第30話『Spotty』キャサリンパイの朝食
翌朝少し早く目が覚めた玲音は、階下に降りようと階段に向かった。
踊り場に差しかかった瞬間、芳醇なコーヒーの香りがふわりと漂い、玲音は思わず足を止める。
「あれ? アイツ、今日はパワージョギングもパワーモーニングもないって言ってたはずだが……?」
半信半疑でダイニングに向かうと、珍しく有紗がテーブルに着いていて、コーヒーカップを手にしていた。
玲音の足音に気が付いて上を見上げる彼女は、どことなく影を落としたような、アンニュイな空気をまとっている。
「おはよう。あなたもコーヒー飲む?」
――昨夜の状況に触れるべきか否か……
どこまで覚えているのかも判らないし……
「あ、ああ……」
返事をした玲音がテーブルにつくと同時に、有紗が立ち上がった。
「珍しいな。何も無いときは睡眠とるんじゃなかったのか? 肌が荒れるぞ?」
「大丈夫、肌は強い方だし」
有紗はぶっきらぼうに言う。
ふと昨夜の寝顔が目に浮かんだ。
同時に、長い睫毛に触れた指を頬に滑らせたことも思い出した。
「……そうみたいだな」
「それって、どういう意味?」
有紗は不審な表情を向ける。
「……別に。そのままだけど?」
「そう。あのさ……」
有紗は玲音に背を向けたままカップの準備に手を動かしながら言った。
「なんだ?」
「昨日……なんだけど」
「……ああ」
玲音は眉を上げながら、腕を組む。
有紗は冷蔵庫の中からキャサリンの紙袋を取り出して見せた。
「これ……冷蔵庫に入れたのは……あなた……」
「ああ、俺だけど?」
「……よねぇ? それで私、シャワー浴びてから……」
玲音はハッと目を見開くと、驚いた表情で恐る恐る有紗に尋ねる。
「まさか……お前、昨日の夜のこと……覚えてねぇとか……?」
「えっ? いや、あ……まるっきりじゃないわよ? 帰ってすぐシャワー浴びて、それから……」
「それから?!」
「えっと……降りてきて、ワインは……飲んだのかな? いや……飲んでない? えーっと……」
「うわ……もうそっからわかんないのか?!」
玲音は立ち上がらんばかりに、大きなリアクションをとる。
「え……うん……」
「ええっー! あんなことがあったのに?」
有紗は驚きの声をあげた。
「ええっ! あんなことってなに!?」
「へぇ……覚えてないんだ? ははっ。それはそれは!」
ニヤリと不適な笑みを浮かべる玲音に、有紗は一気に青ざめる。
「ち、ちょっと何よ! やだ! 心配になるじゃない! 教えてよ!」
「えーっ……どうしたもんかなぁ?」
腕組みをしながら天井を仰ぐ玲音を、有紗は忌々しそうに睨んだ。
「もう! 意地悪なんだから!」
玲音は笑いをこらえきれず吹き出す。
「ひっどい!」
有紗はズカズカと側までやって来て、玲音の前にコーヒーを置くついでに、その足を蹴飛ばした。
「痛ってぇ! おい! 冗談だろうが! ふふっ」
玲音は、足をさすりながらもまだ笑っている。
「……それで? ホントのところは……」
気になって仕方がない様子で玲音をチラチラ見ていた有紗は、まだ笑いをこらえている玲音の正面に座って鋭い眼光を向けた。
「なによ!? もう一度、蹴飛ばされたいわけ!?」
「あ……いや」
玲音はため息をついた後、親友と飲んでゴキゲンな状態で帰宅した後の件から、勝手にワインを一気に飲みして寝てしまった挙句、担いで上がらされる羽目になったと、身ぶり手振りで報告をした。
「め、迷惑かけたのね……」
半信半疑な面持ちでコーヒーをすすっていた有紗も、話が進むうちにどんどん顔色が変わっていく。
「あの、確認なんだけど……私、ホントにあなたの前で寝ちゃった……のよね? 信じられない……」
背を向けたままの有紗から、緊張感を帯びた声でそう聞かれた玲音は顔を上げた。
