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第五十五話 三人の朝

雨が上がった翌朝、庭にはまだ水が残っていた。


葉の先から雫が落ち、土は踏むたびに少し沈む。昨日より空は明るいが、水路の音はまだ普段より大きい。


俺は庭へ出る前に、机の上へ三枚の記録用紙を並べた。


一枚目には一番。

二枚目には二番。

三枚目には三番。


地図の番号と同じだ。


「今日は三か所」


隣で紙を見ていたマリーが首を傾げる。


「アルス様がお一人で?」


「それだと同じ時間に測れない」


これまで複数の場所を測る時は、順番に移動していた。


庭を測る。

次に門の近く。

その次に水路。


でも、それでは場所だけでなく時間も変わる。


庭と水路の結果が違っていても、本当に場所の違いなのか、それとも測った時間が違うからなのか分からない。


もちろん、三か所を同時に測ったからといって全部解決するわけではない。


測る人が違う。

使う道具も違う。

場所も違う。


条件は増える。


それでも、時間のずれを小さくすることはできる。


「三人で測る」


「私もですか?」


「うん」


「また雨が降りませんか?」


マリーが窓を見る。


そこが心配なのか。


「今日は晴れって聞いた」


「昨日も朝は弱い雨でした」


「……先生にも聞く」


天気については俺よりマリーの方が慎重だった。


先生が来てから計画を説明すると、反対はされなかった。


ただし、すぐに一つ問題を指摘された。


「測定具はどうしますか?」


「三つ借りる」


昨日のうちに父へ頼んでいた。


屋敷には同じような用途の測定具がいくつかある。普段俺が使っているものと、保管されていた二つを合わせれば三つになる。


机の上へ並べる。


形はよく似ている。


透明な石。

その下の術式板。

外側の枠。


でも完全に同じではない。


一つは枠の角が少し削れているし、透明な石にも細かな傷がある。


「同じ道具じゃない」


「同じ用途の道具ではあります」


先生が答える。


「同じように作られていても、全く同じ反応をするとは限りません」


分かっている。


人が違えば見え方が違う。


道具が違えば、道具ごとの癖があるかもしれない。


「先に比べる」


三つを庭へ持っていき、同じ場所へ置いた。


一つずつでは時間がずれるので、できるだけ近くに三つ並べる。


ただし近づけすぎれば、道具同士が影響する可能性もある。


少し離す。


今度は場所が違う。


「面倒だな」


先生が笑う。


「観測とはそういうものです」


三つを順番に起動した。


待つ。


反応を見る。


どれも大きく外れてはいない。


ただ、真ん中の一つだけ少し発光が弱いようにも見える。


本当に弱いのか。


石の傷でそう見えるのか。


置いた場所が少し違うからなのか。


一度では分からない。


場所を入れ替えてもう一度。


さらにもう一度。


結果は完全には揃わなかった。


でも、一つだけ毎回極端に違うということもない。


「使える?」


「今日の目的であれば、三つの測定具を使ったことを記録しておけばよいでしょう」


先生の答えに頷く。


完璧になるまで待っていたら、何も始まらない。


どの道具をどこで使ったのか残しておけば、後から道具を入れ替えて試すこともできる。


俺は三つに仮の印を付けた。


甲。

乙。

丙。


今日だけ分かればいい。


一番、庭――甲。

二番、水路――乙。

三番、門の近く――丙。


測る人も決める。


庭は俺。

水路はマリー。

門の近くは庭師。


庭師には何度か測定を頼んでいる。手順書も使えるし、記録用紙の書き方も知っている。


「先生は?」


「今日は確認する側に回りましょう」


それも必要だ。


三人が別々の場所へ行ったら、全体を見ている人がいなくなる。


何か問題が起きた時、後から話を聞くだけになる。


「じゃあ先生は動かない」


「承知しました」


「私は動きますけどね」


マリーが言う。


「二番だから」


「そうではなく、アルス様が何か始めた時に止める人がいません」


