第八話 兄の魔法
数日後。
父上から休めと言われた一日は、とっくに終わっていた。
だからといって、すぐに自分で魔素を動かし始めたわけではない。
先に見ることにした。
この世界の人たちが、普段どうやって魔法を使っているのか。
ちょうどいい相手は、屋敷の中にいた。
「兄上、見ててもいい?」
屋敷の裏にある訓練場で、兄のクラウスが振り返った。
「別にいいけど、前に出るなよ」
「うん」
俺は素直に端へ下がった。
隣にはマリー。その足元にはクロム。
訓練場の中央にはクラウスと、魔法を教えている屋敷の教師がいる。
少し離れた場所には、人の胸ほどの高さの木製の標的が立っていた。
「では、もう一度」
教師の声に、クラウスが右手を前へ出す。
俺は目を凝らした。
何も起きない。
いや、違う。
魔素を感じる方へ意識を切り替えると、兄上の身体を巡っていた流れの一部が右腕へ集まっていくのが分かった。
昨日までなら、たぶんここまでしか見えなかった。
今は、その先が気になる。
集めた魔素が手のひら付近で動き、周囲の何かへ働きかける。
次の瞬間。
バンッ、と乾いた音がした。
木の標的が大きく揺れる。
火は出ていない。
光もほとんどない。
ただ、見えない何かに殴られたように標的だけが動いた。
「今の何?」
思わず声が出た。
クラウスがこっちを見る。
「風だよ」
「風?」
「そう」
俺は標的を見た。
風。
そう言われれば分かる。
でも、前世の感覚で考えると、風というのは空気の移動だ。
なら今の魔法は、何をした?
空気を作った?
空気を動かした?
それとも魔素そのものが標的を押した?
「アルス」
「はい」
教師に呼ばれて顔を上げる。
「何か気になりましたか?」
「今のって、魔素が飛んで標的を押したんですか?」
少し間があった。
教師は俺ではなく、クラウスを見た。
「クラウス様はどう思われます?」
兄上が嫌そうな顔をした。
「俺に聞くの?」
「ちょうど良い復習です」
なるほど。
俺の質問が兄上の授業にされた。
クラウスは少し考えてから答えた。
「魔素で、空気を動かしてる」
「概ね正解です」
教師が頷く。
「魔素そのものをぶつけているわけではありません。魔素を介して周囲の空気へ働きかけ、流れを作り、その圧力を標的へ向けています」
俺はもう一度、標的を見た。
やっぱり空気を動かしていた。
「じゃあ、空気がないところだと使えない?」
教師が止まった。
クラウスも止まった。
マリーまで止まった。
「……アルス様」
「はい」
「空気がない場所というのは、どちらでしょう」
しまった。
この世界で真空の話を五歳児が始めるのは面倒だ。
「分かんない。もし、なかったら」
「なるほど」
教師は少し考えた。
「少なくとも、この方法では難しいでしょう。ただし別の方法で似た結果を作ることは可能だと思われます」
それだ。
俺は嬉しくなった。
結果が同じでも、方法は一つじゃない。
本に書いてあったことと同じだ。
「じゃあ、魔素だけを飛ばすことはできる?」
「できます」
今度は即答だった。
「できるんだ」
「ただし、何の工夫もせず放出しただけでは拡散しやすく、効率も良くありません。訓練として行うことはありますが、それだけで実用的な攻撃にする意味はあまりないでしょう」
なるほど。
できないわけじゃない。
でも、やる意味が薄い。
俺は頭の中に一つ置いておくことにした。
今はそれでいい。
「アルス、質問終わった?」
クラウスが少し呆れた顔をしている。
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「続けていいよ」
「俺の訓練なんだけどな」
兄上はそう言いながら、もう一度標的へ向き直った。
教師が姿勢を直す。
「先ほどは威力を出そうとして、魔素を集めすぎています。必要なのは量だけではありません」
「分かってる」
「分かっていてできるなら、私は必要ありませんね」
「……やります」
兄上が黙った。
ちょっと面白い。
再び魔素が右腕へ集まる。
今度はさっきより少ない。
それでも標的は、同じくらい大きく揺れた。
俺は目を見開いた。
量が減ったのに、結果はほとんど変わらない。
「今の方が少なかった」
教師がこちらを見る。
「分かりましたか?」
「うん」
「魔素を多く使えば、必ず強い魔法になるわけではありません」
流す方向。
働きかける場所。
使う量。
タイミング。
たぶん、他にもある。
前世で知っていた機械と同じだ。
燃料を倍にしたからといって、何でも性能が倍になるわけじゃない。
むしろ無駄になることもある。
「もう一回見たい」
「アルス」
クラウスが振り返る。
「はい」
「俺、あと何回やればいい?」
「分かるまで」
「お前が?」
「うん」
「俺の訓練だぞ!」
今度はマリーが吹き出した。
教師も顔を背けている。
兄上だけが納得していない。
「ごめん。兄上の練習が終わるまででいい」
「最初からそうしろ」
クラウスは文句を言いながら、また右手を上げた。
俺はその横で、何度も魔素の流れを追った。
同じ魔法でも、毎回まったく同じではない。
集まり方が少し違う。
動き始める場所も違う。
標的の揺れ方も違う。
失敗もした。
一度は風が横へ逃げ、標的の脇に立ててあった木札だけが派手に飛んだ。
「今のは?」
「聞くな」
「でも――」
「聞くな!」
怒られた。
けれど、俺には成功した時より面白かった。
同じことをしようとして、結果が変わる。
なら、違いがどこかにある。
魔法は願えば起きる奇跡じゃない。
少なくとも、今見ているものには過程がある。
そして過程があるなら。
比べられる。
試せる。
失敗から、何かを拾える。
訓練を終えたクラウスが、汗を拭きながらこちらへ来た。
「満足した?」
「うん」
「じゃあ次は自分でやれよ」
「やっていいの?」
「父上に聞け」
そこは兄上も勝手に許可してくれなかった。
俺は訓練場の標的を見る。
別に、あれを倒したいわけじゃない。
強い魔法を撃ちたいわけでもない。
ただ。
同じ結果を、同じように出せるのか。
失敗した時、何が違うのか。
それが知りたくなった。
たぶん俺はこの日、初めて魔法を「使ってみたい」ではなく――。
「確かめてみたい」と思った。




