第32話『Before the Landfall』託されたミッション
深夜、窓を通して庭から聞こえてくる葉が擦れ合う音で目が覚めた。
何度も目を瞑ってやり過ごそうとしたが、気になって寝付けない。
やむなくベッドから立ち上がってザッとカーテンを開けると、真っ暗な空間の向こうのガーデンライトに照らされた木々が大きく揺れる影が映っていた。
見上げた空に星はなく、おぼろげな月の前を煙のようなくすんだ雲が川のような早いスピードで流れ去っていく。
「そういやぁニュースで……」
玲音はデスクに放りっぱなしのパソコンを引き寄せ、それを開いた。
「……やっぱりな。そろそろかと思ってた」
翌朝玲音がリビングに下りると、珍しくテレビの音声が流れている。
ソファーに有紗の姿はなく、フロアを見渡した玲音は、切り立った大きな窓の前でじっと空を見上げている彼女を見つけた。
階段を降りきってすぐ側まで行っても気が付かない有紗の肩に、そっと手を伸ばす。
「おい、どうした?」
ハッと息を呑んで振り返る有紗の蒼ざめた頬と強張った瞳が、言葉より先に不安を物語っていた。
「あっ、ああ……おはよう」
上ずった声だった。
その表情を隠すかのように、ふいと顔をそらす。
「コーヒー、飲むでしょ?」
「え、ああ……」
取り繕うように有紗は足早にキッチンに向かった。
ダイニングテーブルで向かい合って朝食をとるあいだも、彼女の視線は玲音の肩越しにテレビ画面に向いてる。
朝からつきっぱなしのその番組は、キャスターをとっかえひっかえしながらも同じ内容のニュースを流していた。
「今夜上陸か……? 直撃だなぁ……」
何気なくそう呟いた玲音に視線を向けた有紗の表情はいつになく無機質で、辺りをいっそう曇らせている。
いつもなら朝日が燦々と室内を照らしているはずのリビングも、今はまるで日没のように暗く、シャンデリアが不自然なほど眩しく見えた。
一言も発しないまま空になったカップを片付ける有紗の背中に向かって、玲音はおどけた調子で声をかける。
「なんだなんだぁ? 女子は低気圧と共に機嫌も下り坂になんのか?」
「なによそれ」
思った以上にそっけなく返されて閉口している玲音に目もくれず、有紗はさっさと身支度を済ませ、玄関に向かう。
「そういやぁ昔、Japanese historyの授業ん時に、" 日本の子供は雷にへそを取られるっていう迷信を信じてる " って習ったが……まさかお前……」
笑いかける玲音を振り返りもせず、有紗は黙ったまま玄関ドアを閉めた。
いつもは聞こえるはずのコツコツという足音も、今朝は風の音がかき消して聞きとれない。
「なんだあれ?! はぁ……ったく! ご機嫌斜めも甚だしいな!」
腹立たしそうに言いながらも、玲音は時計を見上げる。
「なに、数時間もしないうちに帰って来ることになるだろうよ。ま、そん時に改めて文句でも言ってやるか」
玲音は午後に予定していたリモート会議を前倒しにして、手早く仕事を片付けた。
玄関フェンスの解錠ランプが点灯した。
イレギュラーな時間帯に帰宅し、エントランスからリビングに入ってくる有紗を気にもせず、玲音はコーヒーを淹れながら予め用意した自分のカップの隣に、もうひとつのカップを並べた。
「ああ、おかえり。遅かったじゃねぇか」
玲音のその言葉に、有紗は立ち尽くしたまま驚きの表情をみせる。
「……え? 遅かったって言った?……本当なのね」
「ん? 何が?」
有紗はバッグを椅子に置きながら、風で乱れた髪を直した。
「正直、驚きよ。出勤したら、朝から総出でハリケーン対策だった。みんなスニーカーやラフスタイルで出社してて……逆に、" そんな格好でどうしたの?" って言われちゃったわ。それにこんな時間なのに " 早く帰んなさいよ " って……当たり前のようにみんなさっさと帰って行った。あのウォースアベニュー一帯がよ?! おまけにあなたまで……そんなふうに」
玲音は肩をすくめる。
「ま、ここじゃ恒例行事みたいなもんさ。会社の人間もいっせいに帰ったろ?」
「ええ。私も翼さんの車で送ってもらったの」
「そうか。ほら、コーヒー。温かいうちに飲めよ」
有紗は玲音が淹れてくれたコーヒーカップの前に座った。
「ありがとう」
席についてコーヒーをすする玲音に促されて、カップを持ち上げる。
「あの……そんなに……凄いの?」
半信半疑の表情の有紗に、玲音は顔を近付けた。
「ハリケーンのことか? ああ。そりゃ日本の比じゃねぇからな」
「へ、へぇ……話には……聞いてるけど」
「ほら見ろよ」
玲音の視線の先にある庭は、確かにいつもと様子が違う。
