第44話『Close Quarters』 ジェンミの帰還
ほとばしるような小鳥たちのさえずりで目が覚めた有紗は、身支度を整えて階段を降りる。
数日前、ジェンミの荷物がこの家に届いた時、彼も長年『Frances Georgette』の手帳をコレクションしていることを知った。
それも、自分が正式にファッション業界に足を踏み入れる以前から、彼らはもうあの世界を知っていた。
今年の白い『FG』の手帳がきっかけで繋がった玲音との縁の深さを思い起こしながらも、新たに繋がった縁は有紗にとって形容しがたいほどの衝撃的なものだった。
とはいえ、ここフロリダで彼ら二人との新生活が始まるにあたり、平常心を持って日々を過ごしながら、ブランドとしての『ランドルフ』の活性化を第一に、そこから『月刊ファビュラス』を邁進させていく使命を果たさなくてはならない。
『月刊ファビュラス』の存亡は、自分の腕にかかっているのだから……
ソファーで玲音がパソコンを開いている姿が目に入った。
数日前にジェンミの荷物を片付けている時、彼の昔の『FG』の手帳を開いた玲音がそれを妙に見入っていたことを思い出す。
その後すぐに取引先とのランチに出かけた有紗は、そのことが気になって帰宅後にそれとなく聞き出そうとしたが、玲音はそれをはぐらかした。
親友である彼が驚くような内容がそこにあったということなのだろうか。
一体そこには何が……
「morin'」
玲音の方から声をかけてきた。
「おはよう」
「もう出掛けるのか? コーヒー淹れるところだ、飲むだろ?」
「ええ、ありがとう」
玲音に手渡されたカップを手に、有紗はパソコンに向かう玲音の正面に腰を下ろした。
「今朝は? また 日本と?」
「ああ、午前中にリモート会議があるから資料をまとめてる。まぁ、あっちは夜だけどな」
「そう」
テラスから差す清々しい陽の光に包まれたダイニングには、キーの音と鳥のさえずりだけが流れている。
芳醇な香りに包まれた静かな空間でコーヒーを堪能し、ソファーにもたれながらゆったりとした朝を満喫していると、門の解錠ランプが点灯し、庭から微かにエンジンの音が聞こえた。
有紗が背中を起こす。
「もしかして……?」
「ああ、ジェンミだろ。アイツめ、帰る日も知らせないで……」
そう言いながらも玲音は画面から目を上げず、忙しそうに指を動かしている。
勢いよくドアから入ってくるジェンミをちらりと見ただけで、玲音はそのまま作業を続けた。
「ジェンミさん……」
言葉が続かない有紗の様子を不自然に思い、玲音はふたたび視線を上げる。
緊張感を帯びた有紗の顔は、初めてこの家でジェンミを見た時の表情と似ていた。
「たっだいまー!」
ジェンミのその声で、我に返ったようにつくろう。
「お、おかえりなさい」
「WOW! 嬉しいな、その言葉! ようやくちゃんと迎え入れてもらったって感じ?」
「あ……ごめんなさい、この前はその……びっくりしちゃって」
「いいんだって! それよりさ、これからここでshared lifeが始まるんだ。だったらさ、お互い気を使ってちゃ疲れちゃうでしょ?」
有紗は圧倒されたように肩を上げながらも頷いた。
「ボクたちはroommateなんだから! もっと気軽に接してもらわないとね。そう思わない?」
「そ、そうですね」
「じゃあ……先ずは……そう! アリサって呼んでいい?」
「あ、ええ、もちろん……」
「ならアリサもボクのことは呼びすてで」
「え? あ……呼び捨て、ですか……?」
「敬語もNG!」
「え!? あ、わかりま……わかっ……た」
「そう、その調子! もし敬語使ったら、ペナルティを課すからね!」
「そ、そんな……」
ジェンミは屈託のない笑顔を見せながら、自分を指差す。
「じゃあ、アリサ! ボクのこと、呼んでみて?」
「え……あ……ジェン……ミ」
「聞こえないなぁ?」
「ジ……ジェンミ」
「はい、上出来ー!」
「わ!!」
ジェンミにためらいもなく肩を抱かれて、有紗は目を見開いて身体を固くする。
玲音が勢いよくパソコンを閉じて立ち上がった。
「あー! もう我慢ならねぇ! いつまで茶番劇を見せられるんだ?!」
「あれ、レオ? 居たんだ?」
ジェンミは有紗の肩に手をかけたまま、白々しくもそう言った。
「お前なぁ! 主の俺様を差し置いて、なにをデレデレやってんだ!」
「なんだよレオ、焼きもちかぁ? わかったって!」
ジェンミは玲音の横にスッと近付いて、肩にグッと腕を絡めて引き寄せた。
「なっ……て、てめぇ! なにしやがんだ! やめろ!」
「どうしてさ? そりゃしばらくは日本社会の中に居たからさ、スキンシップは手薄になってたけど? ここで普通に暮らしてた頃はこんなの日常だったじゃん?」
ジェンミは玲音の肩に頬を寄せながら、有紗に意味深な視線を送った。
