第33話『Sigh of storm』ハリケーンの前触れ
この時期にハリケーンの話題が浮上することは、ここフロリダでは恒例行事のようなものだ。
とはいえ、日本の台風とは比にならない規模、予測不能の進路とその威力において、毎年のように街を呑み込み、人々の記憶に爪痕を残す " 怪物 " のような存在だった。
上陸するとニュースで聞いたのは今朝のことだったが、玲音はその兆しを少し前から感じていた。
何せここはカリブ海に面したフロリダ半島、ハリケーンは避けて通れない。
そんな中、司から聞かされたのは、有紗が雷恐怖症がもとで救急搬送されたこともあるという深刻な内容だった。
――|Astraphobiaだと?! マジかよ……
もっと司に詳しく聞きたかったが、有紗がいつ二階から降りてくるかと、気が気ではなかった。
玲音は天井を見上げる。
「……やべぇ」
ついさっき、かなり茶化した調子でハリケーンの話をしてしまったことを悔やんだ。
「けっこうマジで脅かしてしちまったんだよな……」
とりあえず司からのミッションを引き受けたような形にはなったものの、一体どうすればいいのかと、立ち上がったまま右往左往していると、玲音の背後から階段を降りてくる足音がした。
「ふぅ……やっぱニアミスか……」
見上げてその姿を確認すると、有紗はまた窓を気にしている様子だった。
玲音の視線に気づくと気まずそうに下を向いて階段を下りきる。
「なんか……話し声が聞こえたから、テレビでもついてるのかと思ったわ」
そう言いながらも、警戒した様子が見て取れた。
「あ……さっき一瞬つけたんだけどさ、すぐ消したんだ」
「そう……」
玲音の側を通り過ぎる有紗から、またあのバラの香りがふわっと漂う。
玲音は有紗の髪から水滴がしたたり落ちるのを見つけて、慌てて有紗の肩に手をやる。
「おいお前、髪びっちゃびちゃじゃねぇか! なんでもっとちゃんと乾かして……」
そう言って有紗の顔を覗いた時、微かに目が泳いだのを見つけて玲音はハッとした。
――不安なのか……
だから、髪も乾かさずに降りてきた……
そうなのか?
大きく切り立った窓にはさっきから雨が打ち始め、庭木の間を不規則な方向にすり抜ける風が、まるで笛の音のようなピューピューという高音をたてていた。
見晴らしのいいバスルームも今日ばかりは逆効果だったにちがいない。
有紗がまた窓に目をやる。
今思えば、彼女の行動は今朝の初っぱなから不自然だらけだった。
司の言うように事は深刻なんだと、今なら感じられる。
なにか言ってやらなければと悩んだ末、玲音の口からついて出た言葉はなんとも滑稽なものだった。
「あ……なんか……こんな夜はさ、ガキん時のキャンプみたいに、こう……ブランケットにくるまって……? 徹夜でもしたい気分だよな?」
「え?」
とっさに口から出た言葉に自分でも驚いている玲音に、有紗は不可解な表情で言った。
「キャンプ? 何言ってるの?」
「あ……いや、例えばの話だよ。ハリケーンの夜はどうせうるさくて寝付けないから、ガキん時はハナから寝ようとしないで家族が集まって一晩中話したりしてたなって……思い出してさ」
「へぇ……こっちの人はそんな風に過ごすんだ?」
「ああ……まぁな。あ! ならさ! お互いの手帳をもう一度確認しないか? 入念に」
「え……別に、いいけど……」
「早く帰ってきて時間もあるんだから、どうせなら有意義に使った方がいいだろ?」
「まぁ……」
「よし決まり!」
立ち上がった玲音は、髪を濡らしたまま慌てて階下に降りてきたであろう有紗の心情をおしはかるように、視線を向けながら言った。
「じゃあ俺、手帳を取りに上がろうかな? お前も髪を乾かしに上がるだろ?」
「え? うん……」
「なら行くぞ!」
玲音は半ば強引に有紗の背中を押して階段に促した。
半信半疑で二階へ上がった有紗をバスルームに押し込んだ玲音は、そのドアを開け放ったまま足早に手帳を取りに自室に向かい、踵を返してバスルーム戻ってきた。
鏡越しに玲音の姿を見て、有紗は不可解な顔でドライヤーを止める。
「どうしたの? ここにも用事が?」
「あ……いや、部屋のタオルを補充しておこうかなと……お前も早く髪を乾かせよ」
「うん」
有紗はまたドライヤーを続けた。
時間を稼ぎながらチェストを無駄にガサゴソと探ると、ドライヤーがまた止まる。
「乾いたか? じゃあ、部屋から手帳取ってこいよ」
「あ……うん」
手帳を持って部屋から出てきた有紗は、またそこに立っている玲音を怪しげな表情で見上げた。
「あのさ、どうしてここで待ってるわけ?」
「は、はぁ?! 別に待ってねえし! 部屋にタオルを置いてきただけだ。たまたまだろ? ほら、いくぞ!」
「あ……うん」
