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第九十五話 最初に増えたもの

神殿から戻る。


玄関を入る。


いつもの屋敷。


いつもの廊下。


洗礼へ向かう時より。

人の動きはゆっくりになっていた。


もう準備は終わったから。


俺も部屋へ戻る。


マリーが洗礼用の服を脱がせる。


普段着へ着替える。


鏡を見る。


「戻った」


「何がです?」


「いつもの俺に」


マリーが襟を整えながら笑う。


「服が戻っただけですよ」


「洗礼を受けた俺ではある?」


「もちろんです」


見た目では分からない。


服を戻せば。

朝とほとんど同じ。


でも。

記録の上では違う。


家族も。

神殿も。

俺が洗礼を終えたことを知っている。


「証明するものは?」


「神殿の記録があります」


「紙?」


「はい」


「俺が持つ?」


「今は旦那様がお持ちです」


やっぱり。

儀式が終わると。

記録が残る。


その紙を見れば。

その場にいなかった人にも分かる。


俺が十歳になり。

洗礼を受けたこと。


儀式の中では何も測らなかった。


でも。

行ったことは残す。


「測らないけど、記録はする」


「まだ考えているんですか?」


「終わったから考えてる」


終わる前は。

何が起きるかを見ていた。


今は。

終わったあとに何が残るかを見る。


昼食。


家族が同じ卓につく。


少しだけ料理が多い。


母上が言う。


「改めて、おめでとう」


「ありがとう」


父上も頷く。


姉が俺を見る。


「どうだった?」


「何も出なかった」


「何か出ると思っていたの?」


「前は」


兄が笑う。


「残念だったな」


「今は残念じゃない」


「そうなのか?」


「測らない方が合ってた」


兄はよく分からない顔をした。


それでいい。


俺も。

昨日までは分からなかった。


食事が進む。


特別なことは起きない。


父上と兄は領地の話をする。


母上と姉は。

今度出席する集まりの話をしている。


俺は食べる。


いつもの家族の食事。


洗礼を終えたからといって。

話の中心がずっと俺になるわけではない。


それも少し安心した。


主役は。

一日中主役ではない。


必要な時だけ。

みんなが同じ場所を見る。


終われば。

それぞれの時間へ戻る。


食事の終わり。


父上が俺を呼んだ。


「アルス」


「はい」


「明日から、授業の内容を少し変える」


来た。


洗礼のあとに変わるもの。


俺は姿勢を直す。


「何が増える?」


「それは先生と話せ」


「父上は決めない?」


「大枠は決めてある」


「細かいところは?」


「お前も決めろ」


そこで止まった。


俺も決める。


今までは。

先生が今日学ぶものを用意していた。


文字。


計算。


歴史。


地理。


魔素。


俺は質問する。


寄り道する。


でも。

最初に何を学ぶかは。

大人が決めていた。


「好きなものだけでいい?」


父上は首を振る。


「必要なものは学ぶ」


やっぱり。


「じゃあ何を決める?」


「何を先に深く学ぶかだ」


全部を選べるわけではない。


学ばなくていいものを決めるのでもない。


順番。


深さ。


使う時間。


そこに。

俺の考えが入る。


「間違えても?」


「その時は変えればいい」


「途中で?」


「理由があるならな」


理由。


ただ嫌だからではなく。


見て。

考えて。

合わなければ変える。


「分かった」


答える。


父上はもう一度頷いた。


それだけだった。


でも。

洗礼の前にはなかった話。


午後。


先生が来る。


机の上に。

二冊の本を置いた。


一冊は魔素の基礎。


もう一冊は領地の運営。


前に使っていた本より厚い。


「どっちも読む?」


「いずれは」


「今日は?」


「アルス様が決めてください」


本当に来た。


俺は二冊を見る。


魔素。


ずっと気になっている。


自分の中にもある。


使えば動く。


休めば戻る。


人によって違う。


まだ分からないことが多い。


領地の運営。


道。


町。


倉庫。


商人。


税。


人と物の流れ。


最近見ていたものが。

どうつながっているのか分かるかもしれない。


どちらも知りたい。


「両方を少しずつ」


先生が首を振る。


「それもできますが、今日は一冊を選んでください」


「なんで?」


「選ぶ練習です」


練習。


魔法でも。

剣でもない。


選ぶ練習。


「両方なら間違えない」


「その代わり、どちらにも使える時間が半分になります」


机の上に。

午後の時間がある。


増やせない。


二冊とも開けば。

一冊を見る時間は短くなる。


一冊を選べば。

もう一冊は今日は進まない。


「選ぶと、選ばなかった方が遅れる」


「そうですね」


「それも含めて選ぶ?」


「はい」


少し困る。


でも。

嫌ではない。


前なら。

先生が決めた本を開けばよかった。


今日は。

開く前に考える必要がある。


今の俺が。

一番見たいものは何か。


魔素は。

明日も自分の中にある。


領地の本には。

この前見た街道や倉庫を考えるための線がありそうだ。


「こっち」


領地の運営の本を取る。


先生は理由を聞く。


俺は今考えたことを話す。


「では、今日はこれにしましょう」


魔素の本が机の端へ移る。


選ばなかった本。


消えたわけではない。


読めなくなったわけでもない。


ただ。

今日は読まない。


先生が本を開く。


最初の頁には。

領地の地図があった。


町。


村。


道。


川。


森。


畑。


その横に。

人の数と。

主な産物が書かれている。


「地図だけじゃない」


「運営には、場所だけでなく、そこで何が起きているかも必要です」


前に考えたこととつながる。


道の線だけでは。

流れは分からない。


どこに人がいるか。


何を作るか。


何が足りないか。


どこへ運ぶか。


「これを見て決める?」


「一つの材料にします」


また。

一つだけではない。


俺は頁をめくる。


数字がある。


記録がある。


でも。

地図に書かれていないものも多い。


人の気持ち。


天候。


事故。


商人の判断。


同じ道でも。

毎日同じようには流れない。


「全部分からないのに決める?」


「全部が分かるまで待っていれば、何も決められません」


それは。

少し怖い。


足りない情報で選ぶ。


間違えるかもしれない。


今日の本なら。

明日変えられる。


でも領地の判断なら。

人が動く。


物が動く。


結果が残る。


「選ぶ人は、正解を知ってる?」


「知っているとは限りません」


「それでも選ぶ?」


「選ばないことにも結果がありますから」


止まる。


両方を選ばない。


決めるのを待つ。


それも。

何もしていないようで。

時間を使っている。


物は届かないかもしれない。


道は直らないかもしれない。


誰かが代わりに決めるかもしれない。


選ばないことも。

流れの外には出られない。


俺は帳面を開く。


『洗礼のあと、最初に増えたもの』


書く。


力ではない。


魔素でもない。


身体でもない。


『自分で決める範囲』


その下へ。


『選べるものが増えると、選ばなかったものも生まれる』


『情報が全部そろわなくても、決める必要があることがある』


最後に。


『決めないことにも結果がある』


書き終える。


先生が帳面を見る。


「難しく考えましたね」


「難しいものを渡された」


「本を一冊選んだだけですよ」


そう。


今日は本を一冊選んだだけ。


誰も困らない。


失敗しても。

明日はもう一冊を読める。


だから。

練習なのかもしれない。


小さな選択。


小さな結果。


そこから始める。


洗礼を受けても。

急に大きな責任を渡されるわけではない。


まずは。

午後に読む本を一冊。


十歳になって。

最初に増えたものは。


自由ではなかった。


自由と一緒に。

自分で決めた結果を受け取ることだった。


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