↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/115

第五十七話 同じ音

屋敷の鐘は、毎日鳴る。


朝にも鳴るし、昼にも鳴る。屋敷で暮らしている人間なら、わざわざ意識しなくても聞いている音だ。


今まで俺も、ただの生活の合図として聞いていた。


でも今日は違う。


「これなら三人が同時に聞ける」


朝食を終えると、俺は庭へ出て鐘のある方を見た。


昨日は三人がそれぞれ時計を見て測定を始めた。


時計は少しずつずれる。時計が同じでも、人が針を見てから測定具を動かすまでの時間が違う。


なら、全員が同じ合図を聞けばいい。


鐘が鳴ったら開始。


単純だ。


「今日は時計を持っていかないのですか?」


マリーが聞く。


「持っていく」


「持っていくんですね」


「でも見ない」


時計は開始の合図には使わない。


鐘を聞いて測定具を起動する。


その後で時計を見れば、三人がどれくらい近い時刻に始めたか確かめられる。


昨日とは逆だ。


時計に合わせるのではなく、鐘に合わせた結果を時計で見る。


先生に説明すると、すぐに一つ確認された。


「鐘は三地点すべてから聞こえますか?」


「あ」


まだ確認していなかった。


庭では聞こえる。


門の近くでも聞いたことがある。


水路は?


たぶん聞こえる。


たぶんでは駄目だ。


「先に聞きに行く」


測定具を持たず、三人でそれぞれの観測地点を回った。


庭。


問題ない。


門。


ここも聞こえる。


水路。


少し水音がある。


昨日の雨で水量もまだ多い。


「鐘、聞こえる?」


「聞こえると思います」


マリーが答える。


「思うじゃなくて」


「まだ鳴っていませんから」


その通りだった。


鐘が鳴る時間まで待つしかない。


「じゃあ待つ」


水路のそばに立つ。


先生もいる。


マリーもいる。


クロムは少し離れた石の上に座っている。


水の音を聞きながら待った。


普段なら何でもない時間なのに、今日は鐘が鳴るのを待っているせいで長く感じる。


やがて遠くから音が届いた。


ゴォン――。


「聞こえた」


もう一度。


ゴォン――。


庭で聞くより少し小さい。


でも分かる。


「マリーは?」


「聞こえました」


「先生」


「問題ありません」


これなら三地点で使えそうだ。


屋敷へ戻り、今日の手順を決める。


三人の担当は昨日と同じにした。


俺が庭。


マリーが水路。


庭師が門。


測定具も同じ。


俺が甲。


マリーが乙。


庭師が丙。


場所、人、道具を変えない。


今日は開始方法だけを変える。


「鐘の何回目で始める?」


そこで最初の問題が出た。


鐘は一度だけではない。


何回か鳴る。


最初の音で始めるのか。


最後の音で始めるのか。


「最初」


俺は言った。


一番分かりやすい。


でも庭師が手を挙げた。


「最初の音だと、それが最初だと分かる前に鳴ってしまいませんか?」


「……確かに」


一回目が鳴る。


聞こえる。


あ、鐘だ。


そう認識する。


それから測定具を起動する。


人によって反応するまでの時間が違うかもしれない。


「最後なら?」


マリーが言う。


「最後だって、鳴り終わるまで最後かどうか分からない」


「では二回目でしょうか」


二回目。


一回目で準備。


二回目が鳴ったら開始。


それなら全員が同じ音を待てる。


「二回目にする」


紙へ書く。


『鐘の二打目を開始合図とする』


これなら後から見ても分かる。


「鳴り始め?」


先生が聞いた。


「え?」


「鐘の音が聞こえ始めた時ですか。それとも鳴り終わった時ですか?」


また増えた。


鐘は一瞬の音ではない。


打った瞬間から音が広がり、しばらく響く。


ゴォン――。


どこを合図にする?


