第六十五話 触れる前
朝。
俺は右手の前に、小さな魔力の膜を作った。
昨日より小さい。
手のひらと同じくらいの広さ。
輪郭は揃えない。
厚さも、無理に均一にはしない。
端だけを意識して、中央は多少揺れてもそのままにする。
淡い光が空中に浮かぶ。
「今日は薄くするのですか?」
マリーが聞いた。
「薄くする。でも見るのが目的じゃない」
「では?」
「感じる」
昨日、薄くするほど膜は見えにくくなった。
光が弱く見えたからといって、魔力そのものがなくなったとは限らない。
なら、目を使わずにそこにあると分かるのか。
それを試す。
先生が俺の前に立った。
「最初に、何を『感じる』と呼ぶか決めた方がよいでしょうね」
いきなり難しい。
「魔力があるって分かること?」
「それでは、膜の形まで分かる必要がありますか?」
「……違う」
今日はそこまでいらない。
まずは、
ある。
ない。
それだけでいい。
「目で見ないで、膜があるか分かる」
帳面に書く。
『目的――視覚を使わず、自分が作った薄い魔力の存在を認識できるか確認する』
書いてから、もう一つ気づく。
自分で作っている。
当然、出したことを覚えている。
目を閉じても、
『さっきここに作った』
と知っている。
それでは、感じたのか覚えていただけなのか分からない。
「自分で作ったら駄目?」
先生が少し考えた。
「駄目ではありませんが、確認できることは限られるでしょうね」
やっぱり。
でも最初から他人の魔法を使うと、今度は術者が変わる。
今日は段階を分ける。
まず自分。
その後で先生。
「最初は俺のでやる」
小さな膜を維持したまま、目を閉じる。
光が消える。
いや、見えなくなる。
魔力の膜はまだある。
それは分かる。
「ある」
「どこに?」
先生が聞く。
右手の前。
それも分かる。
でも、自分でそこに置いた。
「知ってるだけかも」
目を閉じたまま、膜を少し右へ動かしてみる。
動かす。
止める。
「右」
当然だ。
自分で動かした。
これでは確認にならない。
「自分の魔法って難しいな」
目を開ける。
膜はちゃんと右へ移動している。
消す。
帳面へ書く。
『自己生成した膜では、操作している位置を術者自身が把握しているため、感知と記憶を分離しにくい』
先生が覗き込む。
「では、どうします?」
「先生が作る」
「私の魔力を?」
「うん」
ただし、最初から見せない。
俺は目を閉じる。
先生がどこかに魔力を出す。
俺が感じる。
単純だ。
「近くからお願いします」
「分かりました」
俺は両手を膝の上に置いて座った。
目を閉じる。
先生が動く音がする。
「音も聞こえる」
先生の足音で場所が分かってしまう。
「動かないで作って」
「ここから届く範囲で、ということですね」
「うん」
先生の位置は固定。
俺の位置も固定。
どこに膜を作るかだけ変える。
「始めます」
待つ。
何も見えない。
風。
鳥。
遠くの話し声。
庭の魔素。
普段は全部まとめて感じている。
その中から、先生が作った魔力だけを探す。
しばらくすると。
右側。
何かある。
「右?」
目を開ける。
右側に淡い膜が浮いていた。
「当たり?」
「はい」
嬉しい。
でも一回。
「もう一回」
目を閉じる。
先生が膜を消す。
次。
今度は。
分からない。
正面?
左?
何かを探そうとすると、庭の魔素まで全部それらしく感じる。
「……正面」
目を開ける。
左だった。
「外れた」
「はい」
帳面へ記録する。
右――正答。
左――正面と回答。
三回目。
目を閉じる。
待つ。
今度は比較的すぐ分かった。
「近い」
「方向は?」
「正面より少し右」
目を開ける。
膜は正面右寄り。
近い。
でも先生を見る。
「俺、先生の手の位置を覚えてない?」
先生は最初から同じ場所に立っている。
ただし腕は動かしている。
衣擦れ。
呼吸。
わずかな動き。
目を閉じても音は聞こえる。
「魔力じゃなくて音で当ててるかもしれない」
「では耳も塞ぎますか?」
「うん」
マリーに頼む。
布を用意してもらう。
「これで?」
「たぶん」
「目も耳も塞ぐのですか?」
「うん」
「転ばないでくださいね」
座っているから大丈夫だ。
目を閉じる。
耳も布で覆う。
完全に無音にはならない。
でも先生の小さな動きはかなり分かりにくくなる。
もう一度。
待つ。
さっきより難しい。
周囲が静かになったせいか、逆に自分の身体の感覚が強い。
呼吸。
鼓動。
体内を巡る魔力。
その外側。
庭。
そこに。
何かが増える。
「……左」
布を外す。
目を開ける。
左に膜。
「当たった」
次。
「右」
外れ。
正面だった。
次。
「分からない」
目を開ける。
膜は右側にある。
「今のは全然分からなかった」
先生が膜を消す。
五回やった。
当たる時もある。
外れる時もある。
分からない時もある。
