第五十六話 ずれた時計
翌朝、俺は三つの時計を机の上に並べていた。
昨日使ったものだ。俺、マリー、庭師が一つずつ持ち、それぞれ同じ時刻に測定を始めた――ことになっている。
三つとも針は動いている。壊れてはいない。
ただ、並べてみると。
「ずれてる」
一番左の時計の針が、真ん中より少し先に進んでいる。右はさらに少し遅い。
大きな差ではない。
じっと見比べなければ気づかない程度だ。
マリーも机を覗き込んだ。
「本当ですね」
「昨日は合わせたよね?」
「合わせました。私も確認しました」
屋敷の時計を見ながら、三つとも同じ位置へ合わせた。それは覚えている。
なら、昨日の朝から今までの間にずれたことになる。
先生が一つを手に取った。
「時計ですから、多少の進み遅れはあります」
「普通なの?」
「この程度でしたら、珍しくはありません」
それを聞いて、昨日の三枚の記録用紙を取り出した。
全部に同じ開始時刻が書かれている。
でも、それは本当に同じ時刻だったのだろうか。
時計そのものがずれていた可能性がある。
それだけではない。
「時計が同じでも、人がずれる」
「はい?」
マリーが首を傾げる。
「昨日、時計を見てからすぐ始めた?」
「すぐです」
「どれくらい?」
「すぐは、すぐです」
それでは分からない。
「針を見て、乙を起動するまで」
「ええと……」
マリーが昨日の動きを思い出すように手を動かした。
「時計を見ます。時間になったと思います。それから時計をしまって、測定具の位置をもう一度確認して、起動しました」
「その間に少しかかる」
「少しです」
少し。
また曖昧な言葉が出てきた。
庭師にも聞いてみる。
彼は少し考えてから答えた。
「私は時計を地面に置いておきました。針を見ながら、時間になったところで測定具を動かしました」
マリーとは違う。
俺は時計を手に持っていた。
時間になったのを確認してから地面へ置き、甲を起動した。
三人とも同じ開始時刻を書いている。
でも、やったことは少しずつ違っていた。
「同時じゃないかもしれない」
三枚の紙を見ながら呟く。
先生が椅子に座った。
「どの程度の差を問題にしているのでしょう?」
そこで止まった。
分からない。
一瞬の違いが測定結果へ影響するなら問題になる。
一分くらい違っても周囲の魔素がほとんど変わらないなら、問題にならないかもしれない。
昨日の目的は、俺一人が庭、水路、門を順番に回ることで生まれる大きな時間差を減らすことだった。
その目的なら成功している。
三人の開始が少しくらいずれていても、一人で三地点を回るよりずっと近い時間に測れている。
「完全に同じじゃなくてもいい?」
「目的次第でしょう」
先生の答えは、最近よく聞くものになっていた。
俺もそう思う。
全部を完全に揃えようとすれば、観測そのものができなくなる。
問題は、どこまでのずれなら同じとして扱うかだ。
帳面を開く。
『同時=全く同じ瞬間?』
その下に、
『それとも、決めた範囲の中なら同時?』
と書いた。
一秒。
十秒。
一分。
どこで区切ればいいのかは、まだ分からない。
そもそも今の時計で一秒を正確に揃える意味があるのかも分からない。
「今日は測る前と後で時計を比べる」
まずはできることからやる。
三つの時計を屋敷の大時計へ合わせ直した。
今度は合わせた時刻も紙へ残す。
さらに時計ごとに印を付けた。
甲時計。
乙時計。
丙時計。
測定具と同じだ。
「名前が増えてきましたね」
マリーが言う。
「混ざるから」
「そのうちアルス様のお部屋にある物すべてに名前が付きそうです」
机の端を見る。
帳面にも番号がある。
箱にもある。
測定具にもある。
時計にも付いた。
クロムを見る。
「クロムはクロム」
黒猫は欠伸をした。
これ以上分類される心配はないらしい。
昨日と同じ三地点を使うことにした。
俺が庭。
マリーが水路。
庭師が門。
測定具も昨日と同じ組み合わせにする。
変えるのは時計の扱いだけ。
それぞれ開始前に時計を確認し、時間になったと思ったら測定具を起動する。その直後に、実際に時計がどこを指していたかも見る。
「忙しくない?」
説明を聞いたマリーが言った。
確かに忙しい。
時計を見る。
測定具を起動する。
また時計を見る。
記録する。
その間にも測定は始まっている。
「……増やしすぎたか」
一つ確かめようとすると、作業が増える。
作業が増えると、その作業自体が新しいずれを作る。
先生が口を挟んだ。
「今日は時計の確認が目的なのですから、測定結果の精度を昨日と同じにする必要はないのではありませんか?」
「あ」
そうだ。
今日は地脈の状態を調べたいわけではない。
三人がどれくらい近い時刻に開始できるかを見たい。
なら、魔素の測定を三回繰り返す必要もない。
「一回だけにする」
目的を一つに戻す。
三人でそれぞれの地点へ向かった。
俺は庭の一番に甲を置く。
昨日と同じ位置。
時計は手に持ったままにした。
先生は少し離れた場所にいる。
クロムは今日は乾いた地面を歩いていた。
空は晴れている。
時計の針を見る。
まだ早い。
待つ。
昨日もこうして待った。
でも昨日は、針が決めた位置に来れば、それが三人にとって同じ時刻だと思っていた。
今日は時計そのものを疑っている。
考えてみれば当然だった。
時計は時間そのものではない。
時間を見るための道具だ。
魔素測定具が魔素そのものではないのと同じ。
