第六十二話 同じ手順で魔法
翌朝、俺は庭へ出る前に帳面を開いた。
昨日の最後に書いた形が並んでいる。
球。
棒。
板。
輪。
全部やりたい。
でも今日はやらない。
「一個ずつ」
最初に選んだのは棒だった。
球を細長くする。
それだけなら簡単そうに見える。
少なくとも、輪よりは簡単だ。
輪には穴がある。外側と内側、二つの境目を保たなければならない気がする。
板も薄さを揃えるのが難しそうだ。
だから棒。
「今日はこれだけ?」
マリーが帳面を見る。
「棒だけ」
「珍しいですね」
「何が?」
「昨日は四つともなさると思っていました」
俺も思っていた。
以前ならたぶん全部やった。
球を作る。
棒を作る。
板を作る。
輪を作る。
どれができた、どれができない。
それで終わっていたかもしれない。
でも庭の観測で、一度に条件を変えすぎると何が違ったのか分からなくなることを散々見た。
魔法でも同じようにする。
今日は形だけ変える。
「大きさは?」
先生が聞いた。
「同じくらい」
答えてから止まる。
球と棒で、同じ大きさとは何だろう。
横幅?
長さ?
中にある魔力の量?
見た目の大きさ?
いきなり困った。
「同じ形じゃないから、同じ大きさにできない」
先生が笑う。
「何を揃えたいのか決める必要がありますね」
目的は、形を変えた時に維持しやすさがどう変わるかを見ることだ。
なら、できるだけ他の違いを減らしたい。
「魔力の量?」
それなら比較しやすそうに思える。
でも今の俺には、外へ出した魔力を細かな数字で測る方法がない。
感覚で同じくらいにするしかない。
「完全には揃わない」
「それでも比較はできますよ」
先生が言う。
「どの程度揃っているのか分からないことを、自覚していればですが」
それでいく。
昨日作った球と同じくらいの魔力を使うつもりで出す。
距離は手元。
動かさない。
維持する時間も同じくらい。
今日は形だけを変える。
帳面に書く。
『変える――形』
『変えないつもり――距離、維持時間、出力する魔力の量』
最後に、
『魔力の量は感覚による。正確に同一とは確認できない』
これも必要だ。
「準備できた」
右手を出す。
まず球。
比較するなら、先にいつものものを作る。
魔力を外へ出す。
範囲を決める。
丸く整える。
昨日意識した操作を追う。
形。
感知。
修正。
補充。
淡い球が手の前で安定する。
先生が時間を見る。
俺は球だけを見る。
昨日より、自分が何をしているのか分かる。
少し左が膨らむ。
直す。
上側が薄くなる。
少し補う。
完全に止まっているように見えても、中では細かな調整が続いている。
決めた時間まで維持。
消す。
「次」
少し休む。
同じくらいの魔力を出す。
今度は丸くしない。
縦へ伸ばす。
最初は楕円。
さらに細く。
棒。
そう思ったところで、上が膨らんだ。
下は細い。
「……棒?」
マリーが少し首を傾げる。
「途中」
修正する。
上を細くする。
下を少し広げる。
今度は中央が膨らむ。
「難しい」
球とは違う。
球なら一か所が膨らんでも、全体を丸へ戻せばよかった。
棒は長さがある。
上。
中央。
下。
場所によって形が違う。
どこかを直すと、別の場所が動く。
「一回止める」
消した。
まだ決めた時間まで保っていない。
帳面へ書く。
『棒一回目――形を作る途中で崩れ、維持へ移れず』
失敗。
でも何が失敗したのかは分かる。
魔力を外へ出すことはできた。
形を変えることも途中まではできた。
維持に入る前に崩れた。
「もう一回」
二回目。
今度は最初から棒を作ろうとしない。
球を作る。
そこから上下へ伸ばす。
「できた」
短い棒。
太い。
棒というより筒に近い。
でもさっきより安定している。
「最初から棒にするより楽」
「それもアルス様の場合は、ですね」
先生が言う。
「うん」
すぐ帳面へ書きたくなるが、今は維持中だ。
後で書く。
短い棒を保つ。
上が曲がる。
直す。
下が膨らむ。
直す。
中央が薄くなる。
補う。
忙しい。
球より明らかに修正する場所が多く感じる。
決めた時間が来た。
消す。
すぐ記録。
『球を作ってから伸ばす方が、最初から棒を作るより形を作りやすかった』
その下。
『維持中の修正が球より多く感じた』
感じた。
まだ一回だ。
断定しない。
「なんで球からだと楽なんだろう」
考える。
最初に安定した形を作ってから変えるから?