彼女が表情をこわばらせるのと同時に、玲音はジェンミの腕を逆手にかわし、その首を後ろからがっちりホールドした。
「うっ……」
「いい加減に……しろ!」
「技かけるなんてズルいじゃない! ホントのこと言っただけじゃんか!」
「チッ、朝からつまんねぇ事ほざいてんじゃねぇ! こーしなきゃ……わかんねぇかなぁ、お前は!!」
「うっ! 痛てて……わかったわかった、ギブアップ! もう……乱暴だなあ、ベッドも共にした仲なのに?」
玲音の攻撃から逃れて服の乱れを直すジェンミに目を向けた有紗は、その言葉を聞くと、声にならない声を発した。
「え……」
ハッと息をついた有紗がみるみる青ざめていくのを見た玲音は、ジェンミを突き飛ばしてから、焦った表情でつかつかと有紗の前まで歩いていく。
「おい! 違うからな! 誤解すんなよな、コイツとはそんな……」
「あはははは」
突然ジェンミが笑いだし、膝を払いながら立ち上がった。
「ふふ。昨日マイアミの親戚ん家でさ、レオと一緒に遊びに行ってたときの話をしてたところなんだ。サマーキャンプではテントでも、ベッドでも、ずっとレオと一緒だったからね」
「そ、そういうことだ!」
「ベッドもキングサイズだし、その端と端に眠ってただけだよ。アリサ、安心して! それに……」
ジェンミは玲音を押し退けるように、有紗の前に立ってソファーを指差す。
「こんな狭いところで密に抱き合って眠ったりはしてないからさ、ボクたちは。そうだろ? レオ」
玲音と有紗は一瞬息が止まったかのように目を見開いた。
ハリケーンの夜の光景が頭に浮かんだ二人は、またバチッと合った視線を瞬時に外す。
「あ……当たり前だろ!」
「フフッ、なにムキになってんのさ?」
ジェンミが笑いだし、有紗の頭に手を置いた。
「ねぇアリサ、一瞬ホンキでボクたちの関係、疑ったでしょ?」
「あ……えっと……」
「フフフ。ホント、アリサはわかりやすいなぁ」
正直、アメリカだから何があってもおかしくないと、一瞬頭にあらぬ想像がよぎったことが恥ずかしくて、有紗は俯く。
「ボクはいたってノーマルさ。そっちの趣味はないから安心して! あ、そういえば……レオはバイだっけ?」
有紗がまた目を見開いて玲音を仰ぐ。
玲音は再度奮起してジェンミの胸ぐらを掴み上げた。
「この野郎! ナメた事ばっか言ってっと、本気で落とすぞ!」
ジェンミは肩をすくめて身をかわす。
「あはは。でもさ、レオがノーマルでも、実際に男にもモテてたじゃん? なんなら日本でも新宿の……」
「あー! もう。うるせぇ! バカンス帰りのお前とは違って、俺たちはこれから仕事なんだ!」
有紗がクスッと笑った。
「え? 仕事って……?」
「なんだよ」
玲音は不服そうに有紗を睨む。
「あなただって、ニート生活じゃない?」
「おい! そのワードは使うな!」
「だって、毎日陽の光も浴びずにパソコンに向かってばかりだし」
玲音は肩を落としながら吐き捨てるように言った。
「また小うるさいことを……母親の小言はうんざりだっつってんだろ!」
「なによ! 小言なんか言ってないでしょ! それにね……」
ジェンミが両手を上に掲げながら眉を上げる。
「ほらほら、夫婦喧嘩はそこまで!」
「違うだろ!」
「違います!」
ジェンミはぷっと吹き出した。
「なんかさ、この件、懐かしいよね!」
「は? 数日前の出来事だろ!」
三人は同時に笑った。
ジェンミが大きな柱時計を見上げた。
「ねぇアリサ、これから出勤なんだよね?」
「ええ、もう出るところ」
「じゃあ車で送っていくよ」
「え? そんなの……大丈夫よ、近くなんだし」
「いいじゃない! そういうこと久しくしてないからさ。女の子を送ってあげたり、したいんだよね」
玲音がまた訝しい表情でジェンミを見上げる。
「あ? なんだそれ? お前、日本でもそんなこと言いながら車乗り回してたよな? あの車どうした?」
「レオと一緒だよ。パパに預けてきた」
「おまえなぁ! 会長と呼べ!」
「はいはい」
玲音はため息をついた。
「……お前さ、あの大量の荷物、整理するのマジで大変だったんだぞ! どういうことだ? 全部引き払ってきたのか? 一時帰国じゃないってことなら、それは親父の……」
「レオ! その話はまた後で。ほら、アリサが遅刻しちゃうから」
「あ……わかった。行ってこい」
「うん! じゃあアリサ、行こう!」
そう言われて有紗は急かされるようにバッグを持ち上げた。
「え、ええ……あ、いってきます」
「ああ」
ジェンミは有紗の肩に手を回しながら玄関に促し、玲音にウインクを投げて出ていった。
「ったく……アイツは。懲りもしないで……」
大きくため息をついた玲音は深く座り直し、がらんとした部屋を見渡す。
そこはまた、小鳥の歌が微かに響く静かな空間と化していた。
第44話『Close Quarters』 ジェンミの帰還 - 終 -




