第六十一話 久しぶりの球
庭の観測記録を第一期として書庫へ移した翌朝。
俺は久しぶりに、何も持たずに庭へ出た。
正確には何も、ではない。
マリーはいつものようにタオルと水を持っているし、先生もいる。クロムも少し離れたところを歩いている。
でも俺の手には、測定具も記録用紙も地図もなかった。
「忘れ物ですか?」
マリーが聞く。
「今日は測らない」
「では何を?」
俺は右手を前へ出した。
身体の内側へ意識を向ける。
胸の奥。
腹。
肩。
腕。
手のひら。
体内を巡っている魔力を感じる。
それを少しだけ外へ出す。
淡い光が手の前に生まれた。
まだ形はない。
広がろうとする魔力を留める。
丸く。
表面を意識する。
中心へ集めすぎない。
外へ逃がしすぎない。
「球」
しばらくやっていなかった。
庭の観測を始める前には、何度も繰り返していた練習だ。
魔力を外へ出す。
形を作る。
維持する。
動かす。
遠くへ行くほど崩れやすい。
そんなことを毎日試していた。
久しぶりなのに、球は思っていたより簡単にできた。
手のひらより少し大きい。
完全な球かどうかは分からない。
でも以前より表面の揺れが少ない。
「上手くなった?」
先生が球を見る。
「以前より安定していますね」
「練習してなかったのに」
「魔力を使っていなかったわけではありませんから」
確かに。
観測中も魔力は使っていた。
測定具そのものを扱う時。
周囲の魔素を感じる時。
自分が観測へ影響していないか確かめる時。
それ以外にも身体強化は続けている。
魔法の練習だけを止めていたわけではない。
「じゃあ何が上手くなったんだろう」
球を見る。
以前なら、
丸くする。
保つ。
前へ動かす。
そんな言葉で考えていた。
今もやっていること自体は同じだ。
でも少し違う。
「先生、もう一回やる」
一度消す。
今度は最初から、自分が何をしているのかを見る。
魔力を外へ出す。
ここで一つ。
出した量を急に増やさない。
以前は大きな球を作ろうとして、一度に多く出すことがあった。
今は必要な分だけ出している。
次。
広がろうとする魔力の外側を意識する。
形。
丸。
でも『丸を想像する』だけではない。
どこまでを球にするのか。
境目を意識している。
次。
維持。
魔力が薄くなった場所へ少し補う。
一方だけ膨らんだら戻す。
「……直してる」
「何をです?」
「作った後」
球を指す。
「ずっと同じことしてない」
先生が近くで見る。
俺も集中する。
球を作った瞬間に終わっているわけではない。
表面は少しずつ揺れている。
魔力も完全に均一ではない。
それを感じるたびに、無意識に小さく調整していた。
「前からやってた?」
「おそらく」
先生が答える。
「ただ、以前はそこまで分けて考えていなかったのではありませんか?」
そうかもしれない。
できる。
できない。
崩れる。
届く。
以前は結果の方をよく見ていた。
庭の観測を始めてから、途中を見る癖がついた。
誰が。
いつ。
何を使って。
どの条件で。
どこが変わったか。
魔法にも同じように向けると、一つの『球を作る』の中にいくつも操作がある。
「出す」
俺は言う。
「形を決める」
先生は黙って聞いている。
「保つ」
球が少し右へ膨らんだ。
直す。
「崩れたところを戻す」
少し考える。
「違うな。崩れてからじゃない」
完全に崩れる前に直している。
「ずれたら直す」
その方が近い。
マリーが横から球を見る。
「ずっと何かしていらっしゃるのですか?」
「たぶん」
「作った後は、そのまま浮かせているのだと思っていました」
俺も近かった。
球を維持する。
一言ならそれで終わる。
でも維持というのは、何もしないことではない。
崩れようとするものを、小さく直し続けている。
「置いてあるんじゃない」
先生が頷く。
「少なくとも、アルス様の今の方法ではそうなのでしょう」
その言い方も大事だ。
俺の方法。
他の人まで同じとは限らない。
六歳の帳面にも書いた。
『俺は丸い方が保ちやすい』
丸い方が保ちやすい人もいれば、違う形が得意な人もいるかもしれない。
維持の仕方も同じとは限らない。
「先生も球作って」
先生が手を出す。
俺よりずっと速い。
魔力が外へ現れ、ほとんど迷わず球になる。
形もきれいだ。
「何してる?」
「球を作っています」
「それは見れば分かる」
先生が笑った。
「中で何してる?」
今度は先生が黙った。
自分の球を見る。
「魔力を出し、形を整え、維持していますね」
「俺と同じ?」