「聞こえた瞬間」


そう決めた。


完璧に同じ瞬間になるとは思っていない。


それでも時計の針をそれぞれ読むより、動作は減る。


今日はそれで十分だ。


三人の時計も朝のうちに屋敷の大時計へ合わせた。


ただし測定開始までは見ない。


「時計を見たら駄目だからね」


マリーと庭師に言う。


「アルス様もですよ」


「見ない」


「本当に?」


「見ないって」


信用が薄い。


開始時刻が近づく。


三人がそれぞれの場所へ向かった。


俺は庭の一番。


甲を決めた位置へ置く。


向きを合わせる。


起動する直前の状態まで準備して、手を離す。


あとは鐘を待つだけだ。


時計は伏せて置いた。


見えない。


「なんか落ち着かない」


時間が分からない。


普段なら時計を見れば、あとどれくらいか分かる。


今日は見ないと決めた。


先生は少し離れた場所に立っている。


「見るだけなら実験は壊れないと思いますが」


「俺だけ見たらずるい」


「誰に対してです?」


「マリーと庭師」


見ない条件を三人で揃えた。


なら俺も見ない。


先生は笑って、それ以上何も言わなかった。


待つ。


風が少し吹く。


甲は動かない。


クロムが庭の端を歩いている。


鳥の声がする。


遠くで誰かが話している。


音を待っていると、普段は気にしていなかった音まで聞こえる。


その時。


ゴォン――。


来た。


一回目。


俺は甲に手を近づける。


まだ。


響きが庭に残っている。


少し間が空く。


ゴォン――。


二回目。


起動。


透明な石に光が生まれる。


すぐ伏せていた時計を返す。


針を見る。


位置を紙へ記録した。


「できた」


あとは三分待つ。


でも今日は魔素の反応そのものが主役ではない。


俺が気になっているのは、ここから見えない二人だ。


同じ二回目の鐘を聞いたはずだ。


同じように測定具を起動したはずだ。


時計を見ていない。


俺も見ていなかった。


三分が終わる。


甲を止める。


結果を簡単に記録して、屋敷へ戻った。


庭師はまだ戻っていない。


マリーもいない。


昨日と同じだ。


戻る時間は関係ない。


俺は自分の開始時刻だけを伏せて置いた。


先に庭師が戻る。


「どうだった?」


「聞こえました。二回目で開始しています」


紙を受け取る。


まだ俺の紙とは比べない。


次にマリー。


「水路でも聞こえた?」


「はい。問題ありませんでした」


三枚が揃った。


並べる。


開始直後に確認した時計の位置を見る。


「お」


昨日より近い。


完全に同じではない。


でも三人の差は小さくなっている。


庭師と俺はほとんど同じ。


マリーだけ少し後ろだ。


「なんでだろう」


マリーの紙を見る。


異常欄には何もない。


「鐘を聞いて、すぐ押した?」


「押しました」


「二回目?」


「はい」


「最初に聞こえたところで?」


「はい」


同じ手順だ。


先生が聞いた。


「水路では、庭より鐘が遠く聞こえましたね」


「うん」


そこで気づいた。


「音って届くのに時間かかる?」


前の世界の知識が浮かぶ。


かかる。


光よりずっと遅い。


距離が離れれば、同じ鐘を鳴らしても聞こえる時刻は違う。


今の三地点程度で、俺たちの時計に分かるほど差が出るのかは分からない。


マリーの遅れがそれなのかも分からない。


人の反応の違いかもしれない。


水音で鐘を認識するのが少し遅れたのかもしれない。


乙を起動する動作が俺より遅かっただけかもしれない。


「同じ音も、同じ瞬間には届かない」


帳面に書く。


簡単な方法を見つけたと思ったのに、また完全ではなかった。


でも先生が三枚の紙を指した。


「昨日より開始時刻は近くなっていますよ」


「うん」


そこは大事だ。


失敗ではない。


鐘を使えば、少なくとも今の三地点では時計だけを使うより開始を揃えやすかった。


完全な同時ではない。


でも目的には近づいている。


「遠くなったら使えないかな」


「どの程度の距離を考えています?」


「町の反対側とか」


「鐘が聞こえないかもしれませんね」


もっと遠ければ当然そうなる。


森。


山の向こう。


別の町。


鐘一つでは届かない。


「鐘を増やす?」


一つ目の鐘を聞いた人が、別の鐘を鳴らす。


その音をさらに遠くへ。


でも鳴らすたびに遅れる。


人が間違えるかもしれない。


「魔道具で合図を送る?」


先生が答える。


「遠隔で信号を伝える魔道具はあります」


あるのか。


「どれくらい?」


「用途や距離によります。ですが、今の観測のために多数用意するには大げさでしょう」


やっぱり金がかかる。


「鐘はただ」


「屋敷の鐘も誰かが作り、誰かが管理していますよ」


「……ただじゃない」


俺が払っていないだけだ。


何かを使えば、その仕組みの上に乗る。


時計もそう。


鐘もそう。


地図もそう。


紙もそう。


俺一人で全部作っているわけではない。


「じゃあ今は鐘」


今の三地点には十分使える。


それでいい。


昼。


俺はもう一度同じことをやりたくなった。


