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第六十四話 薄い膜

翌朝、俺は昨日作った薄い魔力を思い出していた。


板ではない。


円盤でもない。


輪郭も厚さも揃っていない。


ただ、手の前へ薄く広がった魔力。


きれいな形を諦めた途端、維持するのが少し楽になった。


「今日はあれをやる」


帳面の最初に書く。


『目的――魔力を薄く広げた時、どこまで維持できるかを見る』


昨日までは形を作ることが中心だった。


球。


棒。


直方体。


円盤。


でも今日は、形そのものを少し後ろへ置く。


薄さ。


広さ。


それを見たい。


「どのくらい薄くなさるのですか?」


マリーが聞く。


「できるところまで」


書いてから、すぐに線を引いた。


違う。


できるところまで、では比較しにくい。


薄くして崩れるまで続ければ、最後に失敗することだけは最初から決まっている。


「段階にする」


厚い。


少し薄い。


薄い。


かなり薄い。


昨日と同じだ。


正確な厚さは測れない。


でも、自分の感覚で一気に変えず、段階を分けることはできる。


先生が帳面を見る。


「今日は輪郭を揃えないのですね」


「うん。できるだけ」


「広さは?」


止まった。


薄くする時に、同じ魔力を使えば横へ広がるかもしれない。


広さを固定すれば、余った魔力をどうするかが変わる。


また一つを変えると別のものが動く。


「最初は広さを同じくらいにする」


手のひらより少し大きい範囲。


そこから始める。


使用する魔力も、できるだけ同じくらい。


ただし正確には測れない。


いつもの注意も書く。


準備ができた。


庭へ出る。


今日は風が弱い。


雨もない。


魔法の練習には問題なさそうだ。


クロムは少し離れた日向で座っている。


まず球。


基準として一度だけ作る。


魔力を外へ出す。


丸く整える。


維持。


昨日まで何度もやったので、ほとんど迷わない。


消す。


次。


球を作らず、最初から平たい範囲へ魔力を出す。


手の前に、見えない板を置くように意識する。


そこへ魔力を広げる。


淡い光が現れた。


輪郭は揺れている。


丸でも四角でもない。


厚みも均一ではない。


「昨日と同じ」


ここから少しずつ薄くする。


前後へ膨らんでいる部分を抑える。


広さはなるべく変えない。


最初の段階。


維持できる。


次。


もう少し薄く。


端が揺れる。


中央も少し不安定になる。


でも残る。


さらに薄く。


「……見えにくい」


光そのものが弱くなったように見える。


「魔力が減った?」


先生がすぐに答えた。


「そうとは限りません」


そうだ。


薄く広げたことで、同じ方向から見た光が弱くなっただけかもしれない。


実際に魔力が減ったのか。


密度が下がったのか。


見え方が変わっただけなのか。


今の俺には分けられない。


「見えにくくなった、だけ」


帳面には後でそう書く。


さらに薄くしようとする。


そこで中央の一部が急に揺れた。


穴ではない。


でも、その場所だけ感覚が弱い。


反射的に魔力を補う。


すると今度はそこだけ膨らんだ。


「あ」


薄い形が崩れる。


直そうとする。


右側が動く。


さらに直す。


全体が波打つ。


消えた。


「補ったら崩れた」


先生が聞く。


「補ったことが原因ですか?」


「……分からない」


弱くなった部分へ補った。


その直後に崩れた。


でも、そもそも補わなければ崩れていたかもしれない。


順番が近いだけで、原因とは限らない。


最近こればかりだ。


でも大事だ。


帳面へ書く。


『かなり薄くした段階で中央部の感覚が弱くなった』


次。


『魔力を補充した後、局所的に膨らみ、全体の形が崩れた』


そして、


『補充が崩壊原因かは不明』


これでいい。


「もう一回」


二回目。


今度は弱い場所ができても、すぐ補わない。


同じように薄くする。


厚い。


少し薄い。


薄い。


かなり薄い。


やっぱり見えにくくなる。


中央が揺れる。


今度は触らない。


そのまま観察する。


「消える?」


少し待つ。


中央の感覚がさらに弱くなる。


やがて。


そこだけ抜けた。


「穴」


魔力の薄い広がりの中央に、小さな空白ができた。