俺が球に慣れているから?
魔力そのものが球になりやすい?
表面の形の問題?
分からない。
候補だけ書く。
先生が帳面を見る。
「以前なら、どれを選びました?」
「魔力が球になりやすい?」
「なぜです?」
「なんとなく」
先生が笑う。
俺も笑った。
危ない。
自分が球を作りやすい。
だから魔力は球になりやすい。
そう決めたくなる。
でも先生は俺より簡単にいろいろな形を作れる。
他の人なら違うかもしれない。
「俺が球に慣れてるだけかも」
「その可能性もあります」
今はそれで止める。
三回目。
また球から始める。
今度は少し長くする。
さっきより細長い棒。
形は作れた。
維持。
すぐに難しくなる。
先端が揺れる。
手元側は比較的安定している。
遠い方が動きやすい。
「距離?」
思わず言った。
先生がすぐ返す。
「今日は何を変える日でしたか?」
「形」
危ない。
棒を長くしたせいで、先端は手から遠くなっている。
形を変えたつもりが、距離まで変わった。
「止める」
消す。
記録。
『三回目――棒を長くしたことで先端までの距離も増加。形だけの比較になっていない』
失敗ではない。
比較には使いにくい。
それが分かった。
「形だけ変えるって難しい」
球を棒にすれば、どうしても何かが変わる。
表面積。
端までの距離。
厚さ。
魔力の分布。
俺が意識する場所の数。
形を変えるだけ、と思っていた。
でも形が変われば、それにくっついて変わるものがある。
庭の場所を変えたら、木や水路や人通りまで変わったのと似ている。
「一個だけ変えるって、本当に一個?」
先生は答えない。
自分で考える。
例えば球を大きくする。
大きさだけ変えたつもりでも、表面積が変わる。
必要な魔力も変わるかもしれない。
端までの距離も変わる。
維持の難しさも変わる。
完全に一つだけ変えるのは無理なこともある。
「じゃあどうする?」
「何が一緒に変わったかを記録する方法もありますね」
それならできる。
一つだけ変えた、と決めつけない。
何を変えるつもりだったか。
実際には何が一緒に変わったか。
分かったものを残す。
帳面の最初を書き直す。
『主に変える――形』
『できるだけ揃える――距離、維持時間、出力する魔力の量』
『形を変えることで他の条件も変化する可能性あり』
こっちの方が正しい。
午前の最後に、もう一度だけ試す。
今度は長い棒にしない。
球と同じくらいの範囲に収まる、短く太い棒。
球を作る。
上下へ少しだけ伸ばす。
横を少し削る。
短い棒。
これなら先端までの距離は大きく変わらない。
維持する。
やっぱり球より忙しく感じる。
でもさっきの長い棒ほどではない。
決めた時間まで保てた。
「できた」
形は少し歪んでいる。
でも棒には見える。
マリーにも聞く。
「何に見える?」
「棒です」
先生にも。
「棒ですね」
俺だけの判断ではない。
記録する。
『短い棒――所定時間維持』
その下。
『球より修正回数が多いように感じる』
ここでまた止まる。
回数。
本当に多い?
