第五十四話 測れない日
朝から雨だった。
強い雨ではない。屋根を叩く音も小さく、庭の土がゆっくり色を変えていくくらいの雨だ。
俺は窓の外を見て、それから机の上の観測地点図を見る。
「ちょうどいい」
昨日、最初の版を作ったばかりだ。
丸は観測地点。数字は記録用紙と対応する番号。道と水路も、凡例を見れば区別できるようにした。
今日はこの地図を、まだ見たことのない人へ渡すつもりだった。
それとは別に、雨の日の記録も欲しい。
以前、水路の記録を並べた時、一枚だけ雨の日に普段とは違う反応が残っていた。
雨が原因かどうかは分からない。
だから雨の日の記録を増やす。
一度に二つ試せる。
「マリー」
「駄目です」
まだ何も言っていない。
「何が?」
「雨の中へ出るおつもりでしょう」
「出るよ」
「やはり」
マリーが窓の外を見る。
「今日はおやめになった方がよろしいのでは?」
「弱い雨だよ」
「今は、です」
今は。
その言葉が少し気になった。
確かに、これからどうなるかは分からない。でも雨が強くなったら戻ればいい。
「近くだけ」
「先生と護衛の方がご一緒なら」
「うん」
交渉成立。
朝食を終え、先生が来る頃には雨が少し強くなっていた。それでも外へ出られないほどではない。
今日使う地図を見せる。
「昨日の地図ですね」
「最初の版」
「最初の?」
「使ったら直すと思うから」
先生が笑った。
「もう次を作るつもりなのですか?」
「手順書もそうだったし」
作って終わりにはならない。
使えば何か出る。
今日、地図を渡す相手は厨房で働いている若い使用人になった。以前、測定を頼んだ人とは別の人だ。
庭の実験を遠くから見たことはあるらしいが、この地図は知らない。
俺は地図だけを渡した。
「これを見て、二番へ行って」
説明はしない。
使用人は紙を見る。右下の凡例も読んでから、地図の一点を指した。
「二番はこちらですね」
合っている。
「行けそう?」
「はい。水路の近くですね」
第一段階は大丈夫そうだ。
俺たちも一緒に外へ出る。ただし、先導はしない。
使用人が地図を見て歩く。
屋敷を出て、道へ。
そこから水路側へ曲がる。
俺は先生と少し後ろを歩いた。雨粒が顔に当たり、地面はすでに柔らかくなっている。
「アルス様、走らないでくださいね」
「走ってない」
「走ろうとした顔をしていました」
顔で分かるものなのか。
クロムもついてきている。
黒い毛が雨に濡れ始めているのに、特に気にした様子はない。
使用人が一度止まった。
地図を見る。
周囲を見る。
また地図を見る。
「分からない?」
聞きそうになって、止めた。
今日は助けない。
地図だけで探せるかを見る。
使用人は少し先へ進み、一本の杭を見つけた。
「こちらでしょうか」
二番。
合っている。
「見つかった」
「はい」
嬉しい。
俺が横で説明しなくても、同じ場所へ行けた。
これなら地図は使える。
少なくとも、今日のこの人には。
そう思った直後だった。
雨が急に強くなった。
「うわ」
音が変わる。
葉を叩く音。水路へ落ちる音。地面を叩く音。
一気に周囲が白っぽくなる。
マリーが俺の頭へ布をかぶせた。
「戻りますよ」
「測ってから」
「アルス様」
「一回だけ」
先生が空を見る。
「短時間なら。ただし風が強くなったら中止します」
「分かった」
急いで測定具を出す。
そこで手が止まった。
急いでは駄目だ。
雨の日の記録が欲しいからといって、普段と違う測り方をしたら比較しにくくなる。
杭を確認する。
紐で測定具の位置を決める。
印を合わせて向きを揃える。
起動。
俺たちは決めた距離まで離れた。
ここから三分。
雨が測定具へ直接当たっている。
透明な石の表面を水滴が流れる。
発光はしていた。
でも、見えにくい。
「先生」
「はい」
「光ってるよね?」
「光っていますね」
「いつもより弱い?」
先生が少し目を細めた。
「判断しづらいですね」
俺も同じだった。
反応そのものが弱いのか。
水滴のせいで光り方が違って見えるのか。
空が暗いことで見え方が変わっているのか。
石の表面を流れる水が光を散らしているのか。
分からない。
三分が経った。
一回目。
記録用紙を見る。
『反応――』
筆が止まった。
何と書く?
