第九十四話 祝福の言葉
神官の声が響く。
低く。
ゆっくり。
普段の会話より少し遅い。
言葉を一つずつ置くように。
俺は前を向く。
最初に。
ここまで育ったことへの感謝。
家族への感謝。
周囲の人への感謝。
そして。
これから先。
自分の力を知り。
学び。
使い方を考えること。
そんな内容だった。
難しい言葉も少しある。
でも全部は分からなくても。
大きな意味は分かる。
「力を持つ者は、その力だけで自らを測ってはならない」
そこで少し気になった。
力だけで測らない。
昨日まで考えていたことと似ている。
魔素量。
得意な魔法。
強さ。
そういうものを。
洗礼では測らない。
そして今。
神官は。
力だけで自分を決めるなと言っている。
偶然?
昔からそういう考え方がある?
聞きたい。
でも今は聞かない。
神官が続ける。
「知ること」
「選ぶこと」
「行うこと」
三つの言葉が出た。
俺は頭の中で分ける。
知る。
選ぶ。
行う。
知っただけでは終わらない。
選んだだけでも終わらない。
行えば結果が出る。
でも。
知らずに選ぶこともある。
選ばずに流されることもある。
「アルス」
また名前を呼ばれる。
考えるのを止める。
「はい」
「これより先、学ぶことを恐れず、己の力を知ろうと努めますか」
「はい」
これは答えやすい。
知りたい。
ずっとそうしてきた。
「得た力を、ただ自らのためだけに用いぬことを心に留めますか」
少し止まる。
自分のためだけに使わない。
全部を他人のために使う、ではない。
ただ自分のためだけにしない。
違う。
「はい」
返事をする。
次。
「自らの考えが、常に正しいとは限らぬことを忘れませんか」
今度は。
少し笑いそうになった。
それはよく分かる。
一つの答えにしない。
条件を見る。
違う場所から見る。
何度もやってきた。
「はい」
神官の目が少し柔らかくなる。
多分。
返事が早かったから。
その後。
祈りの言葉が続く。
俺は決められた通りに頭を下げる。
手を合わせる。
目を閉じる。
暗い。
当然。
でも音はよく聞こえる。
神官の声。
衣擦れ。
誰かの小さな呼吸。
外を通る馬車の音。
洗礼の最中でも。
町は動いている。
俺だけの時間ではない。
前の話で考えたことがまた浮かぶ。
町は普通。
俺には特別。
同じ時間。
違う意味。
「目を開けてください」
目を開く。
神官が俺の前に立っている。
手には何もない。
やっぱり。
石も。
水晶も。
魔道具も。
最後までない。
神官が右手を少し上げる。
「アルス。今日までの歩みに祝福を。これより先の歩みに、学びと選択と良き出会いがありますように」
それだけだった。
光らない。
音も鳴らない。
魔素が急に増えたりもしない。
でも。
何も起きなかったとは思わなかった。
後ろを見る。
母上が少し笑っている。
父上はいつもとあまり変わらない顔。
でも目が合うと。
小さく頷いた。
姉も笑っている。
兄は。
少しだけ口元を上げた。
マリーもいる。
いつもと同じ人たち。
でも。
俺を見る顔が。
少しだけ違う気がする。
本当に違う?
俺がそう見ているだけ?
まだ分からない。
神官が言う。
「これで洗礼は終わりです」
終わった。
俺は自分の手を見る。
何も変わっていない。
握る。
開く。
魔素を感じる。
いつも通り。
「変わってない」
小さく言う。
神官に聞こえたらしい。
「そう見えますか」
「はい」
「それでよいのです」
俺は顔を上げる。
「変わらなくていい?」
「一日で別人になるための儀式ではありませんから」
前にも聞いた。
でも。
今は少し違って聞こえる。
洗礼を受けた。
それでも俺は俺。
昨日の続き。
でも周りは。
今日を境目として覚える。
俺自身も。
多分覚える。
「じゃあ、何が変わった?」
神官は少し考える。
「それは、今日ではなく。これから見つけるものかもしれません」
答えになっているような。
なっていないような。
でも。
今はそれでいい。
すぐに答えを決める必要はない。
礼拝堂を出る。
扉の外は明るい。
朝より少し日が高くなっていた。
町の音も戻ってくる。
人の声。
荷車。
馬。
店を開く音。
世界は普通に続いている。
俺もその中へ戻る。
十歳。
洗礼を受けた。
でも。
変化は儀式の中だけにあるのではない。
多分。
ここから先。
周囲が何を任せるか。
何を教えるか。
俺が何を選ぶか。
その積み重ねの中で。
今日の意味があとから見えてくる。
俺は帳面を持ってきていない。
だから頭の中だけで一つ残す。
『節目は、その瞬間に全部を変えるのではない』
『節目の後に起きる変化を、人が意味としてつないでいく』
馬車へ向かう。
洗礼は終わった。
でも。
十歳の観測は。
ここから始まる。