二人して階下に降りる。
玲音のすぐ前にいる有紗が、緊張感のある面持ちでリビングに目を向けた。
切り立った天井までの窓に打ち付ける雨音は明らかに強くなっていて、ひっきりなしにながれ落ちる水滴が幾何学的な模様を成している。
玲音はすぐさまテレビをつけ、日本のオンデマンドを検索し始めた。
そんな玲音を見て、有紗はまた不思議な顔をする。
「ねぇ、手帳の話をするんじゃなかったの?」
「ああ、まぁ……先に飯食いながらテレビみようぜ。面白い日本の番組を見つけたんだ。どう?」
「ええ……別にいいけど」
キッチンで温めた夕食をリビングテーブルに運んで、ソファーに並んで座り、二人はテレビに向かって食事を始めた。
窓を打つ雨が小石のような音で更に激しさを増し、不規則に強弱を繰り返し、時折びゅーっと言う音が、意思のある声のようにも聞こえる。
画面を見ながらも何度も窓に目をやる有紗の横顔を、玲音は気付かれないようにそっとチェックする。
一つの番組が終わったのを期に、有紗はスパークリングワインを開けようと提案してきた。
今回ばかりは甘やかしてもいいかと、玲音はそれに乗る。
「じゃあ取ってきてやるよ」
パントリーにあるワインセラーに取りに行こうとして何気なく腰をあげた玲音を、突如、不安な表情で有紗が見上げた。
玲音はハッとして声を上ずらせる。
「あ……お、お前も来るか。今夜は特別に銘柄を選ばせてやろう!」
その言葉に有紗の顔がパッと明るくなったような気がした。
「うわ……凄い品揃えね!」
有紗は壁面に並ぶそのワインの数に圧倒されながら、辺りを見回した。
「あれ? この中には入ったことなかったか?」
「うん、あなたが入っていった時にちょこっと覗いただけよ。ワインセラーはいつもは鍵がかかってるでしょ? でも……こんなに広いと思わなかったわ。たくさんあるけど……どんな価値があるとか……あなたは把握してるの?」
「ああ、大体な。奥には高価なワインが年代別や産地別に並んでる。ここはもともとは亡くなった 叔父が住んでた家だったからな」
「ミセスランドルフのご主人ね?」
「ああ。家の両親が結婚した時に譲り受けたらしいんだが、ワインのコレクターだった曾祖父が、ここに残した代物もあるんだ」
「へぇ……」
「オークションに出したら家が買えるほどの値がつく逸品もあるぞ」
その言葉に有紗は、何気なくワインに伸ばしかけた手をさっと引っ込める。
「うわ……そんな高価なものが家の中にあるなんて、ますます強盗が怖くなるわね」
肩をすくめる有紗に、玲音は微笑んだ。
「心配するな。セキュリティーは万全だ。ほら、こっちの棚ならどれでも好きに選んでいいぞ」
有紗は顔を輝かせて、あらゆるボトルを手に取った。
ラベルを愛でたり、産地の読解にトライしながら時間を過ごす。
彼女の微笑みを、今日はこの時間になって初めて見たような気がした。
しばらくして気が付いた。
このワインセラーは嵐の音が完全に遮断されている。
外の暴風が嘘のように、この空間だけが静寂に包まれていた。
玲音は有紗に付き合って、大げさに振る舞いながらワインについての能弁を垂れる。
それをいつになく熱心に聞いていた有紗は、一本のワインを手にした。
「ねぇ、これなんていいんじゃない?」
有紗が選んだのは『夜想曲』だった。
「いいんじゃねぇか。まぁ静かな夜じゃねぇけど、これから賑やかになるだろうからさ、ちょうどいいかもな」
「賑やかって……」
伏し目がちな有紗の肩をポンと叩く。
「ちょっとしたアトラクションだと思えばいいさ。酒も入りゃ楽しめるかもしんねぇぞ」
パントリーからグラスを片手にソファーに戻り、有紗を座らせた玲音は、彼女のすぐとなりに着席した。
わざと軽い調子で話しながらも、有紗の心情の変化にアンテナを立てる。
選んだスパークリングワインのコルクが大きな音をたてて飛んでいったが、その音もかき消さんばかりに、外の風は猛威をふるい始めていた。
あえてゆっくりそれを注いだ玲音は、ゴールドに煌めくグラスを有紗に手渡し、笑って見せる。
「ほら。甘口だが、今日みたいな夜にはぴったりだ」
そう言ってグラスをぶつける。
「わ……おいしい……」
「だろ? こいつのヤバイところは、飲みやすいからやけに進んじまうことだ。まぁ、今夜くらいはかまわないだろ」
二人はテーブルに並べた二つの同じ手帳を眺めながら、出逢った日からこれまでの不思議な沿革をなぞりあった。
ワインボトルが底をつき始めた頃、室内が突如パッと昼間のように明るくなった。
有紗は目を見開いたと同時に、耳を塞いで身体を伏せる。
ハッとした玲音が慌てて有紗を見下ろした。
「おいっ! 大丈夫か!」
第33話『Sigh of storm』ハリケーンの前触れ - 終 -