「言葉にすれば」
そこが怪しい。
同じ言葉を使っても、同じ意味とは限らない。
つい最近まで散々やった。
「維持って何してる?」
先生が自分の魔法へ意識を向ける。
しばらく球を浮かせたまま黙っていた。
「難しい質問ですね」
「先生なのに?」
「慣れていることほど、細かく説明するのが難しい場合があります」
前にも似たことがあった。
できる人は、できる。
何度も繰り返しているうちに、途中の操作を一つずつ考えなくなる。
歩く時に、どの筋肉をどう動かしているか考えないのと似ている。
「じゃあ先生も観測する」
「私の魔法をですか?」
「うん」
先生の球。
俺の球。
同じように見える。
でも中でやっていることが同じとは限らない。
面白い。
ただ今日はそこまで広げない。
まず自分だ。
「もう一回」
俺の球を消す。
帳面が欲しくなった。
部屋へ取りに戻ろうとして、止める。
「マリー」
「はい」
「帳面」
マリーが持っていた鞄から一冊出した。
「持ってたの?」
「必要になると思いましたので」
「測らないって言ったのに」
「アルス様が記録なさらないとはおっしゃっていません」
強い。
受け取る。
新しい頁を開く。
『魔力球』
と書いた。
その下へ、今気づいたことを並べる。
『体内から外へ出す』
『使う範囲を決める』
『形を作る』
『形のずれを感じる』
『ずれた部分を直す』
『必要なら魔力を補う』
書いてから見る。
「これ、順番かな?」
必ずこの順番なのか。
形を作りながら補っていることもある。
ずれを感じながら直している。
一つが終わって次へ進むわけではない。
「途中から同時だ」
矢印でつなぐ。
形。
感知。
修正。
補充。
このあたりは回っている。
一度作れば終わりではない。
球が存在している間、繰り返している。
「だから疲れる?」
先生を見る。
「その可能性はありますね」
魔力そのものを消費するだけではない。
細かな操作を続ける。
集中も必要だ。
なら同じ大きさの球でも、安定した形を長く保とうとすれば負担が増えるかもしれない。
「試したい」
「何をでしょう?」
「きれいに保つのと、少しくらい崩れても直さないの」
先生が少し笑った。
「魔法へ戻った途端、また増えましたね」
本当だ。
でも以前とは違う。
全部一度にはやらない。
帳面の端へ書くだけ。
『形の精度と維持負担』
後でいい。
今日は、自分がどう球を作っているかを見る。
もう一度。
魔力を出す。
球にする。
今度は、できるだけ修正しない。
少しくらい表面が揺れても放っておく。
すぐ形が歪んだ。
右が膨らむ。
上が少し潰れる。
それでも球らしい形は残っている。
「これでも球?」
マリーが見る。
「少し歪んでいますが、球には見えます」
「先生は?」
「私もそう判断します」
なら、俺は今まで必要以上にきれいな球を保とうとしていた可能性がある。
何のために?
練習だから。
丸く作る練習。
それなら正しい。
でも、もし敵へ飛ばすだけなら?
少し歪んでいても届けばいいかもしれない。
明かりにするなら?
形なんてもっとどうでもいいかもしれない。
目的によって、必要な形の精度が違う。
また目的だ。
「魔法も同じだな」
「何と同じです?」
「地図とか報告」
マリーが少し考えた。
「私には同じには見えませんが」
「全部入れなくていい」
地図に世界の全部を描く必要はない。
報告書に原記録の全部を書く必要もない。
魔法も、目的に必要なところまでできればいい。
完全な球が必要な魔法なら整える。
球っぽければいいなら、細かな修正に使う力を減らせるかもしれない。
「先生。魔法って、きれいな方が強い?」
「必ずしもそうではありません」
「やっぱり」
「ただし、形の精度が効果へ直結する術もあります」
当然だ。
全部同じではない。
俺は歪んだ球を前へ動かしてみる。
ゆっくり。
一歩分。
二歩分。
以前より簡単に動く。
ただし形はさらに崩れた。
丸というより、少し潰れた塊だ。
「まだ保ってる」
前なら失敗にしていたかもしれない。
丸くない。
だから失敗。
でも今日は違う。
形は崩れた。
魔力の塊としては維持できている。
失敗した部分と、残っている部分を分けられる。
「球としては崩れた。でも外に出した魔力は保ててる」
先生が頷く。
「その見方はできますね」
さらに前へ。
少しずつ薄くなる。
距離が増えるほど操作しにくい。
ここも以前から知っている。
でも今日は、
『遠くなると難しい』
だけでは終わらせない。
何が難しくなる?
