第92話 遺志を継ぐため
13.
その少し後の時間。
レニの入浴に付いていこうとするリオを、マルセリスが引き留めた。
「レニ、リオと少し話をしていい?」
「もちろんっ」
レニは大きく頷くと、着替えや体を洗う布を手にしたリオのほうを振り返る。
マルセリスが、きっとリオの中にわだかまっている学府に入ることへの不安を払拭してくれる。
年の割には幼さが残るレニの顔は、従姉妹に対する曇りのない信頼で輝いていた。
「リオ、マールに学府について色々聞いておきなよ」
「レニさまのご入浴のお世話が終わりましたら伺います」
リオは、控えめだがはっきりとした口調で答える。
ごく当たり前のことを話すようなリオとは対照的に、レニは顔を赤くした。
王族や高位の貴族の入浴に、端女や奴僕が世話係として付くことは当たり前のことだ。
だがレニは、王宮にいたころから周りに人を極力寄せ付けないようにしていたため、世話をされることに慣れていなかった。
二人は幼馴染みで故郷から家出してきた、という設定にそぐわないリオの献身ぶりに、旅先で出会う人たちが、微笑ましさを通り越して怪訝そうな顔をすることも気になっていた。
だが、それ以上に問題なのは。
レニは顔を赤くしたまま、密かに考える。
リオに身の回りの世話をされることが、とにかく恥ずかしい。
リオは、自分は主人であるレニの持ち物に過ぎない、という意識なので、レニの身支度から、着替えの用意、寝所の支度、食事の給仕まですべてを当然のようにこなす。
旅に出た当初はここまで面倒を見てもらっていただろうか、という疑問が時折浮かぶが、リオが余りに自然に世話をこなすので自分の記憶のほうが間違っているような気がしてくる。
最近はリオに面倒を見てもらうたびに「イリアスに対しても、同じようにしていたのだろうか?」というモヤモヤした気持ちがわいてきて、どうも素直に受け取れない。
レニの中で様々な思惑や感情が絡み合っており、リオに気持ちを伝えるまでは少し距離を取れたほうがありがたかった。
「わ、私なら大丈夫」
レニはマルセリスの顔をチラリと見る。
普段、リオに世話をしてもらっていることをマルセリスに知られることが、何故か気まずく感じられた。
自分の内心のわだかまりを吹き飛ばすように、レニは殊更声を大きくする。
「私の世話なんてしなくていいんだよ。リオは、これから学府の人になるんだから」
レニは、リオの手から素早く着替えと入浴用の布を奪い取る。
「マール、リオをよろしく。学府のこととか勉強のこととか、いっぱい教えてあげて。私はゆっくりしてくるから」
そう言ってすぐに顔をそらしたために、空っぽの腕をぼんやりと見つめるリオの表情には気付かなかった。
14.
そそくさと浴場に向かうレニの姿を、その場から動かずに見送るリオに、マルセリスは声をかける。
「リオはレニの侍女だったの? 凄く仲がいいのね」
座るように促されて、リオはようやく動き、椅子に腰掛けた。
しばらくその姿勢のままでいた後、リオは視線を下に向けたまま呟いた。
「私はエリュアで生まれました」
そこでいったん口をつぐみ、静かな声で付け加える。
「王都では、陛下の……イリアス様から寵を賜っておりました」
リオの言葉を聞くマルセリスの表情に驚きはなかった。
王公貴族と遜色のない所作と教養を身につけながら、その身分にない者。その上、類いまれな容色を持つのであれば、どういった身の上かは想像がつく。
「レニは陛下のお許しを得て旅に出た、と言っていたけれど、リオもそうなの?」
しばらくの静寂の後、リオはわかるかわからないかほど微かに首を振った。
マルセリスは呟いた。
「レニは、あなたが陛下に黙って宮廷を出たことを知らないのね?」
動かないリオの姿を見つめて、マルセリスは穏やかな口調で続ける。
「私はお会いしたことはないけれど、陛下……イリアス様は、とても聡明で立派なかただと聞いたわ。レニを重荷から解放してくれたかただもの。きっと、悪いかたではないのでしょう。それでもリオにとって、王都での暮らしは辛かったのかしら? レニと二人で旅に出たくなるほど?」
リオはしばらく黙ったあと、小さな声を唇から落とした。
「陛下は、お優しく立派なお方です。私のような卑しい者には勿体ないほどの……慈しみとご厚情をいただいておりました」
マルセリスは項垂れたリオの細い姿を見つめたまま、言葉を発した。
「レニはリオ兄さまに鍛えられているけれど、それでも知らない場所を旅するのは大変だと思う。レニ以上に、リオ、あなたにとって負担は大きかったんじゃないかしら」
マルセリスは言葉にはせず、眼差しだけで問う。
長い沈黙の後、リオは口を開いた。マルセリスの耳には、風の中で溶けてしまいそうなほどささやかな声が聞こえてきた。
「レニさまと旅をするのは、とても楽しいです。このまま二人で旅を続けたい、私が望んでいることはそれだけです」
リオの声が僅かに震える。
「ですが、今のままでは私は、レニさまの足出まといにしかなりません」
「リオ、学徒の証を持つかたに認められた人なら、どんな理由であれ私は学府に来て欲しい」
マルセリスの声の響きが変わったことに気付き、リオは顔を上げた。
リオの緑がかった青い瞳に、マルセリスは真っ直ぐな視線を向ける。
「私が学府に来たのは、ルグヴィアの公女という身分を捨てることを示す意味もあったけれど、それ以上にリオ兄さまの遺志を継ぐためなの」
「アイレリオ殿下の?」
リオの言葉に、マルセリスは頷いた。
★次回
第93話「心が動いている。」




