第74話『The Final Morning』夜明けに越えた境界
微睡みの中、有紗は閉じた瞼の向こうに光を感じた。
頭はずっしりと重い。
身体を動かしてみると衣擦れの音がして、シーツの中であることに気が付いた。
有紗は、柔らかいピローに頬を埋める。
喉の乾きがひどくて、昨夜飲み過ぎたことを思い出しながら、うっすらと重い瞼を開くと同時に、いつもと違う気配を感じた。
重い身体はそのままに、部屋の様子を伺うように目を動かした有紗は、壁に映る光の傾斜に視線を止め、ハッと目を見開く。
――ど、どうなってるの?! ここは……
光の差す方向が、いつもとは真逆だった。
昨日まではベッドの左側にあった窓も、その横にあるテーブルセットも、今朝は右側の位置にある。
――えっ……私の部屋じゃ……ない??
有紗は必死で記憶を辿った。
断片的なシーンがちらつくも、座ったまま花火を眺めたあとからの記憶が抜け落ちている。
――……ここは『グランド・フロリディアン』よね? 私の部屋じゃないとしたら……はっ!
ドアの音がして、有紗は咄嗟にシーツの中に潜り込む。
息を潜めながら様子をうかがった。
「アリサ、起きたの?」
その声に、そっと隙間から目だけを出す。
「ジ、ジェンミ……」
「気分はどう?」
ジェンミがぐーんと顔を近づけ、ためらいもなく距離を詰めてくる。
「あ、あの……ここって……」
「ボクの部屋だけど?」
「えっ……ジェンミの……部屋?!」
ジェンミはスッとベッドの際に腰かけて、有紗を覗き込んだ。
「具合でも、悪いの?」
「ううん、だ、大丈夫……」
「なら、顔を見せてよ」
「あ……いや……でも」
「シーツなんてかぶってたら暑いだろ?」
ジェンミは布団に手をかけて、それをはがそうとする。
「わっ!」
有紗はシーツをつかんで抵抗した。
「なにを今さら恥ずかしがってんのさ!」
「だ、だって……」
「ほーら!」
頭だけ出した有紗の髪を、ジェンミは優しく整える。
「お・は・よっ!」
「お、おはよう。あ、あの……私、どうして?」
その言葉に、ジェンミが驚いたように眉をあげた。
「ええっ! ウソだろ?! 何も覚えてないとか?!」
「えっ……なっ、何もってワケでは……ないけど」
「花火を見たことは?!」
「そ、それはもちろん!」
「じゃあ、人混みに酔ってベンチに座ったことは?!」
「それも……まあ、覚えてるかな」
「なら、そこからタクシーに乗ってここに戻ってきたことは?」
「あ……えっと……」
ジェンミは肩を上げてクスッと笑った。
「そこから記憶がないんだね? そりゃそっか! ボクがアリサを抱き上げて、この部屋まで運んだんだから」
「ええっ! 私……また!」
有紗はガクンと肩を落とした。
「酔って……寝ちゃったの……?」
「うん。ランドルフの家では何度か目撃した光景だけど、実際ボクと二人きりの時は初めてだった」
「ごめん……迷惑かけちゃって」
有紗は顔をしかめて布団に突っ伏す。
「それはいいんだけど、ということは……もしかして、そのあとのことも……覚えてないってこと?!」
そう大袈裟に言うジェンミのに、有紗はパッと顔を上げた。
「へ? そのあとの……こと?」
「うん。アリサがこのボクの部屋で朝を迎えた意味だよ」
「え……それはどういう……」
戸惑う有紗に、ジェンミはさらにまくし立てる。
「ええっ!? それをボクに言わせるの?! この爽やかな朝日が降り注ぐ空間で?」
両手を広げて大袈裟に声をあげるジェンミに、有紗の表情が凍りついた。
「え……」
ジェンミはクスッと笑いながら声を潜める。
「布団の中を覗いてみれば?」
有紗は慌ててシーツの中を覗き、息を飲んだ。
「はっ!」
着ていたはずのブラウスを着ておらず、自分がキャミソール姿であることに愕然とする。
有紗はシーツを被ったまま固まった。
「ふっ、ふふふ」
布団の外からジェンミの笑い声が聞こえる。
「ぷっ……あははは」
有紗はまたシーツから目を出した。