あったはずのプランターやガーデンオーナメントがすべて撤去されていた。
「朝から庭師が来てフル稼働だ。車も奥のパーキングに格納してる。何年か前に車が暴風で横転して、駄目になったことがあるから」
「え……そんなに?!」
「この地域はまだマシだが、海沿いの家は一晩明けたら建物がなくなってたことがある。家畜が空を舞うほどの勢いの年もあったしな」
「え……空を舞うって……」
青ざめた有紗が、ハタと視線を上げる。
「あ……そういえばここに来た時に司が言ってたわ。" このリビングは見晴らしも良くてサンライズは素敵だろうけど、ハリケーンの時は臨場感あるわよ " って……」
「ははは、確かに。フロリダのハリケーンはもはやイベントだ。街中が店じまいして、防御策を怠らない。それほどにな」
不安そうな目で窓を見上げている有紗に、玲音はカラッと言った。
「まあこの家の中にいれば、多分大丈夫だろ」
「多分って……」
「あはは、確かに臨場感はあるが、特殊な強化ガラスを入れてある。なんなら壁材よりも頑丈かもしれないな」
「そうなのね……」
「ま、今夜の食事はハウスキーパーがもう用意してくれてるし、フロリダ名物だと思って、ハリケーンライブを観覧すればいい」
「ライブって……」
「ん……?」
玲音がポケットを気にする。
俯いている間に、有紗はスッと立ち上がった。
「ねえ、まだ時間、大丈夫よね? 私、先に入浴してくる」
「ああ。まだ晩飯まで時間もあるし、ゆっくりしてこいよ」
有紗が階段を上りきったのを見計らって、玲音はさっと立ち上がると、小走りでダイニングに足を向けた。
あわててスマートフォンを耳に当てながら、改めて二階を見上げ、声を潜めながら話す。
「あ……司か? わりぃ、出られなくて。今アイツ帰ってきててさ。で? どうした? こんな時間に。なんか用か?」
「うん……有紗の様子は?」
いつになく、落ち着いた声だった。
「え? 様子? 特に変わったことはないけど……なんで?」
「あ……やっぱり言ってないか。そうよね……」
「ん?」
「実はあの子ね、|astraphobiaなのよ」
その単語は子供の時に聞いたことがあった。
大規模なハリケーンの多いこの地域では、幼い子供のうちは誰でもあの『thunder Lightning』には恐怖を覚えるものだ。
「へぇ……アイツ、嵐が苦手なのか?」
笑い混じりに言った玲音の言葉に、司は乾いた声でこたえた。
「いいえ……苦手っていうより、れっきとした雷恐怖症かな」
「れっきとしたってなんだよ? 単に怖がりなんじゃねぇの?」
司は溜め息をつく。
「困ったわねぇ……そんな認識じゃ、今夜……あの子、一晩もたないかもしれないわ」
「は? どういう意味だ?」
司はまた一息ついて話し出した。
「深刻ってこと。随分前になるけど、出版社にいる時にね、校了寸前で深夜まで私たち二人で誌面の手直しをしてたの。その時に、雷が鳴って……」
「それで?」
「有紗、悲鳴を上げて耳を塞いで座り込んで……最初はただ苦手なんだろうって思ったから私も笑ってたんだけど、そうこうしてるうちに有紗の様子がだんだんおかしくなって、苦しそうに胸を押さえて倒れちゃったの。私、救急車呼んだのよ?!」
「へっ?!」
「病室でナースに聞いたら、有紗の心拍数はかなり上昇していたらしくて、過呼吸も起こして完璧にパニック状態だったって。私だってめちゃくちゃ怖かったわよ。有紗が死んじゃうんじゃないかって」
「え……ヤバイだろ、それ」
「うん。心療内科の先生に聞いたんだけど、有紗は不安や恐怖を感じる脳の扁桃体の活動が過剰になりやすいって。一時的か慢性か判らないとも言ってた。ずいぶん前の事だから、もう治ってるかもしれないけど……ちょっと気をつけてやってほしいの」
「気を付けるったって、どうしたら……」
「私もお医者さんに同じ質問をしたけど……とにかく落ち着かせることだって言ってた。不安を取り除いて安心させてあげてくださいって」
「それだけじゃ、わかんねぇな……」
「確かに。そうね……ん……じゃあ、一晩中付き合ってやったら? 仕事の話でもお酒でもなんだっていいから、とにかくあの子を一人にしないで。心配だわ」
「ん……とりあえず……わかった」
「お願いね!」
通話の切れたスマホを見つめる。
――とは言ったものの、俺はいったい……どうすりゃいいんだ?!
彼女の親友から託された " ミッション " の重さが、胸にずしりとのしかかった。
第32話『Before the Landfall』託されたミッション - 終 -