周囲はまだ残っている。


完全には崩れていない。


「輪みたい」


マリーが言う。


確かに。


輪を作ろうとしたわけではない。


薄い膜の中央が抜けて、結果として穴のある形になった。


「触らない」


そのまま見る。


穴が少し広がる。


周囲の魔力が引っ張られるように形を変える。


左側が細くなる。


そこも切れた。


一枚だった魔力が二つに分かれ、すぐに両方とも散った。


消す必要もなかった。


「面白い」


帳面へ急いで書く。


『補充しない場合、弱くなった部分に空白が生じた』


『空白が拡大し、周囲の形も変化』


『その後、分断して消失』


先生が俺の記録を見る。


「膜と呼ぶのですか?」


「まだ駄目?」


「駄目ではありません。ただ、それが本当に膜のような構造なのかは分かりませんね」


そうだ。


見た目が薄い。


だから膜と呼んでいるだけだ。


本当に布や皮のようにつながっているとは限らない。


魔力の塊が薄く広がっているだけかもしれない。


「名前として膜」


帳面に書き足す。


『以下、便宜上「膜」と呼ぶ。物理的な膜と同じ構造を意味しない』


これなら使える。


言葉を使わないと面倒だ。


でも名前を付けたせいで、同じものだと思わないようにする。


「薄い膜」


声に出してみる。


悪くない。


午前の三回目。


今度は、最初から少し小さな膜を作る。


広いほど難しい可能性がある。


手のひら程度。


厚さはさっきと同じように段階的に減らす。


結果は違った。


かなり薄くしても、さっきより安定している。


「小さい方が楽?」


言ってから直す。


「今は小さい方が楽に感じる」


先生が頷く。


なぜかは分からない。


操作する範囲が狭いから。


端まで近いから。


必要な魔力が少ないから。


集中しやすいから。


候補はいくらでもある。


でも一つ分かった。


薄さだけでは決まらない。


広さも関係している可能性がある。


「薄くて広いのが難しい?」


これもまだ早い。


帳面には、


『同程度に薄くしたつもりでも、小さい範囲の方が維持しやすく感じた』


とだけ書く。


午前中はそこで終わった。


昼食を食べながら、俺はパンを見ていた。


薄く切られたパン。


その横には肉。


皿。


布。


世の中には薄いものが多い。


「食べながら魔法を考えないでください」


マリーに言われた。


「見てるだけ」


「パンを?」


「薄いなって」


「パンはお召し上がりください」


食べる。


午後。


庭へ戻ると、先生が一枚の布を持っていた。


「何それ」


「比較になるかと思いまして」


薄い布。


先生が両端を持つ。


「布は薄いですが、形を保つのに外から支えが必要です」


手を離す。


当然、落ちる。


「板は?」


先生が近くに置いてあった木の板を持つ。


こちらは立てかければ形を保つ。


「同じ薄いものでも性質は違います」


「魔力は?」


「それを調べているのでしょう?」


そうだった。


魔力の膜は、何に近い?


板?


布?


水面?


泡?


どれにも似ているところはあるかもしれない。


でもどれとも同じではない。


「支える場所を変えたら?」


思いつく。


今までは手の前へ膜を作っている。


つまり手に近い側から操作している感覚が強い。


布なら端を持てば広げられる。


魔力も端を意識して支えたらどうなる?


「やる」


小さな膜を作る。


今度は全体を均一に保とうとしない。


四つの端。


正確には四角ではないので、上、下、右、左。


そこを強く意識する。


中央は少し自由にする。


薄くする。


「お」


中央が揺れる。


でもさっきより気にならない。


端を保つ。


中央は少し膨らんだり薄くなったりする。


見た目はきれいではない。


それでも全体は残る。


「枠だけ持ってる感じ」


先生が近づく。


「中央は?」


「かなり動いてる」


「それでも維持できていますね」


できている。


完全に平らな板ではない。


風を受けた布みたいに揺れる。


でも一枚の広がりとしては残っている。


「全部直さなくてもいい」


昨日も似たことを考えた。


形の精度を諦めれば、維持が楽になることがある。


今度はさらに具体的だ。


全部を同じ精度で制御しなくてもいい。


必要な場所だけ強く意識する。


他はある程度動かしておく。


「これ使えるかも」


何に?


