第29話『 Is So Wasted』酩酊の同居人
司を見送って玄関ドアを閉めた途端、一気に静寂に包まれる。
リビングに向かうと窓から指す光は青みを増し、覗いた空には茜色の雲が浮かんでいた。
「確かに、ここしばらくは虹も見ていないし、夕日を見るのもここからだけだもんな」
玲音はゆったりとソファーに腰を下ろし、今日の司とのやり取りをまたパソコンに記録する。
色々なことが同時に進み始めていると感じた。
顔を上げた玲音は、両腕を高く上げながらぐーんと伸びをしてソファーにもたれ掛かる。
有紗は司と一緒だとわかっていることで、気を揉まずに済む。
そう思って初めて、自分も司と同じように彼女の身を案じていたのだと気が付いた。
自室でシャワーを浴びようと階段を上がる途中で、ふと思い出した。
司が来るというハプニングで、すっかり忘れていたことに自嘲する。
「はっ……そういや、トレーニングメニューを考えるんだったな」
玲音は、今回ここに戻ってから一度も使っていなかったGYMに向かうため、そこに続くバスルームのドアを開けた。
突き当たりの洗面台には見慣れないガーリーなアメニティが並んでいて、その隅にスマートフォンが置いてあった。
「ったく! ここにあったのか。ホント、忘れ物の多いヤツだな」
それを持って降りるか一瞬躊躇したが、ランドリールームに用があったからとでも言えば不自然ではないだろう。
その忘れ物の傍らにクリスタルボックスがあった。
そっと開けると宝石のような形をした赤く透き通ったバスジェルが幾つも入っていて、濡れた髪の有紗から香り立ったあの薔薇の匂いが、辺り一面に広がる。
フッとスムージー片手に自分を見上げる有紗の顔が浮かび、玲音はその無防備な表情に、一人笑った。
「フン……最先端をいく若き編集長だと? あのガキみたいな顔でか?」
玲音はそのままGYMで汗を流し、素肌にローブをまとった姿のまま、有紗のスマートフォンを手にした。
以前ならその半裸のままリビングに降りていたが、今はそれもためらわれる状況で、溜め息をつきながら自室で服を着た玲音は、階下に降りてキッチンカウンターにスマートフォンを置くと、パントリーから調達したナッツチョコを傍らにグラスにワインを注いだ。
二十三時を回っても玄関から音がしない。
「司め! 不良主婦だな」
そう笑った瞬間、門扉の解錠のランプが点灯し、かすかに車の音がした。
ほどなくして玄関ドアが開く。
うわずらないように平然を装って声を発する。
「ああ、おかえり」
「だだいま、ごめん。実はね、司と会ってたの」
「へ、へぇ……司と?」
「うん、連絡しようにもスマホが見つからなくて……」
玲音は視線でキッチンを指した。
「え! 家の中にあったの? 良かった!」
駆け寄る有紗に、気のない声をつくって言った。
「ランドリーにタオルを取りに行ったら、洗面台に」
「そっか……」
「そそっかしいな。いざというときに困るぞ。気を付けろよ」
「はーい。そうよね。ねぇ、ところで今日は何してたの?」
思わず見開く目をごまかすように、少し下を向く。
「は? べ、別に……なにしてたって、構わないだろう!」
「そりゃあ……構わないけど」
ぎこちない言い方になったことを不甲斐なく思う。
気にすることもなく妙ににこやかな有紗を、玲音は訝しい眼差しで見つめた。
「お前……親友と飲んできたのか?」
「飲んできたわよ、いいじゃない! 明日はパワージョギングもパワーモーニングもないんだし。ああ楽しかったぁ! あ、そうだ! お土産があるんだけど。あ……先にシャワー浴びて来ていいかな……待ってて」
そう有紗は一人で散々まくし立てて、慌ただしく二階へ上がって行く。
「あーあー! 帰ってきた途端に騒がしい……支離滅裂だぞ」
そう言いながらも、なんだか安堵に包まれている自分がいた。
しばらくゆったりとグラスを傾けていた玲音は、空になったグラスを片手にキッチンへ向かうと、三杯目のワインボトルの吟味を始めた。
バタバタとまた気忙しい足音が聞こえる。
さっきまでふわふわと巻かれていた髪がまっすぐになって、服もラフスタイルなルームウェアに変わっていた。
「ああっ! ひょっとして冷蔵庫の開詮してたワイン……」
「あ、全部飲んじまった。悪りぃ」
「えー! まぁ……別にいいけど。で、なに探してんの? あ、次のワインとか?」
有紗は玲音の背後から顔を覗かせる。
その不自然なほど上機嫌な有紗の言動に首をかしげながら、玲音は神妙な面持ちで有紗を見下ろした。
「ちょっと待て……お前、なんかへんだぞ。結構飲んでんじゃねえのか? なのにシャワーなんか浴びたりして……大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫、大丈夫! ねぇ新しいの開けるんだったらさ、スパークリングワインにしない? お風呂上がりにはスパークリングが最高!」
「おいおい……炭酸水の代わりじゃねぇんだぞ!」
