第九十三話 洗礼の朝
朝。
目が覚めた。
いつもと同じ天井。
いつもと同じ部屋。
窓の外も。
特に変わっていない。
でも今日は洗礼の日だった。
「十歳になった感じする?」
自分に聞いてみる。
しない。
昨日と同じ。
手も。
足も。
魔素の感覚も。
急に増えてはいない。
当然と言えば当然。
昨日まで何度も確認した。
洗礼は測定ではない。
力を増やす儀式でもない。
それでも。
屋敷の中は昨日と違った。
廊下を歩く人が少し早い。
使用人の声もいつもより小さい。
朝食の時間も少し早い。
母上はもう着替えていた。
父上も普段より整った服を着ている。
兄と姉もいる。
「おはよう、主役」
兄が言った。
「主役?」
「今日はお前の洗礼だからな」
俺だけのために。
みんなの予定が変わっている。
昨日まで。
洗礼は一人の節目だと思っていた。
でも一人だけでは成立しない。
家族が来る。
神官が待つ。
使用人が準備する。
馬車も出る。
「一人の行事なのに、人がいっぱい動く」
姉が笑った。
「そういうものよ」
また。
そういうもの。
説明としては曖昧。
でも今日は。
曖昧なまま見てみる。
朝食を終える。
部屋へ戻ると。
マリーが洗礼用の服を用意していた。
白を基調にした服。
普段着より硬い。
飾りは多くない。
でも明らかに特別な服だった。
「動きにくそう」
「走る日ではありませんから」
「転んだら?」
「転ばないでください」
「努力する」
袖を通す。
マリーが襟を直す。
紐を整える。
少し離れて見る。
また近づいて直す。
「そんなに違う?」
「少し違います」
「俺には分からない」
「分からなくて大丈夫です」
鏡を見る。
いつもの俺。
服だけ違う。
でも。
服が違うと。
少し別の人に見える。
「服で見え方も変わる」
「今日は観測しなくていいんですよ」
マリーが言った。
「無理」
即答する。
マリーがため息をついた。
でも笑っている。
「では、せめて遅れない程度にしてください」
「分かった」
廊下へ出る。
玄関には父上たちが集まっている。
いつもなら。
誰かが出かけるだけ。
今日は全員が同じ方向へ向かう。
屋敷の前に馬車がある。
御者も正装に近い服を着ていた。
「御者まで?」
父上が答える。
「家の行事だからな」
家の行事。
俺の洗礼。
でも家の行事。
同じ出来事でも。
見る場所で名前が変わる。
馬車に乗る。
道はいつもの道。
前に神殿へ行った時と同じ。
商店も開き始めている。
荷車も動いている。
町の人にとっては。
普通の朝。
俺にとっては洗礼の日。
「同じ時間なのに違う」
母上が聞く。
「何が?」
「町は普通」
「そうね」
「俺だけ特別」
「あなたにとってはね」
俺にとって。
家族にとって。
神殿にとって。
町全体にとって。
重要さが違う。
世界全部が俺の節目に合わせて変わるわけではない。
当たり前。
でも少し面白い。
神殿へ着く。
前に来た時と同じ石段。
同じ高い扉。
ただ今日は。
入口に神官が一人立っている。
俺たちを見ると頭を下げた。
父上が挨拶する。
母上も。
俺も真似する。
「本日はおめでとうございます」
神官が俺に言った。
「ありがとうございます」
昨日までなら。
何がおめでたいのか聞いていたかもしれない。
今日は聞かなかった。
十歳まで育ったこと。
ここまで無事だったこと。
家族がそれを喜んでいること。
そういうものをまとめて。
おめでとう。
なのかもしれない。
中へ入る。
前に見た礼拝堂。
長い椅子。
祭壇。
窓から入る光。
やっぱり。
測定器はない。
水晶もない。
魔法陣もない。
少し笑いそうになる。
「何かありましたか?」
母上が小声で聞く。
「本当に何もないなと思って」
母上も小さく笑った。
「それを確認しに来たわけではないでしょう?」
「半分くらいは」
父上に聞こえたらしい。
前を向いたまま。
「今日は少し静かにしていろ」
「はい」
礼拝堂の前方へ進む。
前に神官が教えてくれた小さな台。
今日はそこに薄い布が敷かれている。
それだけ。
でも。
前に見た時より特別に見える。
物が変わったからではない。
今日ここに立つと知っているから。
「意味が先に乗る」
小さく言う。
「アルス様」
後ろからマリーの声。
今は観測しない。
そういう意味だと思う。
俺は口を閉じる。
神官が前へ出る。
家族が席につく。
俺だけが残る。
急に。
少し静かになった。
外の音が遠い。
石の建物の中で。
自分の呼吸だけが少し大きく聞こえる。
緊張?
多分。
怖くはない。
何が起きるかも知っている。
それでも。
みんなが座って。
自分だけが前に立つと。
体の感じが少し変わる。
「これも儀式の一部?」
誰にも聞かない。
立つ場所。
服。
静けさ。
見ている人。
神官の声。
一つずつは普通でも。
重なると。
いつもの朝とは違う場所になる。
神官が俺を見る。
「アルス」
名前を呼ばれる。
「はい」
返事をする。
その一言が。
礼拝堂の中に少し響いた。
洗礼が始まった。