弱い。
普通。
強い。
どれも書けそうで、どれも書けない。
「判定できない」
そう書いた。
二回目。
測定具の位置を確認する。
向きも合っている。
もう一度起動し、離れる。
今度は風が出てきた。
雨が斜めに降る。
測定具へ当たる水滴も増えた。
クロムはいつの間にか近くの木の下へ移動している。
賢い。
俺も行きたい。
でも待つ。
一分。
二分。
その時だった。
測定具が少し動いた。
ほんの少し。
風に押された。
「動きました」
マリーも見ていた。
俺は測定具を見る。
位置がずれている。
決めた場所から外れた。
「戻しますか?」
使用人が聞く。
戻せば続けられる。
途中で触ったことを書けばいい。
以前、衛兵が測定具を傾けた時にはそうした。
俺が近づこうとした直後、もう一度強い風が吹いた。
測定具が今度ははっきり動いた。
紐までずれる。
「駄目だ」
止まる。
これはもう、いつもの条件ではない。
「中止しますか?」
先生が聞く。
「うん」
二回目は途中で終了。
三回目はまだ残っている。
風が弱くなるまで待てばできるかもしれない。
少し待つ。
雨は弱くならない。
むしろ水路の水音が大きくなってきた。
「もう少し待てば――」
「戻ります」
マリーの手が俺の肩に乗った。
「でも三回目が」
「戻ります」
「あと――」
「アルス様」
声は穏やかだった。
逃げ道はなかった。
先生も空を見ている。
「今日はここまでにしましょう。この天候では、測定具そのものを傷める可能性もあります」
道具。
そこまで考えていなかった。
測ることばかり考えていた。
壊したら、雨の日どころか晴れの日まで測れなくなる。
「分かった」
撤収する。
屋敷へ戻る頃には靴は泥だらけだった。
服もかなり濡れている。
クロムは途中でどこを歩いたのか、俺より濡れていない。
納得できない。
「お前だけずるくない?」
黒猫が俺を見る。
そのまま身体を震わせた。
水滴が飛んできた。
「うわっ」
「室内でやらせないでください!」
マリーの声が飛ぶ。
俺とクロムが一緒に怒られた。
着替えてから、机へ戻る。
記録用紙を広げた。
ひどい。
本来なら三回分の結果が並ぶはずだった。
一回目。
判定不能。
二回目。
途中で中止。
三回目。
やっていない。
「何も測れてない」
俺が言うと、先生が隣から紙を見る。
「魔素の状態については、比較に使える結果を得られていませんね」
「うん」
「ですが、何もなかったわけではありません」
先生が紙を指す。
雨が強くなった。
発光の判定が難しくなった。
風で測定具が動いた。
測定を中止した。
三回目を行わず撤収した。
確かに全部起きた。
でも知りたかったのは、水路の魔素反応だ。
「欲しかった結果はない」
「そうですね」
先生はあっさり認めた。
「では今日は、欲しかった結果を得られなかった日です」
そのままだ。
俺は紙を見る。
結果欄を埋めたくなる。
一回目だけでも、たぶん弱かった。
そう書けば一つ結果ができる。
でも『たぶん』だ。
何が弱かった?
魔素への反応?
雨で見えにくくなった光?
分からない。
二回目も、測定具が動く前までは反応していた。
そこまでを結果にすることもできる。
でも決めた時間を終えていない。
「空欄でいい?」
「後から見た時、空欄の理由が分かりますか?」
分からない。
書き忘れたのかもしれない。
測定しなかったのかもしれない。
紙が汚れて読めなくなったのかもしれない。
それでは困る。
「空欄は駄目だ」
俺は一回目の欄へ書く。
『判定不能――雨滴により発光状態を十分確認できず』
二回目。
『中止――強風により測定具が移動』
三回目。
『未実施――天候悪化のため撤収』
これで結果は一つもない。
でも、なぜないのかは分かる。
「これなら後から見ても分かる」
「そうですね」
「測れなかったのも結果?」
先生は少し考えた。
「測定結果が得られなかった、という事実は残せます。ただ、それを魔素の測定結果と同じものとして扱わない方がよいでしょう」
なるほど。
結果がない。
記録はある。
同じではない。
俺は帳面に書く。
『結果が出なかったことと、記録するものがないことは違う』
その下へ続ける。
『空欄にしない。なぜ結果がないのかを書く』
そこで、借りている古い報告書を思い出した。
何枚か、途中の日だけ記録が抜けていた。
昨日までは、あまり気にしていなかった。
書き忘れたのかと思った。
でも違うかもしれない。
俺は紙の束を取り出す。
ある調査では七日間の日付が並んでいた。
一日目。
二日目。
三日目。
次が五日目。
四日目がない。
「これ」
先生も覗き込む。
「確かに抜けていますね」
「なんで?」
「分かりません」
「雨だったかも」
「そうかもしれません」
「道具が壊れた?」
「ありえます」
「休んだだけ?」
「それもありえます」
「書き忘れ?」
「否定できません」
何も決められない。
空白しか残っていないからだ。
四日目に特別なことがあったのかもしれない。
何もなかったのかもしれない。
今となっては、どちらも同じ空白になっている。