「先生がいる」


「先生は時々、アルス様と一緒になって始めます」


先生が目を逸らした。


否定しないらしい。


準備を続ける。


三人が別の場所にいる以上、いつ始めるかを決めなければならない。


屋敷の時計を基準にした。


俺たちが普段使っている時刻だ。


それぞれ小さな時計を持ち、針を確認する。


「この時刻になったら開始」


紙に印を付ける。


開始して三分待つ。


一回目を記録。


もう一度。


三回繰り返す。


いつもの手順と同じだ。


違うのは三人が同時にやることだけ。


「遅れたら?」


庭師が聞いた。


「書いて」


「どれくらい遅れたか分からなかった場合は?」


少し考える。


「遅れたことだけ書く」


分からないものを作らない。


庭師が頷く。


マリーも自分の用紙を確認している。


「途中で雨が降りましたら?」


「書く」


「アルス様が水路へ来ましたら?」


「行かないよ」


「念のためです」


「……来たって書いて」


先生が笑った。


俺だけ異常項目みたいになっている。


出発する。


三番へ向かう庭師は門の方へ。


マリーは二番の水路へ。


俺は庭に残る。


今までは誰かが測っているところを見られた。


今日は見えない。


水路でマリーが何をしているのか分からない。


門の近くで庭師が正しく測定具を置いたのかも分からない。


手順書と地図と記録用紙を渡した。


後は任せるしかない。


妙な感じだ。


「気になりますか?」


先生が聞く。


「うん」


「見に行きますか?」


「行かない」


見に行ったら意味がない。


俺がそばにいることで測定結果が変わる可能性もある。


それに、俺がいなくても使えるように作った手順だ。


本当に使えるなら、俺が見張る必要はない。


庭の一番へ行く。


杭は昨日の雨でも動いていなかった。


紐を使い、甲の位置を決める。


向きを合わせる。


時計を見る。


まだ少し早い。


待つ。


先生も何も言わない。


庭には雨上がりの匂いが残っている。


葉から雫が落ちた。


クロムが濡れた地面を避けるように石の上を歩いている。


昨日より明らかに慎重だ。


「やっぱり雨嫌いなんじゃない?」


クロムは俺を見た。


答えはない。


昨日書いたばかりだ。


勝手に決めない。


時計を見る。


もうすぐだ。


遠くにいる二人も、同じように時計を見ているはずだ。


それが少し面白かった。


今までは俺が一つの場所に立って、一つの結果を見ていた。


今は違う。


ここから見えない場所でも、同じ手順で誰かが測ろうとしている。


針が決めた位置へ来た。


「開始」


甲を起動する。


透明な石に淡い光が生まれた。


離れる。


三分。


今日は雨が降っていない。


風も弱い。


昨日のように測定具が動く様子もない。


待っている間、どうしても水路が気になる。


今ごろマリーも乙を起動している。


たぶん。


門では庭師が丙を起動している。


たぶん。


見えない以上、今は確認できない。


でも後で紙が戻ってくる。


それでいい。


三分後、一回目を記録した。


反応は普段の庭と大きく違わない。


二回目。


三回目。


途中でクロムが測定具へ近づこうとしたので、先生が無言で抱き上げた。


クロムは抵抗しなかった。


「それ、書く?」


「測定地点までは近づいていませんから、必須ではないと思います」


少し迷って、周囲の様子へ書いた。


『二回目終了後、クロムが接近。測定範囲へ入る前に先生が移動』


必要ないかもしれない。


でも後で何か変な結果が出た時には役立つかもしれない。


三回目まで終える。


俺の紙は完成した。


でも今日は、それで終わりではない。


二枚が戻ってくるのを待つ。


先に庭師が戻ってきた。


「終わりました」


三番の紙を受け取る。


三回とも記録されている。


異常なし。


天気、風、周囲の状況も書いてある。


門の前を荷車が一台通ったらしい。


少ししてマリーも戻ってきた。


