第六十六話 木片の向こう
翌朝。
庭へ出る前に、俺は机の上へ木片を置いた。
昨日、最後に見ていたものだ。
手のひらより少し大きい。
厚さは指二本分くらい。
特別な素材ではない。
以前、魔法の練習に使った残りをマリーに持ってきてもらった。
「今日はこれですか?」
「うん」
「壊します?」
「壊さない」
「燃やします?」
「燃やさない」
「飛ばします?」
「飛ばさない」
マリーが少し考える。
「では、何を?」
「向こうを見る」
「木の?」
「うん」
マリーが木片を持ち上げ、裏返した。
「普通に見えますよ」
「そうじゃない」
昨日分かったことがある。
薄い魔力は、目で見なくても存在を感じられる。
他人の魔力も、触れる前に分かる場合がある。
そして、自分の膜なら視覚を使わなくても維持できた。
なら。
木片の手前に膜を置いた時。
その向こう側まで何か分かるのか。
「透視ですか?」
先生が聞いた。
「できると思う?」
「先に答えを決めるのですか?」
「決めない」
危ない。
前の世界の物語なら、魔力を広げて物の向こうを見る能力はいくらでもある。
索敵。
魔力感知。
探知。
透視。
そういうものを俺は知っている。
でも、知っているのは物語の考え方だ。
この世界でできるとは限らない。
だから試す。
帳面を開く。
『目的――薄い魔力を木片の手前へ置いた時、木片およびその向こう側について何を認識できるか』
書いてから見る。
少し広すぎる。
まず、木片があること。
次に形。
その次に向こう側。
分ける。
「最初は目を開けてやる」
木片を庭の机へ立てる。
その手前に、小さな膜を作る。
木には触れない。
少し離す。
膜。
空間。
木片。
その順番だ。
維持する。
「今は?」
先生が聞く。
「膜だけ」
木片は目で見えている。
でも魔力の感覚としては、特に何もない。
少し膜を前へ動かす。
木片へ近づける。
まだ触れない。
昨日、マリーが膜へ近づいた時には、接触する前から魔力を感じた。
逆ならどうだろう。
俺の膜が木へ近づけば、木の存在を膜越しに感じられる?
ゆっくり。
「……分からない」
見れば距離は分かる。
でも目を閉じたら無理そうだ。
さらに近づける。
木片の直前。
「何か違う?」
先生に聞かれて、集中する。
違うような。
同じような。
「分からない」
それでいい。
さらに。
膜が木片へ触れた。
「あ」
今度は分かった。
膜の中央が変わる。
前へ動かそうとしているのに、そこだけ進まない。
周囲は少し前へ出ようとする。
中央が押し戻されたような形になる。
「触ったのは分かる」
「木だと分かりますか?」
止まった。
分からない。
何かに当たった。
それだけだ。
石かもしれない。
壁かもしれない。
別の木かもしれない。
「何かに触れた、まで」
帳面へ書く。
『膜が木片へ接触すると、膜の変形として接触を認識できた』
次。
『接触した物体が木であることは、膜の感覚だけでは判別できず』
今のところ。
「じゃあ目を閉じる」
先生に木片を動かしてもらう。
俺は位置を見ない。
ただし先生自身は動かない。
昨日と同じ。
足音や衣擦れで位置を当てないためだ。
俺は目を閉じた。
小さな膜を作る。
正面へ。
ゆっくり前へ動かす。
何もない。
さらに。
何もない。
もう少し。
膜の左側が止まった。
「あった」
目を開ける。
木片は正面より少し左に置かれていた。
膜の左半分だけが木片に当たっている。
「左」
「見れば分かります」
「違う。左側に当たったのが分かった」
もう一度目を閉じる。
今度は、膜を少し横へ動かす。
木片に当たっている場所が変わる。
中央。
右。
外れる。
また当たる。
面白い。
「表面を触ってるみたい」
実際に手では触れていない。
でも膜のどこが止められたかは感じられる。
膜を介して、物がある場所を探せる。
ただし。
「向こうは?」
そこが本題だ。
木片に当たったまま、膜をさらに前へ押す。
通れ。
そう意識してみる。
膜が歪む。
中央は進まない。
端が木片の周囲へ広がる。
「抜けない」
もう少し。
魔力を強くする。
中央の密度が上がったように感じる。
でも木片を通り抜ける感じはない。
代わりに木片が少し揺れた。
「止めましょう」
先生に言われて、すぐに力を抜いた。
膜を消す。
「今、木を押した?」
「そのように見えました」
目的が変わりかけていた。