数えていない。
感覚だけだ。
「次は数える?」
言うと先生が首を振った。
「修正を何回と数えるのです?」
確かに。
一回の修正がどこからどこまでなのか決めていない。
連続して直している時もある。
数字を付ければ正確になるわけではない。
「多く感じた、でいいか」
今はそれで十分。
昼食のために屋敷へ戻る。
マリーが歩きながら聞いた。
「午後は板でしょうか?」
「棒」
「まだ?」
「棒だけって決めたから」
「本当に珍しいですね」
そんなにか。
午後。
同じ短い棒を繰り返した。
一回目。
作れる。
二回目。
途中で片側が崩れる。
三回目。
作れる。
四回目。
球から棒へ変える途中で魔力を出しすぎ、大きくなる。
五回目。
比較的安定。
結果は揃わない。
でも、繰り返すほど少し楽になっている気がする。
ここで別の問題が出た。
「慣れてきた」
同じ形を繰り返している。
当然、上手くなる可能性がある。
最初の棒と最後の棒を比べたら、形の違いだけではなく練習量まで違う。
「比較してる間に俺が変わる」
先生が頷いた。
「人を使う観測では避けにくい問題ですね」
庭なら場所は急に練習しない。
測定具も自分で上手くならない。
でも術者は違う。
やればやるほど慣れる。
疲れることもある。
集中が落ちることもある。
昨日と今日でも変わる。
「俺自身が条件」
前にも観測者の影響を調べた。
今度はもっと直接的だ。
魔法では術者が観測する人であるだけでなく、現象を起こす側でもある。
俺が変われば魔法も変わる。
「面倒だな」
「やめますか?」
先生が聞く。
「やめない」
面倒なのは、できないのとは違う。
分けられないものがあるなら、そのことを残せばいい。
帳面へ書く。
『反復による習熟の影響あり』
さらに、
『疲労の影響も混ざる可能性あり』
そういえば午後の後半は少し疲れている。
上手くなっているのか。
疲れて下手になっているのか。
両方起きているかもしれない。
完璧な比較ではない。
でも何も分からないわけでもない。
今日は少なくとも、球と同じやり方で棒を保とうとすると俺には修正が多く感じられること。
球を作ってから変形した方が作りやすかったこと。
棒を長くすると形以外の条件まで大きく変わること。
繰り返せば術者自身も変わること。
そこまでは見えた。
夕方。
最後に一度だけ球を作った。
朝と同じ球。
驚くほど楽だった。
「戻った」
丸い。
安定している。
棒を何度も作った後だから余計にそう感じる。
でもこれも比較には注意がいる。
朝より俺が疲れている。
その一方で、一日中魔力を操作したことで感覚が鋭くなっている可能性もある。
条件は同じではない。
それでも球が楽なのは確かに感じる。
「俺は今のところ、球が得意」
先生が頷く。
「その言い方ならよいでしょう」
魔力は球を好む。
ではない。
球が一番優れた形。
でもない。
俺が今のところ球を保ちやすい。
それだけだ。
球を消す。
帳面の最後に今日のまとめを書く。
『同じ手順を使えば、違いを比べやすくなる』
次。
『ただし形を変えると、形に伴って他の条件も変わる』
その下。
『術者自身も、反復・疲労・習熟によって変化する』
最後に少し考えて、
『一つだけ変えられない時は、一つだけ変えたことにしない』
と書いた。
これが一番大事かもしれない。
条件を揃える。
一つずつ変える。
言うのは簡単だった。
実際の世界では、一つを動かすと別のものまで一緒に動くことがある。
なら、それをなかったことにしない。
分かる範囲で残す。
明日は別の形を試す。
板か。
輪か。
帳面を見る。
「板にしよう」
輪はまだ後。
穴を保つのは面倒そうだ。
マリーが横から覗く。
「三角は?」
「忘れてた」
「猫は?」
「やらない」
クロムを見る。
黒猫は前足を舐めている。
あの形を魔力で作るには、まだ細かすぎる。
でも、いつかはできるかもしれない。
今は棒一本でこれだけ増えた。
急ぐ必要はない。
球の次に棒。
棒の次に板。
一つずつ。
魔法を増やすことより、何が変わったのか分かる速さで進む。
その方が、今の俺には面白かった。