「こちらです」


二番。


三回分ある。


二回目の途中で水路の近くを鳥が飛んだ、と書かれていた。


「鳥まで書いたの?」


「以前、周囲の生き物も影響する可能性があるとおっしゃっていたでしょう」


「うん」


ちゃんと覚えていた。


三枚を庭の机へ並べる。


一番。

二番。

三番。


同じ朝。


同じくらいの時間。


同じ手順。


三人。


三つの道具。


三つの場所。


「できた」


思わず声が出た。


これまで一人で順番に回っていた時とは違う。


一か所を測っている間に、別の場所でも記録が作られていた。


一人なら三か所を一巡するだけでも時間がかかる。


今は一度の測定時間で三地点分ある。


「増えた」


「人数が三倍ですから」


先生が言う。


「百人なら百か所?」


「その前に測定具を百個用意する必要がありますね」


「あ」


金がかかる。


人だけ増やしても駄目だ。


道具がいる。


手順書もいる。


記録用紙もいる。


場所を示す地図も必要になる。


それに百人が同じように測れる保証もない。


「簡単じゃないな」


「ですが、三か所はできました」


先生が三枚の紙を見る。


確かにそうだ。


いきなり世界中を測る必要はない。


昨日まで一人で一地点ずつだったものが、今日は三地点になった。


それだけで十分だ。


結果を比べる。


庭は比較的いつもの範囲に見える。


水路は昨日の雨の影響が残っているのか、少し違う反応が記録されている。


門の近くは揺れが大きい。


ただし一日分だ。


昨日雨だった。


水路の水量も多い。


門では荷車が通った。


測定具も違う。


測った人も違う。


ここから何かを決めるには早すぎる。


「今日は線にしない」


地図を見ながら言う。


「以前より慎重になりましたね」


「点が三つあるだけだから」


三つの点を見れば、つなぎたくなる。


でも線を引けば、そこに何か流れがあるように見えてしまう。


今あるのは三地点の記録だけだ。


俺は地図の横へ今日の日付を書き、三地点すべてに小さな印を付けた。


同じ日に観測したことが分かる印。


これまでの地図にはなかった。


「これも要るな」


同じ地点でも、別の日の記録がある。


一枚の地図だけでは、いつ測った点なのか分からなくなる。


地図と記録用紙の番号だけでなく、日付も対応させる。


また一つ増えた。


でも今回は迷わない。


必要だから増やす。


午後、三枚をもう一度見直した。


そこで一つ気になった。


「同じ時間って、どれくらい同じなんだろう」


先生が顔を上げる。


「どういう意味でしょう?」


「俺は時計の針がここに来た時に始めた」


紙の開始時刻を指す。


マリーも庭師も同じ時刻を書いている。


だから同時。


そう思っていた。


でも俺は二人が実際に起動するところを見ていない。


時計を見てから道具を起動するまでに少し時間がかかったかもしれない。


マリーはすぐ押したかもしれない。


庭師は確認してから押したかもしれない。


それくらいなら問題ないのか。


問題があるのか。


そもそも三人の時計は、本当に同じだったのか。


朝、屋敷の時計に合わせた。


俺も見た。


だから大丈夫だと思う。


「まあ、今日は同じでいいか」


今すぐ全部疑い始めたら終わらない。


先生も何も言わなかった。


俺は帳面を開く。


今日できたことを書く。


『三人で三地点を同じ時間に観測した』


その下へ、


『一人で順番に測るより、時間の差を小さくできる』


さらに、


『人と道具が増えるので、別の違いも増える』


最後に少し考えて書いた。


『同時に測れば、場所の違いを比べやすくなる』


今日は成功だ。


少なくとも、そう思った。


三枚の記録用紙を重ねて箱へ入れる。


紙の上では、三つの地点に同じ開始時刻が書かれていた。


その時の俺はまだ、それだけで三人が同じ瞬間に始めたことになるのかを、深く考えてはいなかった。

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