「いいから! 早く開けてよ!」
玲音は冷やしてあったスパークリングワインをしぶしぶ開けた。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「ええ、よろしくてよ」
「は? 何様だ! ったく……ははっ」
有紗はついでもらったワイングラスを一気に持ち上げようとして、玲音に止められる。
「お、おい、こら! お前! いい加減にしとけって!」
「もぉ、つまんないこと言わないでよ。あ! そうだ! お土産あったんだった!……っと、ちょっと待ってよ? あれ? どこに置いたんだっけ?」
「おい……またか? お前さ、やっぱりだいぶん……」
「あー! 部屋に持って上がっちゃったんだ……取ってくる!」
そう言ってバッと立ち上がった瞬間、カウンターチェアーに足をとられ、転びそうになった。
「きゃっ」
すかさず玲音が抱き留める。
「お前っ! もう、じっとしてろ!」
「そんなに怒んないでって!」
玲音はそっと有紗をチェアーにすわらせた。
「今日はもういいから。土産ってなんだ? 日持ちするのか?」
「まぁ、冷蔵庫なら二、三日はね。パイよ、キャサリンの」
「え? まさか『Catherine・Field』……」
「知ってるの? まぁ、そりゃ有名店だもの。でも簡単に買えないのよ、ミセスランドルフがね、わざわざ……」
「わかったから。どこに置いた? 俺が取ってこよう」
「今度はちゃんと覚えてるわ。ベッドの上」
「じゃあ待ってろ。取ってくる」
「え……人の部屋に入るワケ?」
玲音は面倒くさそうに有紗を睨んだ。
「……あのなぁ! こんな調子で階段を登り降りしてスッ転んだらどうする! ベッドの上の紙袋を取ってくるだけだ! お前の部屋になんか興味はない!」
「そこまで言わなくても!」
「フッ」
その膨れっ面を見て、玲音は笑いながら階段を上っていった。
「オレンジ色の紙袋よ! 大きくキャサリンの C って書いてる。めちゃめちゃ美味しくてビックリするんだから!」
階下で有紗が大きな声で叫んでいる。
「ああ知ってるよ。昼間に食ったばかりだからな」
そう小さく囁きながら、有紗の部屋から戻ってきた玲音は、有紗の背後からその紙袋を目の前にかざした。
「こちらでお間違いないですか、お嬢様?」
精一杯おどけてみせたにもかかわらず、反応がない。
「ったく、なんだよ! シラケんじゃねぇか。ん?」
テーブルに目をやると有紗のワイングラスが空になっていた。
「ええっ!? さっき注いだばかりの……おまえなぁ!」
前へ回り込むと、その目は閉じられていて、ワイングラスに添えられていた手がだらりと下に落ちた。
意識を失ったかのようにテーブルに突っ伏している有紗を見て、玲音は額に手をやる。
「おい! 寝ちまってるじゃないか! こんなところで寝るなよ!」
いくら声をかけても、有紗は目を開かず、死んだように無反応だった。
「おいおい、ウソだろ……俺にどうしろと……」
一体どれほど飲ませたんだと司に電話して聞いてやろうかとも思ったが、またあの意味深な笑い声で茶化されるのが関の山だと思い直した玲音は、やむを得ず有紗の肩に手をかけた。
とたんにスルッと椅子から身体ごと滑り落ちそうになって慌てて抱き上げる。
「うわ重っ! お、おい、ちったぁもたれ掛かってくんねぇと……ううっ! これじゃ死体を運んでるようなもんだ。はぁ……」
なんとか体勢を整えて、その頭を自分の胸に引き寄せた。
彼女の体温と共に、また薔薇の香りが立ち登ってくる。
玲音は軽く咳払いをすると、一気に階段を登りきった。
「ぃよっと!」
なんとか有紗をシーツの間に滑り込ませ、ブランケットでその身体を覆った。
「はぁっ……チッ! ピクリとも動きゃしねぇ。マジで死んでんじゃないだろうな?」
そう言って額をツンと弾く。
「ったく、無防備な……俺だってオトコなんだぞ! 襲われたら……どうするつもりだ!」
そっと顔を近付けた。
有紗はスースーと寝息を立てている。
「ふぅ……寝てると静かなもんだな。……あれ、睫毛、長っ」
そっと指先で触れてみる。
「付け睫とか?……んなわけねぇか、フロ上がりだし」
その指で頬をなぞった。
「ふーん、起きねぇな。疑うことを知らないってか? 平和なヤツだ。ったく、ガキみてぇな顔で気持ちよく寝やがって! あ……」
玲音はスッと顔を上げる。
「はぁ……ったく、何やってんだ俺は? 俺も飲みすぎたか?」
玲音はそう言って立ち上がると、もう一度有紗のブランケットをかけ直して、襟元を整えた。
「……おやすみ」
そっとそう呟いた玲音はライトを消し、階下に戻ると、『Catherine・Field』のパイを紙袋ごと冷蔵庫にしまった。
そしてふう、と大きく息をつきながら広いリビングを見回すと、刺激的だった今日一日を振り返り、また微笑んだ。
第29話『 Is So Wasted』酩酊の同居人- 終 -