「ああ……そりゃもう! 死体みたいに重くて……あっ、いや……そういう意味じゃなくてだな! それは……お前が・重いって意味じゃなくて、その……お前の意識が、全くなかったから、こう……抱き上げにくくて……」
「もういい!」
有紗はバッと腕を前に出して玲音の言葉を制する。
「それ以上は、言わないで……わかった……ご迷惑をおかけしました」
大袈裟に頭を下げると、逃げるように踵を返す。
そして冷蔵庫から再度、キャサリンの紙袋を取り出した。
「私、これで朝食を済まそうと思うんだけど、あなたは? ベーグルでも焼く? チーズ挟んで……」
「あ、いや。俺もパイを頂くよ」
有紗に付き合って朝から甘い物を食べる羽目になったが、キャサリンのパイは、いざ口に入れてみるとその味のよさに引き込まれる。
同時に有紗の機嫌もなおっていった。
「ほんとにこのパイ、美味しいわよね! なんだか食欲も湧いてくる感じ!」
「ああ。そうだな」
" 姫 "の機嫌が直ったからか、なんだかホッとする。
昨夜の茶番劇が思い出されて、玲音は笑いをかみ殺しながら眉を上げた。
「いくらウマイからって、ガキみたいに一度にたくさん食うなよ」
「いいじゃない! 独り暮らしっていう設定なのに、ホールで頂いたのよ? せっせと食べなきゃ!」
いそいそとフォークを口に運ぶ有紗を見下ろしながら、玲音はその思い出し笑いをごまかすように言った。
「ったく、オンナってのは甘いもんひとつで簡単に気分が変わる生きもんなんだよな?!」
「なによそれ! 甘けりゃなんでもいいってワケじゃないわよ? このパイが美味しすぎるだけなの!」
そう言ってまた幸せそうな面持ちで、一口頬張る。
「フフッ、まぁ確かに、飽きない味だな」
「いいわよね? あなたは。local peopleだもん。どうせ " 昔からこれ食べて育った " なんて言うんでしょ?」
「あ……まぁな」
本当は昨日初めて食べたとも、ましてやまだ会っていない設定である彼女の親友が持ってきたとも言えるわけもなく、これは墓まで持っていくことになりそうだと思いながら、玲音はその馬鹿馬鹿しさに笑いをこらえた。
「やっぱりポピュラーなのね。納得だわ。だって司も……」
「えっ、司?!」
「ディナーの後、送ってもらった時にね、司にも分けようかって言ったの。そしたら、断られて。 " 手に入りにくい貴重品なんだから、家で大事に食べれば ?" って。やっぱりlocalsはもう食べ飽きてるのかな? 贅沢よねぇ」
目を丸くしながら話す有紗を見ながら、玲音はまたもや込み上げてくる笑いと戦う。
――そりゃそうだ、司も同じものを後部座席に隠し持ってた筈だからな……
「ねぇ。あなたもなにげに機嫌良くなってない?」
「は? 別に……そんなことねぇだろ」
「いや、そうよ!」
「それはお前だろ。どうせ " 入手困難 " っていうのも女心をくすぐるワードなんじゃねぇの?」
「私のこと言えないくらい幸せそうな顔に見えたんだけど? それほど美味しいって、あなただって思ってるんでしょ?」
「あ……まぁな」
二人は微笑みながら最後の一口を口に入れた。
「昨日もまたウォースアベニューのブティックオーナーとパワーランチだったんだよな? その店が『キャサリン』だったのか?」
「ええ、そうなの。あ、今日は早く帰って来れそうだから、昨日の経緯についてはその時に話すわね。午後からミセスランドルフと一緒に、改めて昨日の話についてブレーン会議をするんだけど、あなたにもいい報告ができると思う」
「そうか」
「うん。楽しみにしてて」
そう言って有紗は階段に向かった。
そして数段上って立ち止まる。
「あ……そういえば昨日ね、司が……ああ、何でもない」
階上に消えていく足音を聞きながら玲音はまた一人、ほくそ笑む。
「なるほど? 司のヤツ……早速、先制のジャブを打ってきたみてぇだな? よし、今夜はこっちの番だ。追い込みをしかけるとするか!」
第30話『Spotty』キャサリンパイの朝食 - 終 -