向こう側を感じたいのに、力を増やして木片を動かしたら別の実験になる。
帳面へ書く。
『膜を木片へ押し込もうとしたが、通過は確認できず』
『出力を増やした際、木片そのものが動いたため中止』
「魔力って木を通らない?」
言ってから、自分で止める。
違う。
今の俺の膜が通らなかった。
魔力全部が木を通らないとは言えない。
そもそも周囲の魔素は、地面や木の近くにも存在している。
身体の中にも魔力はある。
物質と魔力の関係は、単純に壁で止まるという話ではないはずだ。
「俺の作った膜を、そのまま通そうとしても通らなかった」
書き直す。
先生が頷いた。
「その方がよいですね」
次。
木片の向こう側を感じたいなら、膜を通す必要があるとは限らない。
周りから回せばいい。
「包む」
昨日、用途として書いた言葉だ。
木片の手前へ膜を作る。
中央を木片へ触れさせる。
そこから上下左右へ広げる。
木片の表面に沿わせるように。
「お」
できる。
完全にぴったりではない。
ところどころ浮いている。
でも、手前の面へ薄い魔力を広げられる。
「塗ってるみたい」
マリーが言う。
確かに。
魔力の膜を表面へ塗るような感じだ。
木片の右端まで広げる。
そこで膜を曲げる。
「難しい」
平面から側面へ。
向きが変わる。
板を作った時の角と似ている。
膜そのものに角を作るのではなく、木片の角へ沿わせる。
右端。
曲げる。
少し崩れる。
修正。
側面へ。
「できた」
少しだけ回り込んだ。
左も。
上も。
下も。
全部を同時にやろうとすると忙しい。
一度消す。
「一面ずつ」
もう一度。
手前。
右側面。
裏。
そこまで行けるか試す。
木片の右端を越え、膜を裏側へ回す。
見えない。
俺の位置からは木片に隠れている。
「ある」
裏へ回った魔力は感じる。
自分で作っているから位置を知っているだけかもしれない。
でも維持はできる。
少しずつ裏面へ広げる。
「今どこまで?」
先生が聞く。
「半分くらい?」
目では見えない。
先生が横へ回って確認する。
「裏面の三分の一程度ですね」
「全然違う」
俺は半分だと思った。
自分の感覚だけでは、正確な広さまでは分からない。
でも裏側へ魔力を回すこと自体はできた。
さらに広げる。
今度は先生に何も言ってもらわない。
自分で、
『ここまで』
と思ったところで止める。
「全部」
そう感じた。
先生が裏を見る。
「下側がかなり空いています」
やっぱり。
木片の裏へ魔力を回せる。
でも見えない場所の形を正確に作るのは難しい。
「見えないと雑になる」
昨日と同じだ。
視覚を使わない膜は維持できる。
でも精度は落ちる。
ただ、今回は木片の表面という案内がある。
何もない空中よりは分かりやすい。
「木に沿ってるのは分かる」
「どのように?」
先生に聞かれて、考える。
膜が木片から離れると、何も支えがない感じになる。
木片に沿っている時は、前へ進もうとする膜がそこで止まる。
その変化が続く。
「触れ続けてる感じ」
物理的な触覚とは違う。
でも近い言葉がない。
帳面へ、
『膜を物体表面へ沿わせると、接触状態の変化を術者側で認識できる』
と書く。
「これ、形分かるんじゃない?」
木片を見ながら思う。
表面へ沿わせる。
端を探す。
曲がる。
裏へ回る。
それを全部感じられるなら、目を閉じたまま木片の形を調べられるかもしれない。
「やる」
先生に止められなかった。
目を閉じる。
今度は木片の位置だけ教えてもらう。
形は知っている。
だから本当の意味で形を当てる試験にはならない。
今日は操作できるかだけ。
膜を前へ。
接触。
広げる。
右。
端が来た。
曲げる。
側面。
さらに曲げる。
裏。
左にも広げる。
上。
下。
「四角」
知っているからそう感じるのかもしれない。
でも角の位置はある程度分かる。
木片の端に到達すると、膜をそのまま広げれば空中へ出る。
表面へ沿わせ続けるには方向を変える必要がある。
その変化が角になる。
「目開ける」
かなり歪んでいる。
膜は木片全体をきれいには包めていない。
それでも、手前と右側面、裏の一部、上側まで回っている。
「包める」
完全ではない。
でもできる。
ここでマリーが木片を持ち上げた。
膜が大きく崩れた。
「わっ」
慌てて消す。
「ご、ごめんなさい」
「いや、待って」
今のは面白い。
木片が動いた。
膜が崩れた。
俺は目で見ていたから動いたのを知っている。
でももし見ていなかったら?