これだけでは、本当に魔力を感じているのか判断できない。
「ある時だけやってるから駄目だ」
気づいた。
先生が毎回必ず膜を作る。
だから俺は、
『どこかにある』
と思って探している。
何も感じなくても、右、左、正面のどれかを答えれば当たることがある。
「作らない時も混ぜて」
先生が頷いた。
「その方がよさそうですね」
俺には作ったかどうかを教えない。
右。
左。
正面。
そして、なし。
四つ。
順番は先生が決める。
「マリー、記録お願い」
「私がですか?」
「俺が目閉じてるから」
帳面を渡す。
マリーが少し嬉しそうに受け取った。
「では、記録係ですね」
「答え言わないでね」
「もちろんです」
始める。
目を閉じる。
耳を覆う。
待つ。
何か。
あるような気がする。
左。
布を外す。
マリーは何も言わず記録する。
答えは最後まで教えないことにした。
次。
分からない。
「なし」
記録。
次。
「右」
次。
「なし」
次。
「正面」
五回。
十回。
途中から、自分が何を感じているのか分からなくなってきた。
あると思えばある。
ないと思えばない。
探しすぎると、庭の魔素の小さな揺れまで先生の膜に思える。
「一回休む」
目を開ける。
耳の布を外す。
「結果見ていい?」
マリーが帳面を渡す。
見る。
全部は当たっていない。
でも、完全に適当に答えたようにも見えない。
特に『なし』。
膜が作られていない時に、なしと答えたものが何度かある。
逆に、膜があるのになしと答えたものもある。
「感じられる時と感じられない時がある?」
先生が聞く。
「そうかも。でもまだ分からない」
距離。
膜の大きさ。
薄さ。
先生が出した魔力の量。
俺の集中。
全部揃っていない可能性がある。
「先生、毎回同じ膜?」
「できるだけ同じつもりですが、完全に同じとは保証できません」
やっぱり。
術者が作る以上、毎回少し違う。
それなら次は、違いを大きくする。
「厚いのと薄いの」
感じやすさが変わるか見る。
先生が厚めの膜を作る場合。
薄い膜を作る場合。
何も作らない場合。
位置は正面だけ。
これなら方向を当てなくていい。
俺が答えるのは、
ある。
ない。
それだけ。
「厚いか薄いかも当てる?」
「まだやらない」
まず存在。
一つずつ。
再開する。
目を閉じる。
耳を覆う。
待つ。
「ある」
次。
「ある」
次。
「ない」
次。
「ある」
繰り返す。
さっきより楽だ。
方向を探さなくていい。
正面だけを意識する。
結果を見る。
厚い膜はかなり気づけている。
薄い膜は外れが増える。
何もない時に『ある』と答えたものもある。
「薄いと分かりにくい?」
「そのように見えますね」
先生は結果を指す。
ただし回数は少ない。
俺も慣れている途中。
断定はできない。
帳面へ書く。
『今回の試行では、厚い膜の方が存在を認識しやすい傾向があった』
『薄い膜では見落としが増えた』
『膜なしでも存在すると回答した例あり』
最後が大事だ。
感じたつもりでも、ないことがある。
つまり俺の感覚は完全ではない。
「魔力を感じるって、間違うんだ」
先生が答える。
「人の感覚ですから」
今までもそうだった。
目で見る。
耳で聞く。
手で触る。
魔力を感じる。
どれも絶対ではない。
だから測定具を使った。
別の人にも見てもらった。
繰り返した。
魔力感知だけ特別に正しいわけではない。
「感知も観測なんだ」
帳面へ書く。
『魔力感知も、術者による観測の一つとして扱う』
少し休む。
次に気になるのは距離だ。
先生の膜を正面に固定する。
近い。
少し遠い。
もっと遠い。
ただし厚さは、できるだけ同じ。
目と耳を塞いで、あるかないかだけ答える。
近い。
分かる。
少し遠い。
まだ分かる時がある。
さらに遠い。
急に曖昧になる。
「距離でも変わる」
当然のように思える。
でも記録する。
以前、魔力球を遠くへ動かした時も操作が難しくなった。
今度は自分の魔法を操作しているわけではない。
他人の魔力を感じるだけでも、遠くなると分かりにくくなる。
「操作できる距離と、感じられる距離は同じ?」
先生を見る。
「それは別に調べる必要があるでしょうね」
そうだ。
似ているからといって同じとは限らない。
感じられるけど操作できない距離があるかもしれない。
操作できるのに細かく感じられないこともあるかもしれない。
帳面の端へ疑問だけ残す。
『感知距離と操作距離は同じか?』
今日はやらない。
昼食後。
俺は朝とは逆のことを試した。
先生ではなく、俺が膜を作る。
ただし俺は目を閉じない。
マリーに近づいてもらう。
「私ですか?」
「うん」
「魔力を感じるのは得意ではありませんよ」
「だから」
先生なら感じられて当然かもしれない。
魔法を学んでいる。
俺より経験も多い。
でもマリーなら?