「もったいない」
その日の結果がないことより、なぜないのか分からないことの方が困る。
俺は今日の記録を見る。
これは違う。
測れなかった。
でも理由は残っている。
「先生。もしこれが何年も続いたら、測れなかった日も比べられる?」
「どういう意味です?」
「雨の日だけ、いつも測れないとか」
先生が少し考えた。
「それも分かるかもしれませんね」
そこだ。
一回なら失敗。
でも同じ失敗が何度も起きたら、それは道具や手順の特徴かもしれない。
雨の日は発光が読み取りにくい。
風が強い日は道具が動く。
もし何度も同じことが起きるなら、雨の日でも読める道具が必要になるかもしれない。
道具を固定する台が必要になるかもしれない。
屋根だけ付ける方法もある。
「雨よけ作ればいい?」
口にした瞬間、先生がこちらを見る。
「雨を避ければ、雨の日と同じ条件と言えますか?」
止まった。
屋根を置く。
雨が測定具へ当たらなくなる。
でも俺が知りたいのは、雨の日の魔素だ。
雨そのものが測定へ影響している可能性もある。
雨だけ除いたら、調べたい条件まで変えてしまうかもしれない。
「じゃあ駄目?」
「駄目とは言っていません。何を避けて、何を残したいのかを考える必要があります」
また目的だ。
測定具を濡らしたくない。
でも雨の日を測りたい。
二つがぶつかっている。
「道具だけ守る?」
例えば透明な覆い。
でも覆いの素材が魔素反応へ影響するかもしれない。
「先に晴れの日で覆いありとなしを比べる」
先生が笑った。
「実験が一つ増えましたね」
「雨を測りたかっただけなのに」
どんどん増える。
雨の日を測る。
そのために雨から道具を守る。
守るものが測定へ影響しないか調べる。
影響するなら別の方法を考える。
一つ知ろうとすると、その手前に知らなければならないものが出てくる。
でも以前ほど嫌ではない。
そういうものだと分かってきた。
マリーが新しい飲み物を置く。
「では次の雨までに準備できますね」
「次いつ?」
「私に天気を決める力はありません」
それもそうだ。
「晴れの日に先に試す」
「でしたら濡れずに済みます」
マリーにとってはそこが重要らしい。
俺は今日の記録用紙へ、もう一つ欄を追加した。
『測定不能の理由』
今までは『測定中の異常』に書いていた。
でも少し違う。
異常が起きても結果を残せることはある。
結果そのものを残せない場合は、それが分かるようにしたい。
先生に見せる。
「増やしすぎ?」
「使ってみてから決めればよいでしょう」
それでいく。
記録用紙も完成品ではない。
必要なくなれば消せばいい。
午後になっても雨は続いた。
外には出ない。
代わりに、借りている報告書から空白を探した。
意識して見ると、いくつもある。
日付が飛んでいるもの。
測定地点の一つだけ結果がないもの。
三回測っているのに二回分しか残っていないもの。
中には理由が書いてあるものもあった。
『器具不調につき中止』
これは分かる。
『現地到達不能』
これも分かる。
別の報告書には、
『魔物確認のため撤収』
とある。
俺は少し笑った。
「これは測ってる場合じゃないな」
先生も頷いた。
「撤退して正解でしょう」
結果はない。
でもこの一行のおかげで、なぜないのかは分かる。
しかも別のことまで分かる。
その日、その場所へ行こうとした。
でも魔物がいた。
だから調査できなかった。
魔素の記録ではなくても、その日の現地情報にはなる。
「一枚の紙って、一個のことだけ残してるわけじゃないんだ」
地脈調査の報告書から、天気も分かる。
道具の故障も分かる。
道が使えなかったことも分かる。
魔物がいたことも分かる。
調査した人が何を危険だと判断したかまで、少しだけ見える。
でも、それを全部最初から記録しようとしたら終わらない。
やっぱり目的は必要だ。
必要なものを決める。
そのうえで、予定外のことが起きたら消さずに残す。
それくらいがいいのかもしれない。
夕方。
雨は朝より弱くなっていた。
俺は窓を開けずに庭を見る。
水路は見えない。
でも、いつもより水の音が大きい。
今日は測れなかった。
欲しかった雨の日の反応は、一つも増えていない。
以前なら、何も進まなかった日だと思ったかもしれない。
今は机の上に一枚の紙がある。
『判定不能』
『中止』
『未実施』
きれいな結果はない。
でも嘘もない。
俺は帳面の最後に書いた。
『測れない時に、無理に測ったことにしない』
少し考えて、その下へもう一行。
『欠けた場所を埋めるより、なぜ欠けたかを残す』
筆を置く。
クロムが窓辺で外を見ている。
「雨、嫌い?」
返事はない。
黒い尻尾だけがゆっくり動く。
答えがない。
だからといって、俺が勝手に『嫌い』と書くことはできない。
今日やったことと同じだ。
分からないなら、分からないままにしておく。
いつか分かるかもしれない。
分からないまま終わるかもしれない。
それでもいい。
記録に必要なのは、全部の欄を埋めることじゃない。
その時、本当に分かったところまでを残すことだ。