道具が示したものを、そのまま世界そのものだと思ってはいけない。
針が近づく。
決めた位置へ重なった。
起動する。
すぐ時計を見る。
思っていたより針は進んでいない。
ほとんど同じ位置だ。
紙へ印を付ける。
後は待つ。
今日は一回だけなので、三分後に終了した。
屋敷へ戻ると、まだ二人はいなかった。
少しして庭師が戻ってきた。
さらに少し遅れてマリーが来る。
「遅れました?」
「戻る時間は関係ない」
三枚の紙を並べた。
俺の開始。
庭師の開始。
マリーの開始。
完全には一致していない。
庭師は俺より少し後。
マリーはさらに少し後だった。
「私が一番遅いですね」
「時計をしまってから起動した?」
「今日はしまっていません」
「じゃあ何で?」
「時間になったと思った時に、乙の向きが少しずれているように見えまして」
「直した?」
「はい」
なるほど。
時計ではなかった。
測定具だった。
庭師にも聞く。
「私は針が位置へ来たのを確認してから起動しました」
「俺も」
それでも少し違う。
二人が同じ針の位置を「来た」と判断する瞬間が違うのかもしれない。
時計の針にも幅がある。
見る角度も違う。
考え始めると、また増えていく。
先生が三枚を見る。
「それで、昨日より悪い結果でしょうか?」
「ううん」
むしろ良い。
昨日は同じ時刻だと思い込んでいた。
今日は、同じ時刻に始めようとしても少しずれることが分かった。
それだけでも新しい記録だ。
三つの時計を再び机の上へ並べる。
朝に合わせたばかりなので、今のところ目で分かるほどのずれはない。
時計の進み遅れより、人の動作の違いの方が今回の開始時刻には大きく影響したように見える。
ただし、一日、一週間と使えば時計のずれも増えるかもしれない。
「毎回合わせる?」
口にしてから考える。
三地点ならできる。
百地点なら?
全員が屋敷へ集まって時計を合わせてから出発するのは面倒だ。
遠い場所ならもっと難しい。
町が違えば、同じ時計を見ることすらできない。
また世界を広げすぎている。
「今は三人」
自分で止めた。
先生が少し笑った。
最近、この止め方を覚えた。
今できる範囲の問題を先に見る。
三人なら、朝に同じ時計へ合わせればいい。
それでも開始には少しずれが出る。
なら、そのずれをなくすのではなく、どれくらいまでを同時として扱うか決めればいい。
「一分以内なら同時?」
先生を見る。
「なぜ一分なのですか?」
「……分かりやすいから」
駄目だ。
理由になっていない。
十秒でも三十秒でも一分でもいいなら、どれを選ぶかには目的が必要だ。
「魔素がどれくらいの速さで変わるか分からないと決められない?」
「それも一つでしょう。ただ、必要以上に細かく合わせることにも費用と手間がかかります」
また同じところへ戻ってきた。
正確さ。
手間。
目的。
全部を最大にはできない。
俺は紙に大きく書いた。
『許容するずれを決めるには、何を比べたいかが必要』
その下に小さく付け足す。
『今の観測では、一人で順番に回るより十分近ければ使える』
昨日の記録が間違いになったわけではない。
意味が少し変わっただけだ。
「昨日の三枚にも書いておこう」
『三地点は同時開始として記録したが、時計および開始動作のずれは未確認』
昨日の紙へ追記した。
過去の記録を書き換えるのではなく、後から分かったことを追加する。
これなら昨日の結果も残る。
昼前、マリーが三つの時計を回収しようとした。
「あ、それは置いといて」
「まだ使いますか?」
「夕方にもう一回比べる」
朝に合わせた時計が、半日でどれくらいずれるのか見たい。
マリーは頷いて、時計だけ残した。
その横へクロムがやって来る。
三つ並んだ時計を一度見て、その間に前足を置いた。
「動かすなよ」
クロムがこちらを見る。
そして、乙時計を前足で押した。
「おい」
時計が少し滑る。
マリーが吹き出した。
先生まで笑っている。
壊れてはいない。
でも位置は変わった。
俺は記録用紙へ書いた。
『昼前、乙時計。クロムが接触。位置移動。動作への影響は不明』
「それも書くのですか?」
マリーが笑いながら聞く。
「変なことは消さない」
以前決めた。
クロムは何事もなかったように机から降りた。
夕方。
三つの時計を再び並べる。
朝にはほぼ同じだった針が、わずかにずれている。
甲が少し先。
乙が真ん中。
丙が少し遅い。
クロムに押された乙も普通に動いている。
半日でも、完全には揃わない。
俺はその差を帳面へ写した。
時計は時間ではない。
同じ時刻と書いてあっても、完全に同じ瞬間とは限らない。
人が操作すれば、さらにずれる。
だからといって使えないわけでもない。
必要な精度の中に収まっているなら、それで役に立つ。
最後に今日のまとめを書く。
『同時にも幅がある』
少し考えて、もう一行。
『ずれをゼロにするより、どこまでのずれを許すか決める』
そこで手が止まった。
三人が離れた場所にいても、時計を見ればだいたい同じ頃に始められる。
でも時計を見る人が違えば、どうしても少しずれる。
なら。
全員が時計を見る必要がなければどうだろう。
三人が離れた場所にいても、同じものを一度だけ聞いて、それを合図に始める。
屋敷には、離れた庭まで聞こえるものがある。
朝も昼も聞いている。
鐘だ。
帳面の端に小さく書いた。
『時計を見るのではなく、同じ合図を聞く?』
明日は、三人で時計を見ない。