朝一回だけでは、偶然かもしれない。


今度は昼の鐘を使う。


担当は変えない。


ただし一つだけ変える。


マリーの水路には先生にも同行してもらう。


測定には触らない。


鐘を聞いた瞬間だけ、自分の時計に印を付けてもらう。


マリーが聞いた時刻と先生が聞いた時刻が近ければ、人による聞こえ方の違いを少し見られる。


「先生がいると場所が変わる」


自分で気づいた。


先生が水路へ行けば、周囲の魔素に影響する可能性がある。


でも今日は魔素の比較が目的ではない。


「いいや。今日は音を見る」


先生が頷く。


「目的を分けられるようになりましたね」


以前なら全部同時に取ろうとしていたかもしれない。


魔素も測りたい。


音も確かめたい。


人の違いも見たい。


道具も比べたい。


そして何が原因か分からなくなる。


今日は開始合図だけ。


昼の測定が始まる。


俺はまた庭で待つ。


一回目。


ゴォン――。


二回目。


ゴォン――。


甲を起動。


時計を確認。


朝と同じ。


三分後に終了。


全員が戻ってから紙を並べる。


今度も三人の開始は近い。


そして水路にいたマリーと先生が、鐘を聞いたと記録した時刻もほとんど同じだった。


「人の聞こえ方だけが原因ではなさそう?」


「少なくとも今回の私とマリーさんでは、大きな違いは確認できませんね」


先生は慎重だ。


原因が一つ消えたわけではない。


一回の結果で決めない。


朝と昼。


二組の記録を並べる。


鐘を使うと、今の三地点ではかなり近い時刻に開始できる。


それは言ってよさそうだ。


俺は新しい手順の横へ書いた。


『近距離の同時観測では、屋敷の鐘の二打目を開始合図として使用可能』


その下に注意。


『鐘が聞こえる範囲に限る』

『場所によって聞こえる時刻が完全に同じとは限らない』

『周囲の音で聞き取りにくくなる可能性あり』


「注意の方が長い」


マリーが言った。


「仕方ない」


「最初は『鐘が鳴ったら始める』だけでしたのに」


俺もそう思う。


簡単な方法だった。


今でも方法そのものは簡単だ。


鐘が二回鳴ったら始める。


それだけ。


でも、簡単な方法と、何も考えなくていい方法は違うらしい。


夕方、俺は観測地点図を広げた。


一番。


二番。


三番。


三地点を囲むように、薄く大きな丸を描きかける。


鐘が聞こえる範囲。


でも手を止めた。


本当にこの丸の中全部で聞こえるかは調べていない。


勝手に線を引けば、また地図が世界そのものに見えてしまう。


丸を消す。


代わりに三地点の横へ小さな印を付けた。


『鐘確認済』


確認した場所だけ。


それでいい。


「また線にしなかったんですね」


先生が見ていた。


「まだ三つだから」


聞こえる場所を増やしていけば、いつか範囲が見えるかもしれない。


でも今日は三点。


それ以上ではない。


机へ戻り、帳面を開く。


昨日は、


『同時にも幅がある』


と書いた。


今日はその続きだ。


『同じ合図を使えば、離れた人の開始を近づけられる』


次に、


『同じ合図でも、全員へ完全に同時に届くとは限らない』


そして、


『完全でなくても、目的に足りるなら使える』


最後の一行を見て、少し考える。


最近、これが増えてきた気がする。


完全ではない。


でも使える。


測定具もそうだった。


地図もそう。


手順書もそう。


言葉もそう。


時計も鐘もそうだ。


完璧なものを探すより、何ができて何ができないのか分かっている方が使いやすい。


クロムが机へ飛び乗った。


今日は時計には触らない。


代わりに帳面の上へ座った。


「それは使えない」


抱き上げる。


クロムは抵抗しない。


隣の椅子へ置くと、そこで丸くなった。


俺は隠れていた帳面を開き直す。


鐘で三地点を揃えることはできた。


次は四地点でも五地点でもできる。


聞こえる範囲なら。


そう思って地図を見た時、一つ別のことに気づいた。


今日、三人が測った結果は近い時間に揃った。


でも俺たちは三人とも、鐘が鳴るのを待ってから一斉に動いた。


つまり、観測する側が同じ合図に合わせて行動したことになる。


もし周囲の魔素が人の存在や動きに影響されるなら。


三地点で、人間が同じ頃に一斉に測定具を起動したこと自体が、何かを変えている可能性もある。


「……また増えた」


先生はもう帰っている。


マリーも部屋にはいない。


聞く相手はいない。


俺はその疑問を帳面へ書きかけて、止めた。


今すぐ調べなくていい。


忘れないように一行だけ残す。


『合図を揃えることで、観測する側の行動も揃う』


その下は空けておいた。


答えはまだない。


窓の外から、夕方の鐘が聞こえてきた。


ゴォン――。


クロムが片耳だけ動かす。


俺も聞く。


同じ音だ。


でもクロムが俺と同じように聞いているかは分からない。


庭でも。


水路でも。


門でも。


同じ鐘を聞いている。


それでも、まったく同じではない。


同じという言葉の中には、思っていたよりずっと広い幅があるらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。