「あはは! アリサ、ボクがなんかしたとでも思ったの?! まさか! ボクはフェミニストだよ? いくら相手がアリサでも、泥酔した女の子を襲う趣味なんてないって!」
そう笑いながら、ジェンミは有紗のシーツを引き剥がす。
「わぁっ! ち、ちょっと!」
「ほーら、こんなことしてたら、サラサラのアリサの髪が痛んじゃうじゃない?」
「あ……」
ジェンミがシーツから現れた有紗の髪を整えながら、からかうようにその顔を覗き込んだ。
「ふーん、本気で心配したんだ?」
有紗は、ぎこちなく首を振る。
「い、いえ……べ、別に……」
「ねぇアリサ、どんなことを想像したの? 教えてよ」
悪戯な表情のまま、耳元で囁くジェンミを押し戻しながら、有紗はぎこちなく顔を上げた。
「し……心配なんかしてないわよ。ジェンミのこと、信頼してるし」
「信頼? ああ……それは……」
ジェンミがとっさに表情を歪めて額に手のひらを当てた。
「せっかく信頼してもらって悪いんだけどさ、" 指一本触れてないか " っていうと……そういう訳でもないんだよなぁ……」
有紗は眉をあげる。
「えっ?! あ、ああ……そりゃ、ここまで私を運んでくれたわけだし?」
「いや……そういうことじゃなくて」
有紗は首をかしげながら、同じ言葉を繰り返す。
「そ、そういうことじゃ……なくて?!」
「うん。アリサの服、脱がしたからさ。ボクが」
有紗は目を見開く。
「ぬ、脱がした?!」
「うん。ほら?」
ジェンミの指差す方には、有紗が昨日着ていたブラウスがハンガーにかけられていた。
言葉を失っている有紗を見て、ジェンミはまたもや吹き出す。
「ぷははは! ああダメだ。もう少し引っ張って楽しもうと思ってたのに……アリサの反応が面白すぎる!」
「ち、ちょっとジェンミ! それはどういう……」
戸惑う有紗に、ジェンミはたしなめるように言った。
「あのDiorのブラウスは生地も繊細だし、ボタンも特殊だろ? あれを着たままベッドに入ったら、どうなってたと思う?」
「あ……」
「生地も痛むし、ボタンも失くして、今頃布団をひっくり返してて探し回ってたかもしれないじゃん?」
「まぁ……そうかも」
「だろ? だから、事前にボクが脱がしてあげたってワケ!」
有紗は半信半疑な表情で、また首をかしげる。
「そ、そう……あ、ありがと」
「それに!」
ジェンミはダストボックスを持ち上げて、中身を有紗に見せる。
中には大量のコットンが、ベージュ色に染み着いた状態で入っていた。
「え? これって……」
「メイクしたまま寝かせるわけにはいかないでしょ? だからボクが落とした」
「ええっ! ジェンミが?!」
有紗は両手で挟むように、自分の顔に触れる。
「そう。コットンにクレンジングを含ませて、優しく丁寧にね」
しばらく驚愕の表情でフリーズした有紗は、まるで憑き物が落ちたかのように大きく肩を落とし、ベッドの上で正座すると、そのままジェンミに深々と頭を下げた。
「何から何まで……申し訳ありませんでした」
ジェンミはまた吹き出す。
「くっくっくっ……あははは! いいって! それよりアリサ、ボクへ " 感謝の気持ち " なのか " サービス精神 " なのかわかんないけどさ、いつまでもそんなセクシーなかっこされてちゃあ、さすがのボクでも襲いたくなるかもよ?」
「はっ!」
有紗はハッとしてシーツを胸元まで持ち上げる。
「あはは、冗談だって! アリサ、今朝はルームサービスにしたんだ。和食ブレックファーストをオーダしたから、ダイニングに来て。ほら、とりあえずこれを着てさ!」
そう言ってジェンミは、自分のTシャツを有紗の方に放り投げた。
「あ……ありがとう」
「うん!」
ドアを後ろ手で閉めたジェンミは、ゆっくりと笑みを消す。
重い足取りでダイニングに向かい、ドンとイスに腰掛けると大きく息をついた。
――何も覚えてないんだな……
頭の後ろで手を組み、天井を眺める。
太陽の傾きが浅いからか、まだ湖面の反射はそこになかった。
ジェンミからTシャツを受け取った有紗はその場で袖を通し、ベッドから足を下ろすとバスルームに向かって鏡の前に立った。