膜の変化で、物が動いたことを感じられるかもしれない。
「もう一回動かして」
今度は目を閉じる。
膜を木片の手前と側面へ沿わせる。
全部は包まない。
維持。
「いいよ」
待つ。
膜が急に引かれた。
「動いた」
「はい」
「右?」
目を開ける。
木片は右へ少し移動している。
当たった。
「もう一回」
目を閉じる。
膜を作り直す。
待つ。
変化。
「奥?」
目を開ける。
木片は少し手前へ動いていた。
逆だ。
「方向は間違えた」
動いたことは分かった。
でも方向までは正確ではない。
何度か繰り返す。
大きく動かせば分かりやすい。
小さく動かすと分からない時がある。
方向も間違える。
それでも、膜が接触している物体の変化を、目で見なくても認識できる場合がある。
「これ、触ってるのと似てる」
手で木片に触れて、目を閉じる。
マリーに動かしてもらう。
当然すぐ分かる。
指先が動くからだ。
魔力の膜でも、それに近いことが起きている。
ただし精度は手よりずっと悪い。
「魔力の手?」
マリーが言う。
魅力的な言葉だ。
でも違う。
「今は膜」
名前に引っ張られないようにする。
手と同じだと思えば、できることまで勝手に同じにしたくなる。
膜は膜。
今分かっていることだけ見る。
昼食後。
先生が別の木片を持ってきた。
朝のものより細い。
形も少し違う。
俺は見ない。
「今度は形を当ててみましょうか」
「やる」
机の向こう側に置いてもらう。
目を閉じたまま膜を出す。
前へ。
何もない。
少し左へ。
接触。
「あった」
そこから表面へ広げる。
上下。
左右。
右端が近い。
左は少し遠い。
上。
下。
「細長い?」
「縦ですか、横ですか?」
分からない。
自分がどこを上として感じているのか曖昧になる。
膜を広げ直す。
「横……かな」
目を開ける。
細長い木片が横向きに置かれていた。
「当たった」
でも形を完全に当てたわけではない。
細長い。
横。
それだけ。
角の数までは分からない。
厚さも曖昧。
「もう一個」
今度は、端の一部が斜めに切られた木片。
俺は見ていない。
膜を沿わせる。
四角。
いや。
一か所がおかしい。
角が来ると思ったところで、少しずつ向きが変わる。
「ここ、斜め?」
目を開ける。
斜めだった。
「おお」
思わず声が出る。
これは面白い。
見えない形の違いを、膜の接触から拾えた。
一回だけ。
偶然かもしれない。
形も単純。
それでも可能性はある。
「もっと細かい形も?」
やりたくなる。
先生が先に言った。
「今日は木片でしたね」
「分かってる」
釘。
穴。
凹凸。
布。
石。
いろいろ試したい。
でも今日は木片。
それで十分だ。
最後に、本題へ戻る。
木片の向こう側。
朝は膜を木へ押し込もうとして、通らなかった。
でも周囲を回れば裏へ届いた。
では、木片の裏側に別の物が置かれていたら?
