第69話『A Morning That Hesitated』遅い朝の思惑
「ん……」
ジェンミは横たわったまま、重い右腕を額の上へ置いた。
目を閉じているのに眩しいと感じる。
――カーテンを閉め忘れたか……
ぼんやりした頭のまま目を閉じてうなだれていると、サッと何かが光を裂き、影が滑るように横切った。
大きな鳥が窓の外を横切ったのだと思った矢先、もう一度影が通る。
――鳥の群れ……? こんな時期に?
次は影が止まった。
眩しい光を遮られホッとするも、瞬時に疑問がわいてくる。
――影が……止まる?!
ジェンミはバチッと目を開く。
そこには同じく見開いた大きな目があった。
「え?!」
「わっ! 起きた……! あ……ジェンミ、おはよう」
朝の光をまとった笑顔がふわっと咲く。
「ア……アリサ?!」
「あ……ごめんね、勝手に入ってきちゃって。約束の時間に起きてこないし、ノックしても返事がなかったから、ちょっと心配しちゃった」
「そ、そうか。ごめん……起きられなかったみたいだ」
「珍しいよね? ジェンミが朝寝坊なんて。でも、疲れてるんならまだ寝ててもいいよ」
「ううん。せっかく今日は……」
慌てて起き上がろうとするジェンミを、有紗が両手を広げて制した。
「いいの! パークは逃げないんだから。ゆっくり朝食をとりましょうよ。今朝は私が紅茶を淹れるね!」
そう言って踵を返す有紗の手を、ジェンミはとっさに掴んだ。
「え……?」
「あ……アリサ……」
思考より先に、指先が彼女を求めていた。
「なに? ジェンミ……どうしたの?」
振り向いた彼女の笑顔に、昨夜、月に濡れた涙の輪郭がふっと重なる。
「あ……いや、その……ありがとう」
一瞬驚いた顔をして、有紗は首を横に振った。
「なに言ってるの!? この旅において " ありがとう " は、私がジェンミに使う言葉なんだからね!」
笑顔でそう返すと、有紗は軽快な足取りで部屋を出ていく。
するりとすり抜けていった彼女の温もりが、まだ手のひらに残っていた。
――あ! そういえば……
はたとデスクの上が気になったジェンミは、ベッドから飛び起きると、慌ててそこに駆け寄った。
開いたままのパソコン画面にはなにも映っておらず、資料もファイルの中にしまわれていて、一見して何も違和感のない状態だった。
――はぁ……焦ったぁ……
ため息をつきながら、昨夜の電話の主とのやり取りを思い出す。
このスパイのような行為が、果たしてその主にとって有益なのかどうかさえも、だんだん疑問に思えてくる。
もっと有用なやり方が他にあるような気がした。
しかし仮に改革案を提示するとなれば、とてつもない労力と、関係性の破壊をも生む大きな試練が待っている。
――今は……考えたくない
ジェンミは脱いだシャツを肩にかけたまま窓ぎわに向かった。
晴天の外界は眩しく、陽の光を細やかに反射させた湖面をボートがゆったりと横切っていく。
――こうやって先送りにしていくつもりなのか? ボクらしくもない……
ジェンミは大きく首を振ってからバスルームに向かうと、顔を洗って新しいシャツに袖を通した。
ダイニングに向かうと、爽やかな香りが立ち込めている。
「あ、ジェンミ! 座って。はい、どうぞ」
「ん? この香りは……『キーマン』?」
「そう! 前にジェンミに教えてもらったから。疲労回復に効果がある紅茶だって」
ジェンミはカップを燻らせて、その香りを吸い込んだ。
「そうだね。さすがはボクの弟子だ!」
「うふふ。師匠にほめられちゃった!」
嬉しそうに微笑んだかと思うと、上目遣いに睨みをきかせる。
「ねぇ! 昨日私にだけ『バレリアンティー』をくれたでしょ? お陰でぐっすり眠れたけど、それならジェンミも飲めば良かったのに……ジェンミって、いつも私とか玲音のために先回りしてくれるけど、時々ね、もっと自分のことを優先してくれたらいいのにって、思うことがあるの」
少し頬を膨らます彼女から視線を外す。
「別にそんなの……いいよ」
「よくない! 私はジェンミのスキルには及ばないから、感謝するばかりでなかなか気の利いたこともしてあげられないけど、でもね、そんな私だってジェンミの役に立てたらなっていつも思ってるのよ? もっと私や玲音に甘えてくれたっていいのになって」
ジェンミはフッと笑ってから、意味あり気に俯いた。
「じゃあ……さ、アリサ」
ジェンミが視線を上げると、そこには目を丸くして覗き込んでくる有紗の顔があった。
「え、なになに?! ほら! 何でも言ってみて!」
ジェンミはその無垢な表情に思わず吹き出す。
「プッ! あはは」
「ち、ちょっと! なんで笑うのよ!?」
「あははは、だって、そんな子犬みたいな目して覗き込んでくるからさ。すっぴんだし、まるで子供みたいだ。あはは!」
「ひどーい! 笑いすぎでしょ?! もう! 支度してくるわ! バッチリメイクで大人の女に変身してやるんだから! フン!」
そう言って大袈裟に身体を揺らして部屋に入っていく有紗の後ろ姿を笑い声で見送りながら、ジェンミは肘をついて残りの紅茶を流し込んだ。
――ははは。ふぅ……ボスに報告すべきだったか?
" まるで天然石みたいな手強いオンナだ " って?! 全く! フフフ
ジェンミは頭の後ろで両手を組みながら、途方にくれたように空を仰ぐ。
――まったく……この感情は、想像以上に厄介だ……
ふと見上げた天井に微かに湖面の光が反射して、不規則な波紋状の模様が美しく投影されていた。
「あ! アリサこれ……」
咄嗟に出た自分の声に驚く。
彼女に見せてやりたいと思った。
その行動はもはや自分の脳を通さず、その言葉は心から直接溢れ出たものだった。
「マジで……やべぇじゃん?!」
ジェンミは顔をしかめながら大きく息をつくと、フラフラと自室に向かって足を進める。
そして観念したように、てきぱきと身支度を整え、再びリビングのソファーで彼女を待った。
しばらくしてドアが開く音の方に目をやると、そこには一段と魅力的な有紗の姿があった。
瞬時に胸が高なる。
心の動揺を誤魔化すかように、ジェンミは平静を保ちながらゆっくりと指を伸ばし、天井に揺れる光を指した。
有紗の視線がすっと上に上がる。
「え、なぁに? わぁ! きれい!」
第69話『A Morning That Hesitated』遅い朝の思惑 - 終 -




