第35話『The Scent After the Storm』心温まる時
微睡みの中、温かく包まれている感触……
それはまるでぬるめのバスタブにそっと沈んでいくような、重力から解き放たれた心地よさだった。
そして、この特別な香りに包まれて……
呼吸をする度に鼻腔を潤すような、爽やかでいて奥深い匂い。
初めてこの香りを知ったのは、うんと昔……
それは幼いときの記憶だった。
時を経ても褪せることなく魅了するその香りが、年齢を問わず世界中に認められた有名な香水だと知ったのは、高校に入ってからだった。
そして大人になって、それを大好きな人にプレゼントした。
いつも側で感じていたくて。
ジョルジオ・アルマーニ『ドラマティカリー・コード』
この香りの傍らで、共に人生を歩んでゆく……そのつもりだった。
――彼と。
疑いもなく、そう信じていた。
あの日までは……
あれからもう、どのくらい時間が経ったのだろう……
うっすらと目を開ける。
「夢……?」
前後不覚……ここが何処なのかも分からない。
ただ、辺りは茜色に色づいていた。
まるで夕焼けのような、黄金の光が切り立った窓から差し込んでいるのを見て、ここがあの家のリビングであることに気付く。
アメリカ東海岸のこの地では、朝の赤い太陽が素晴らしく美しい。
――あ、ハリケーンは……?
その朝日を見て、嵐が過ぎ去った事を知った。
安心して大きく息を吸い込むと、アルマーニの香りがふわっと立ち上る。
この香りに包まれて眠ったんだった。
幸福感の中、ぼんやりと視線を泳がせる。
少し視線を上げると、すぐ近くに玲音の寝顔があった。
「……は!」
その状況に飛び起きそうになるのを抑え、有紗は息を殺し、動きを止めた。
心を静め、呼吸を整えながら頭を整理していく。
昨夜の数々の場面が、断片的に思い出された。
だんだん頭が冴えて、顔を青くしたり赤らめたりしているうちに、その状況がみえてきた。
もう一度そっと、玲音を見上げる。
静かな呼吸に合わせてわずかに動く、端正な横顔。
まるで守られているかのように、自分の頭の上に大きな手があった。
そして自分が頬をピタリと寄せているのは……広く硬い、玲音の胸。
そこから落ち着いた鼓動がゆっくりしたペースで伝わってくる。
思い返せば、昨日はいつもと違うことばかりだった。
ずっと側にいてくれていた彼。
恐怖心を抱いていた事に気付いてくれていたのだろう。
落雷に混乱する私を抱き起こして、ここまで連れて来てくれた。
そして抱きしめたまま、私を寝かせてくれて……
有紗は自分の耳にかかる玲音の手をそっとずらすと、指を伸ばして耳栓を外した。
外から聞こえる小鳥のさえずりと共に、玲音の寝息が聞こえる。
大きな手、広い胸、力強い腕、それに穏やかな寝顔……
ホッとしながら今の状況を客観的に想像した途端、急に胸の鼓動が高まった。
「やだ……どうしよう。この状況……」
こんなにも至近距離に顔があって……
まさか……何か起こったりしてはいないかと、また記憶の断片を探ってみた。
あてにならない頭ではあったが、一応思い当たる節はない。
「ああ……シラフじゃこうはならないわね。二人とも大分酔ってたのかも……? あーダメダメ! ここで目覚められたりしたら、絶対に気まずくなるわ!」
有紗は玲音を起こさないように彼の胸から抜け出す方法を考える。
まず頭の上に置かれた手をそっと持ち上げて、彼の脇へ降ろした。
もう一方の腕はしっかり有紗の腰に巻きついている。
それを後ろ手で外そうと手を伸ばした。
「えっ!?」
熟睡しているように見える玲音のその腕は、身体を動かすと反射的にぎゅっと締め付けて離さない。
「ウソ……無意識なのに? ひょっとして……誰かと間違ってない?」
もう一度玲音の腕を外そうと、有紗は今度はその指をはがすように触れた。
すると今度はその手をぎゅっと握り返され、驚いて手を引っ込める。
「やっぱり……絶対に別の女性と間違ってる! この展開は……ヤバいわ」
そう呟いて、何とか取り戻した自分の手のひらを見た有紗は、思わず悲鳴をあげた。
「きゃっ!」
玲音がバッと目を開けて有紗の存在を確認すると、再び有紗の肩を強く抱いた。
「どうした?! まだ怖いのか?! え? ってか、もう……朝?」
「……血が……」
「なに?! 血って何だ?! どういうことだ!」
「いいから、一回離して」
「え?」
「だから……この腕を……一回、解いてもらえる?」
「あ……ああ、分かった……」