形を感じること。
修正すること。
補うこと。
全部なのか。
どれか一つなのか。
「また増えた」
帳面へ書く。
『距離が増えた時、何が先に難しくなるか』
今日は調べない。
書くだけ。
魔力を戻せる分だけ戻し、残りを散らす。
一度休む。
「疲れた?」
マリーが水を渡してくる。
「少し」
以前より球は安定している。
でも細かく見ながらやると、別の意味で疲れる。
自分が普段無意識にやっていることへ意識を向け続けるからかもしれない。
水を飲む。
クロムが近くへ来た。
黒猫の背中を見る。
「お前、歩く時に足の動かし方考えてる?」
当然、返事はない。
クロムはそのまま俺の横を通り過ぎた。
四本の脚が滑らかに動く。
一歩ごとに考えているようには見えない。
魔法に慣れた人も同じなのかもしれない。
できるようになるほど、細かい操作を意識しなくなる。
それは悪いことではない。
速い。
楽。
実戦なら考えている暇なんてないこともある。
でも誰かへ教える時には困る。
『こうする』
では伝わらない。
「先生が最初に魔法教えてくれた時、困った?」
先生が少し考える。
「何にです?」
「俺が細かく聞くから」
笑われた。
「かなり」
やっぱり。
「普通は?」
「まず真似をさせます。感覚を掴ませ、できた部分を伸ばしていくことが多いですね」
それでも覚えられる。
たぶん、その方が早い人もいる。
俺は違った。
なぜ。
どこ。
何が。
それを知りたくなる。
「俺、面倒?」
「教師としては?」
先生がわざと考える。
「かなり」
マリーが笑った。
「でも面白いですよ」
先生は続けた。
「教えている側が、なぜ自分にできるのか考え直すことになりますから」
それならいい。
俺だけが学んでいるわけではない。
午後。
今度は球を動かさず、手元で維持することだけ試した。
大きさを変えない。
距離も変えない。
形も丸。
一度に変えるのは一つだけ。
午前中に気づいた操作を、順番に意識する。
魔力を出す量。
境目。
形。
ずれ。
修正。
補充。
何度か繰り返すうちに、もう一つ気づいた。
「ずっと補ってない」
球を保っている間、常に同じ量を外へ出し続けているわけではない。
必要な時だけ少し増える。
安定している時は少ない。
大きく崩れた時は増える。
「水桶みたい」
穴の開いた桶。
水が減れば足す。
でも穴の大きさが変われば、必要な水も変わる。
ただし魔力球は桶ほど単純ではない。
漏れるだけではなく、形そのものも崩れる。
「比喩としては分かりやすいですが、そのまま同じとは考えない方がよいでしょうね」
先生が言う。
「うん」
例えは例え。
世界そのものではない。
地図と同じだ。
帳面へ、
『維持中の補充量は一定ではないように感じる』
と書く。
『感じる』
今はそれでいい。
測っていない。
俺の感覚だ。
断定しない。
夕方。
最初の頁を見る。
朝は、
『魔力球』
としか書いていなかった。
今はその下に矢印と疑問が増えている。
でも以前の帳面とは少し違う。
昔なら、
『もっと遠くへ飛ばす』
『大きくする』
『強くする』
と書いていたかもしれない。
今は、
『何をして維持しているか』
『距離が増えると何が難しくなるか』
『形の精度はどこまで必要か』
になっている。
同じ魔法を見ているのに、見る場所が変わった。
庭を一か月見たせいだ。
魔法そのものが変わったわけではない。
俺の見方が変わった。
最後にまとめを書く。
『球を作る、では一つの操作に見える』
その下。
『実際には、出力・形・感知・修正・補充を同時に行っているように感じる』
さらに、
『できることと、どうやってできているか説明できることは別』
筆を止める。
もう一つ。
『一度に全部変えない』
これは庭で覚えた。
魔法でも使える。
明日は球の形を変えてみたい。
丸ではない形。
でも距離は変えない。
大きさもできるだけ変えない。
維持時間も同じくらい。
形だけ。
そうすれば、丸と違うところを見やすい。
「明日は丸じゃないのやる」
マリーが片づけながら聞く。
「四角ですか?」
「それもやる」
「三角?」
「やる」
「猫?」
「それは難しいだろ」
窓辺を見る。
クロムが座っている。
耳。
頭。
胴体。
四本の脚。
尻尾。
形が多すぎる。
今の俺には無理だ。
「もっと簡単なのから」
球。
棒。
板。
輪。
まずはそのくらい。
俺は帳面の次の頁に、試したい形だけを書いた。
丸い球は、もう作れる。
でも作れるから終わりではなかった。
久しぶりに同じ球を作っただけで、その中に今まで見ていなかった操作がいくつも見つかった。
魔法を増やす前に、同じ魔法を違う見方で見る。
それだけでも、まだ先へ進めそうだった。




