみましょう!」

 そのあたりはこの水槽の中でも奥まったところにあり、アーチ状のトンネルは一面が水槽になっていて、まるで海の中にいるみたいだった。壮観にぐるりと辺りを見渡す。すると、ちょうどオレの真上を大きな影がするりと通り過ぎた。オレは影を追いかけて水槽に貼り付き、興奮気味に声を上げる。

「サメだ!!ヨシ!…ユキさん!!見ましたか?!サメです!」

……まずい、ちょっとはしゃぎすぎた。普段の「オレ」なら気にすることではないが、これはデートなのだ。引かれていないだろうか?そっとヨシの方を見る、その瞬間。


 時が止まったみたいだった。


 ヨシは、水槽でも、サメでも、他の客でもない、オレを見ていた。

 優しく微笑んだ唇も、穏やかな目元も、熱のこもった視線も、薄く紅潮した頬も、オレに向けられている全て、そのひとつひとつが、オレの身体中の熱をかき集めて沸騰させようとしてくる。まるで、まるで「愛しくて堪らない」と言うような……。

 オレはぶつかった視線を逸らすことができなかった。集まってきた熱が耳の先まで到達する。その時間たっぷり使って、オレは「ヨシが好きだ」と思った。

 どれくらいの間そうしていたのか分からない。十分だったのか、それとも一秒だったのか。ヨシはオレの方に近づいてきて、顔の近くで「良かったな」と言った。ヨシの言葉を受け取った耳が熱い。耐えられなくなって視線を水槽に向ける。ヨシは返事をしないオレを心配そうに覗き込んだ。

「どうした?大丈夫か?“薫ちゃん”」

 低く落ち着いた声でその名前を呼ばれた瞬間、水を打ったように全身の血の気が引いた。騒がしかった心臓も、生きているのか分からないくらいに静まり返る。

 そうだった、この表情は「オレ」に向けられたものではない。この熱を貰っているのは、「薫」だ。

 この現実が痛いくらいに深く突き刺さった。必死に気を持ち直してぎこちなく笑う。

「いえ、なんでもないんです。ちょっと疲れちゃったかな?」

「……!気づかなくてごめん、ちょっと休憩するか。あっちの方に座れるところあったから。」

ヨシはオレの白くて華奢な手をそっととって、歩き始めた。


 頭がおかしくなりそうだった。

 その後も、オレが疲れていないか気遣ってくれたり、人混みでさっと手を繋いでくれたり、屈んで目線を合わせてくれたり、人とぶつかりそうな時にそっと抱き寄せたり(これが一番ヤバい)、そんなヨシの言動ひとつひとつにドキドキして、全身が熱くなって、「オレ」じゃなくて「薫」に向けられた行動だって思い返して血の気が引いて。サウナみたいに熱と冷を繰り返して、オレの心臓はもう限界だった。恋を自覚してから失恋までの時間が短すぎる。ギネス世界記録に載せてくれ。それでもヨシといるのはやっぱり楽しくて、ぐちゃぐちゃと混ざった感情に体力を吸われ続けていた。

 結局、オレは体力も気力も使い果たして、数時間後には限界を迎えていた。ヨシには悪いがこのあたりでお開きとさせてもらおう。帰りの電車ではすっかり眠ってしまって、電車の揺れと肩から伝わる隣の温もりだけがオレを包んでいた。


 気持ちを自覚した直後に失恋したオレは、もうこれ以上薫で会うことはできないと感じていた。ヨシには悪いが、種明かしをする余裕も無い。DMで簡単にお礼ともう会えないということを伝える。他に何を言うべきか、文字を打ち込んでは消す。……やっぱりSNSはログアウトした。身勝手で本当にごめん。

 それでも「オレ」はヨシと会わなければならない。薫としてでなければ、今まで通りに親友としてであれば大丈夫だろうと思っていた。

 デートの日から数日あいて、同じ講義に一緒に登校する日。家の向かいでオレを待つヨシがいる。いつも通りに声をかけようと思ったのに、ヨシを見ただけで鼓動が早くなって声が上手く出ない。女の状態でなければ、「薫」の状態で無ければ恋心なんて忘れちゃって、無かったことにできるかも、なんて淡い期待は打ち砕かれる。なんでだよ、今までこんなこと無かっただろ。相手は幼馴染で親友のヨシだぞ、今はオレも男なんだから、こんなに緊張する必要ないはずなのに。

「……おはよ。」なんとか声を絞り出す。

「おはよう。どうした?疲れているのか?顔色が悪いな。」

ヨシはいつも通りのはずなのに、なんだか声が優しい気がするし、いつもよりも心配してくれている気がする。……好きになった途端にヨシの全てが愛おしく見える。

「そういえば、バイト先で女の子に連絡先を聞かれたという話をしただろう。この前二人で遊びに行ったのだが、その日以来連絡が来なくなってしまったんだ。やっぱり恋愛というのは難しいな。」

大きく鼓動が跳ねる。

「…へぇ、そうなんだ。……そのデート、ヨシ的にはどうだった?楽しかった?」

気がついたら口から出ていた。こんなこと知りたいけど知りたくない。

ヨシはくすりと笑った。

「あぁ、楽しかったよ。その子の新しい一面みたいなのも見られたし、その子が楽しそうだったから嬉しかった。……でもやっぱり、体力とか体格とか、俺たちとは違うな。あんなに細くて小さいと心配になるよ。」

オレは視線を向けることができなかった。それでも、ヨシが今どんな表情をしているのか痛いほど分かる。下を向くとヨシが視界に入ってしまうので、ただでさえ空に近いオレはさらに空に顔を向ける。空に自分の厚みのある手をかざした。

「そうか、楽しかったなら良かったな。」

オレは精一杯の力をかき集めてそう言った。

 こんな手では、空には届きそうになかった。

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