玲音が少し気まずそうな表情を浮かべながら腕をほどくと、その胸から飛び起きた有紗がベタベタと玲音の身体に触れながら、あちこちをまさぐり始めた。
まだ完璧に頭が起きていない玲音は、驚いて目を見張る。
「お、お、おい! お前っ! な、な、何してんだ!」
有紗が自分の手の平を、玲音の顔の前にかざした。
その真っ赤な指を見て、今度は玲音が飛び起きる。
「お前っ!! その血はどうしたんだ!」
確かめるようにその血だらけの手を取る。
「怪我したのか?! どこを! うっ……痛ってぇ!」
玲音が顔をしかめて左腕を押さえた。
「あ! ここだわ!」
今度は有紗が玲音の左手を取り上げて、傷の箇所を特定した。
「切れてるわ。いつ……? あ、停電したときよね?」
何かが割れた音が頭の中に残っていた。
「とにかく、手当てしなきゃ!」
有紗は傷口を観察してから、メディカルキットを取りにキッチンに向かった。
白い皿が一枚、床に落ちて割れている。
通路に程近い場所に落ちていた破片に、赤い血が付着していた。
自分を抱き起こすために、手をついた玲音が、触れてしまったのだと推察する。
有紗はすぐさま玲音のもとに戻って、手当てを始めた。
「俺、どこで……」
「私が座り込んでたところに血のついた破片があったわ。ごめんね、私を起こしてくれた時に怪我したのね」
「そうなのか?」
「気がつかなかったの?」
「ああ全然。なんかベタベタするなぁとは思ってたけどな」
「酔ってたし、アドレナリンも出てたんでしょうね。これから消毒するわ。言っとくけど、今はシラフだから、痛いわよ」
「お、お前なぁ……」
タオルの上に左手を置き、消毒液をボタボタとかける。
「うわぁ痛ってぇ! お前……雑なやり方だな!」
「もうシリコンテープを貼るから、これで痛みはなくなるわ。最低三日は外さないでね」
「ああ、わかった」
「はい、処置はおしまい」
テープの上から包帯を巻いた有紗は、ゆっくり顔を上げてまっすぐ玲音を見つめた。
「ん? どうした? あ……わりぃな、お前のその服、血で汚しちまって」
「そんなのいい! ……ありがとう。こんな怪我までさせちゃって、ごめんなさい」
「あ、いや……」
有紗は包帯の上から、そっと手を添えた。
「お陰でパニックを起こさずに済んだ。助かったわ」
そう言って笑顔で自分を見上げる有紗に、無意識に右手を伸ばそうとして、玲音は慌てて引っ込めた。
昨夜暗がりで、何度も触れたその頬がすぐ近くにある。
立ち上ってくるバラの香りの記憶が、玲音の鼓動を少し早めた。
「あ、ああ……気にすんな」
そう言って、視線を逸らした玲音は、そのままソファーに寝転がる。
大袈裟に伸びをしながら時計に目をやり、腕を下ろした。
「まだ早いな。もう少し寝るとするか」
「え、ここで寝るの? 部屋に戻ったら?」
「いや、意外に寝心地は悪くなかった。誰かさんが二週間もここで寝ていただけはあるな?」
有紗がギロッと睨む。
「もう、その話は蒸し返さないで! 私にはベッド使えって、怒ったくせに!」
「じゃあ撤回。今からお前もここで寝る? さっきみたいに抱き締めてやろうか?」
玲音は有紗に顔を近づけて、ニヤリと笑った。
「ば、バカね! 私は……せっかく早起きしたから、そ、外の空気でも……」
「それはやめとけ」
玲音にそう遮られて、窓に向かいかけた有紗は驚いて視線を戻す。
「え……どうして?」
「あれだけの嵐だぞ、外がどうなってると思う? Gardenerに任せる」
「あ……そっか」
「しばらくはおとなしくしてろよ」
玲音はそう言いながら、有紗の前髪を弾いた。
そして大きく息をつきながら目をつぶって包帯の手を額にのせる。
有紗は彼を見つめた。
きっと昨夜、彼はほとんど眠らず、自分が寝入るまで見守ってくれたに違いないと、そう思った。
「じゃあ、もう少ししたら部屋へ上がろうかな」
「なんでもう少し? ここになんか用事でもあんのか?」
「いいえ、別に……いいじゃない」
その返事はなく、玲音の穏やかな寝息とかすかに聞こえる鳥のさえずりのなか、有紗はそっとその首もとに鼻を近付ける。
――さすがに消毒液のにおいには勝てないか……
かき消されたあの香りを思い起こしながら、有紗はクローゼットからここに来たばかりの時に常用していた懐かしいブランケットを取ってきて、ふわっと彼の身体にかけた。
「おやすみ」
布越しに伝わる体温が、胸の奥をじんわり温める。
「ありがとう……玲音」
第35話『The Scent After the Storm』心温まる時 - 終 -