俺は小さな膜を作った。
厚め。
手の前に固定する。
「触らないで、どこまで近づいたら何か分かるか」
「何か、とは?」
「何でもいい」
温かい。
冷たい。
変な感じ。
魔力っぽい。
何も分からない。
言葉は決めない。
マリー自身の感覚を聞く。
マリーがゆっくり手を近づける。
遠い。
何もない。
少し近い。
まだ何もない。
さらに。
「……少し変な感じがします」
止める。
「どこ?」
マリーが自分の手の位置を見る。
膜にはまだ触れていない。
「どんな感じ?」
「説明しにくいです」
「それでいい」
無理に名前を付けない。
「もう少し近づけて」
手が進む。
膜の直前。
「ここは分かります」
「触ってない?」
先生が横から確認する。
「まだ触れていません」
俺からもそう見える。
「じゃあ触って」
マリーの指先が膜へ入る。
俺の方にも変化が来た。
膜が押された。
正確には物理的に押されたのかは分からない。
マリーの身体と魔力が膜の状態へ影響した。
表面が歪む。
「触ったら?」
「さっきよりはっきりします」
「痛い?」
「いいえ」
「熱い?」
「特には」
「冷たい?」
「それも」
「じゃあ何?」
マリーが困った。
「だから説明しにくいと申し上げたではありませんか」
そうだった。
俺が言葉を押しつけている。
「ごめん。そのままでいい」
『変な感じ』
それで記録する。
後から言葉が見つかるかもしれない。
先生にも同じことをしてもらう。
先生はマリーより遠い位置で止まった。
「ここで分かります」
やっぱり違う。
先生の方が遠くから認識できる。
ただし経験差なのか。
生まれつきなのか。
集中の仕方なのか。
魔力量なのか。
分からない。
「人によって違う」
少なくとも今日の二人では違った。
それ以上は言わない。
次。
膜を薄くする。
マリーにもう一度。
さっきより近づく。
かなり近い。
「まだ分かりません」
さらに。
膜のすぐ手前。
「……ここなら、少し」
厚い時より近い。
朝の俺と似ている。
薄い魔力は感知しにくい可能性がある。
ただ、術者も違う。
条件も完全には同じではない。
でも同じ方向の結果が出た。
面白い。
「触れる前に分かる」
それ自体は確認できた。
少なくとも俺、先生、マリー。
距離は違う。
確かさも違う。
薄さでも変わるように見える。
でも接触しなくても、魔力の存在を認識できる場合がある。
これは目で見るのとも違う。
物理的に触るのとも違う。
「何を感じてるんだろう」
魔力そのもの?
自分の体内の魔力が反応している?
周囲の魔素が変化して、それを感じている?
先生の魔力が何かを伝えている?
候補はいくらでも出る。
今日は答えを出さない。
まず現象。
夕方。
最後に俺自身の膜へ戻った。
小さな膜。
目を閉じる。
今度は位置を知っていてもいい。
目的が違う。
見えなくても、形を維持できるか。
視覚を外す。
膜を感じる。
端。
中央。
右。
左。
昨日は目で揺れを見て修正していた。
今日は感覚だけ。
すぐに形が崩れ始める。
でも完全には消えない。
右端が弱い気がする。
補う。
今度は左。
直す。
目を開ける。
「ひどい」
膜は残っている。
でも形はかなり歪んでいた。
先生が笑う。
「維持はできていますね」
「きれいじゃない」
「今日はきれいにする日でしたか?」
違う。
見えなくても残せるか。
それが目的だ。
「もう一回」
今度は形をきれいにしようとしない。
目を閉じる。
存在だけを感じる。
消えそうな場所だけ補う。
細かな輪郭は無視。
維持。
しばらく。
目を開ける。
歪んでいる。
でも残っている。
「できた」
目で見なくても、薄い魔力を維持できる。
ただし精密な形は保てていない。
それで十分だ。
帳面へ今日のまとめを書く。
『魔力は、接触しなくても存在を認識できる場合がある』
次。
『感知の確かさは、魔力の薄さ・距離・人によって変わる可能性がある』
『感じたつもりでも、実際には存在しない場合があった』
『視覚を使わなくても膜を維持できたが、形の精度は低下した』
そして、
『見ること、感じること、触れることは同じではない』
最後の一行を書いて、少し考えた。
昨日までは魔力の形を作っていた。
今日は、その形そのものより境目が気になり始めた。
どこまで近づけば分かるのか。
触れる前と触れた後で何が違うのか。
そして、魔力の向こう側に何かがあったら。
膜を間に置いたまま、その先を感じられるのか。
木。
石。
水。
物の向こう。
薄い魔力を広げることができるなら、表面へ沿わせることもできるかもしれない。
何かを覆った時。
俺は膜だけを感じるのか。
それとも、覆ったものまで分かるのか。
帳面の次の頁に一行だけ書く。
『膜の向こうに物があったら?』
庭の隅に置かれた木片を見る。
まずは、あれでいい。
触れる前に分かるなら。
次は、直接見えないものをどこまで感じられるのか。
試してみたくなった。