木片そのものを回り込んだ膜で触れられるか。
先生に頼み、木片の裏へ小さな石を置いてもらう。
俺からは見えない。
ただし置いたことは知っている。
膜を木片へ。
右側から回す。
裏面へ。
広げる。
木に沿っている。
さらに。
何かが違う。
一部だけ、膜が木の表面から離れる。
膨らむ。
「何かある」
横から覗く。
石がある。
膜が木片と石の間を完全に埋めたわけではない。
石の表面に一部触れ、そこだけ形が変わっている。
「向こうが分かった」
でも言い方が違う。
木片を通して感じたわけではない。
魔力を木片の周囲から回し込み、裏側にある石へ直接触れた。
「透視じゃない」
帳面へ書く。
『木片を通して裏側を感知したのではない』
『膜を木片の周囲から回り込ませ、裏側の物体へ接触させることで存在を認識できた』
これなら正確だ。
前の世界の物語なら、一言で探知魔法と呼んでしまうかもしれない。
でも今やっていることはもっと単純だ。
薄い魔力を広げる。
何かに触れる。
形が変わる。
その変化を俺が感じる。
それだけ。
それでも。
「使い道ありそう」
見えない場所。
暗い場所。
狭い隙間。
箱の裏。
壁の角。
物陰。
ただし膜をそこまで伸ばせることが条件になる。
距離が増えれば感知も操作も難しくなる。
障害物の周囲へ回せる道がなければ届かない。
閉じた箱の中は?
壁の完全な向こうは?
今の方法では無理かもしれない。
それも試さないと分からない。
「今日はやらない」
自分から言った。
先生が笑う。
「何も申し上げていませんよ」
「言いそうだった」
夕方。
木片を片づける前に、最後の確認をした。
普通の木片。
膜を手前へ。
接触。
表面へ広げる。
端を探す。
側面へ回す。
裏へ。
目を閉じる。
木片の全体像が、ぼんやりと頭の中にある。
目で見るほどはっきりしていない。
手で触るほど細かくもない。
角の位置もずれる。
厚さも曖昧。
それでも、
『ここに何かがある』
『ここで曲がっている』
『ここから先は空いている』
その程度なら分かる。
膜を消す。
帳面へ今日のまとめを書く。
『膜が物体へ接触すると、膜の変形から接触を認識できる』
『接触だけでは、物体の材質までは判別できなかった』
『膜を物体表面へ沿わせることで、単純な形状の一部を視覚なしで認識できた』
『接触している物体が動いた場合、膜の変化から動きを認識できることがある。ただし方向や小さな変化は不正確』
そして、
『木片そのものを膜が通過する現象は確認できなかった』
最後。
『障害物の向こうを知る方法は、障害物を通ることだけではない』
少し考えて、横に小さく付け足す。
『回れるなら、回ればいい』
これが一番単純だった。
木を通り抜ける魔法を作ろうとすれば、今の俺には何をすればいいか分からない。
でも薄い魔力を木の表面へ沿わせて、端から裏へ回すことならできた。
難しい方法が必要だと思っていた場所に、別の道があった。
マリーが木片を片づける。
その横には、水の入った桶が置かれていた。
手を洗うためのものだ。
水面を見る。
木片には表面があった。
膜を当てれば止まった。
端まで行けば、その先は空気だった。
水なら?
表面はある。
でも木のような硬い境目ではない。
手を入れれば中へ入る。
魔力の膜ならどうなる。
水面で止まるのか。
中へ入るのか。
形を保てるのか。
俺が桶を見ていることに気づいたマリーが、先に言った。
「今日はもう終わりですよ」
「何も言ってない」
「お顔に書いてあります」
仕方なく帳面を閉じる。
木片の次に見るものは決まった。
硬い物の向こうを見た。
次は、境目を越えて中へ入れる場所。
水の中だ。