すぐ用途を考えたくなる。


壁。


覆う。


防ぐ。


包む。


でもまだ早い。


まず、同じことがもう一度できるか。


消す。


休む。


もう一度。


上。


下。


右。


左。


端を意識。


中央は細かく直さない。


薄くする。


できた。


さっきと完全に同じではない。


でも似た状態になる。


「もう一回」


三回目。


途中で右端が崩れた。


中央は残った。


そこから全体が歪み、消えた。


成功ばかりではない。


それも記録する。


三回のうち二回は所定時間維持。


一回は端から崩壊。


「端が大事?」


先生を見る。


「今の方法では、そう見えますね」


今の方法では。


それなら言える。


『端を意識して維持する方法では、端の崩れが全体へ広がる場合があった』


書く。


ここで一つ気づいた。


球には端がない。


少なくとも、ここが端だと決める場所がない。


表面は全部つながっている。


棒には端がある。


板には辺と角がある。


薄い膜では、その端を意識すると維持の仕方が変わった。


「形によって、重要な場所が違う?」


球なら表面全体。


棒なら先端や長さ。


板なら辺や角、厚さ。


膜なら端と中央。


もちろん、今の俺の作り方での話だ。


でも面白い。


形は見た目だけではない。


制御する場所まで変えている。


夕方まで、膜の大きさを少しずつ変えた。


小さい膜。


少し大きい膜。


さらに大きい膜。


大きくするほど、端を全部意識するのが難しくなる。


特に手から遠い側。


上側や外側。


そこが揺れやすい。


ただ、これも距離と広さが一緒に変わっている。


大きくしたから難しいのか。


遠くなったから難しいのか。


両方か。


今日は分けられない。


「明日は距離を変えずにできるかな」


膜を横へ広げる。


それなら手から一番遠い場所をあまり変えず、面積だけ増やせるかもしれない。


いや、横端までの距離は増える。


完全には無理だ。


「また一緒に変わる」


先生が笑う。


「世界は都合よく一項目ずつ動いてはくれませんね」


「うん」


でも、それが嫌ではなくなってきた。


一つ動かしたら別のものも動く。


なら、その動いたものを見る。


そこから次の試し方を考える。


それでいい。


最後に、朝より少し大きな膜を作った。


端だけを意識する。


中央は自由。


淡い光が、俺の前でゆっくり揺れる。


きれいな板ではない。


平らですらない。


表面には小さな波がある。


それでも、一枚の薄い広がりとして残っている。


マリーが横から見た。


「布みたいですね」


「俺もそう思う」


でも帳面には書かない。


いや、書いてもいい。


ただし同じとはしない。


『見た目は揺れる布に似る』


これなら観察だ。


俺は膜を少しだけ前へ出してみた。


動かす予定はなかった。


ほんの少し。


手から離れる。


その瞬間、上端が揺れた。


右端が遅れて動く。


中央がたわむ。


全体が大きく歪んだ。


慌てて止める。


ぎりぎり残った。


「動かしたら変わった」


当たり前のようで、重要だ。


止めて維持するのと、形を保ったまま移動させるのは別の操作になる。


今日はここまで。


それ以上はやらない。


膜を消す。


帳面の最後にまとめを書く。


『薄く広げるだけなら、輪郭と厚さを厳密に揃えるより維持しやすい』


次。


『広い膜ほど、俺には維持が難しく感じられる』


『端を意識して支える方法では、中央を細かく修正しなくても維持できる場合がある』


さらに、


『形によって、制御する場所や維持の仕方が変わる可能性がある』


最後。


『止めた膜と、動かす膜は分けて考える』


筆を置く。


明日は動かさない。


その前に、もう一つ気になる。


薄い膜を作った時。


俺はずっと、目で見て形を確かめていた。


淡い光が薄くなるほど、見えにくくなった。


もしもっと薄くしたら。


見えなくなったら。


魔力がなくなったのか。


まだそこにあるのか。


目だけでは分からなくなる。


俺は右手を前へ出した。


何も作らず、空気だけを感じる。


魔力を見る。


魔力を感じる。


同じではない。


「次は、見えなくても分かるか」


先生が聞いた。


「膜をですか?」


「うん」


薄くすればするほど、目では追いにくくなる。


なら、目以外でどこまで形を捉えられるか。


それが分かれば、もっと薄いところまで試せるかもしれない。


帳面の次の頁に一行だけ書いた。


『触れる前に、そこにあると分かるか』


クロムが俺の足元を通り過ぎる。


尻尾が足に触れる直前、わずかに毛の動きが見えた。


触れてから分かるもの。


触れる前に分かるもの。


魔力なら、どこまで分かるのだろう。


薄い膜を作ったことで、次に見たいものは形そのものから少し外へ出始めていた。

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