アイラインのあともマスカラのあとも残っていないほどに、きれいにメイクオフされていることに驚く。
この洗面台のアメニティを駆使しながら、ジェンミが死体のように眠る自分の顔を丁寧に拭いてくれたのかと思うと、恥ずかしさよりも申し訳なさが勝った。
大きな自責のため息と共に、再び肩を落とした有紗は、髪を整えてダイニングに向かう。
Tシャツ姿の有紗を見て、ジェンミはにっこりと微笑んだ。
「わ! そんなにブカブカなんだ? かわいいね」
恥ずかしそうに俯く有紗を席に誘導する。
「ボクのTシャツをアリサが着てるなんて、なんだか嬉しいな」
そう言って椅子を引いてくれるジェンミを、有紗は申し訳なさそうに見上げた。
「ジェンミ……ホントにありがとう。その……メイクまで落としてもらっちゃうなんて。もう私、恥ずかしいし、情けないし……ジェンミにどうお詫びをしたらいいのか、わかんないよ」
困り顔で顔を伏せる有紗の肩に手を伸ばす。
「そんなの気にしなくていいって! ほら、見てよこの和食御膳。さすがにテンション上がるだろ?! さぁ、食べよう!」
「……うん。いただきます」
「いただきます!」
大きな袖口から伸びる細い腕で行儀よく茶碗と箸を持ち、美しい所作で和食を楽しむ有紗を、ジェンミは静かに見つめる。
昨夜何度も握ったその手に、また今も触れたいと思う衝動を押さえた。
そんな思いもつゆ知らず、有紗は無邪気な表情で大きなだし巻き玉子を頬張る。
「美味しい! アメリカなのにこういったシンプルで繊細な味を出せるシェフもいるのね」
ジェンミは屈託のないその顔を見て微笑む。
「ホントだよね。でもさ、ボクはアリサが作る甘い厚焼き玉子が一番好きなんだけど?」
その言葉に、有紗が目を輝かせた。
「ホントに?! 嬉しい!」
「うん。あの玉子焼きが、ボクとアリサのFirst matchだったからね」
「やだ、対戦相手じゃないんだから!」
「あはは、そうだね」
朝食を終えて、二人はそれぞれの部屋に戻って帰り支度をした。
軽くシャワーを浴びたジェンミは、さして荷物もなく早々に閉じたスーツケースをドアの前に置いて、窓辺の一人掛けソファーにゆったりと腰かけ、ぼんやりと外を眺めていた。
――今日、夢の国から現実へと帰郷する。
夢の国は自分達に何をもたらしたのだろう。
そしてそれによって、その現実はどう変化していくのだろう。
昨夜眠れなかったせいか、気が付けば肘をついたままウトウトしていた。
「ジェンミー! 準備できたよ」
ドアの向こうからの有紗の声にハッとした。
「ああ、ボクもー」
そう返してから立ち上がり、グーンと体を伸ばした。
部屋を出ると、すっかり大人の女性として洗練された出で立ちに変身した有紗が、にこやかに振り返る。
「あれ? ジェンミ、もしかして……」
ジェンミは照れ臭そうに笑う。
「はは。少しウトウトしてた」
「やっぱり。ごめんね、私のせいで」
「大丈夫だって!」
そういいながら有紗の側に立ちスーツケースを受けとると、同じバスフレグランスの香りを感じた。
「よし! じゃあ今日はこの荷物を全部送って、身軽に帰路を楽しもう! なんせ " 最大のアトラクション " が一つ、待ってるからね」
有紗が首をすくめる。
「あはは、それもごめんね。わがまま言っちゃって」
「わがままじゃないって! ボクも久しく乗ってなかったから楽しみだよ。『アムトラック』で帰るなんて、ちょっとワクワクするじゃん?」
「ホント!? よかった!」
「じゃあ、行こうか」
二人は見納めというように部屋の中を見回しながらドアに向かう。
有紗はそのラグジュアリーで美しい空間を心に留め、ジェンミは心の闇をむき出しにした自分の顔を映した窓を一瞥した。
太陽の光を燦々と浴びた湖面に目を細め、その反射を受けた天井の幻想的な幾何学模様を見つけた二人は、最後にそれをしばらく見上げてから、そっとドアを閉じた。
第74話『The Final Morning』夜明けに越えた境界 - 終 -




