第五十二話 同じ言葉、違う意味
借りてきた報告書は、俺の机の半分を占領した。
残り半分には帳面と筆記具。それから、当然のようにクロムがいる。
「そこ、使いたいんだけど」
黒猫は動かない。
少し押してみる。
動かない。
もう少し押すと、尻尾だけが一度動いた。
「聞こえてるよね?」
返事はない。
いつものことだ。
仕方なく俺の方が帳面をずらした。
昨日、父上の執務室で古い報告書を読んだ。
調査した人も違う。使った道具も違う。目的も違う。だから、結果だけをそのまま比べてはいけない。
そこまでは分かった。
問題は、その先だった。
俺は三枚の報告書を横に並べる。
どれも領地内の魔素について調べたものだ。
一枚目。
『流動、弱』
二枚目。
『流動、微弱』
三枚目。
『流動は安定』
「……分からん」
思わず声が出た。
弱い。
微弱。
安定。
それぞれ何を意味している?
弱いと微弱は、たぶん強さの話だ。
でも安定は違う。
強さが変わらないという意味かもしれない。流れる方向が変わらないのかもしれない。測定具の反応が安定していたという意味かもしれない。
前後を読む。
『当地域における魔素流動は安定しており、施設建設上の問題なしと判断する』
やっぱり分からない。
何が安定しているのか書いていない。
書いた人には、それで十分だったんだろう。
俺は自分の帳面に『安定』と書き、その周りを丸で囲んだ。
その下へ候補を書く。
『強さ?』
『向き?』
『時間変化?』
『測定具の反応?』
四つになった。
もっとあるかもしれない。
「アルス様、何をなさっているんですか?」
マリーが飲み物を持って入ってきた。
「言葉を調べてる」
「言葉、ですか?」
「うん。マリー、これ持って」
昨日使った小さな魔素測定具を渡す。
「はい」
「庭でこれが光ったとする」
「はい」
「ちょっと光ったら?」
マリーは考えた。
「弱い、でしょうか」
「もっと光ったら?」
「強い、ですね」
「その間は?」
「普通?」
俺は筆を止めた。
「普通ってどれくらい?」
「普通は普通です」
「だから、その普通」
「普通くらいです」
駄目だ。
「じゃあ弱いのと普通の境目は?」
「弱くなくなった辺りです」
「強いのと普通は?」
「強くなった辺りです」
「何も分からない」
「私も何を聞かれているのか分かりません」
もっともだった。
マリーは悪くない。
普段の会話なら、それで困らない。
雨が弱い。
風が強い。
今日は暑い。
少し寒い。
そんな言葉を使うたびに、いちいち基準を決めたりしない。
それでも会話はできる。
だいたい伝わるからだ。
「マリー」
「はい」
「今日、暑い?」
「過ごしやすいと思いますけど」
「俺はちょっと暑い」
「先ほどから頭を使っているからでは?」
「じゃあ今日が暑いかどうか、どっち?」
マリーは少し考えた。
「アルス様には暑い日です」
なるほど。
俺は帳面に書いた。
『同じ場所でも、人によって言葉が変わる』
するとマリーが横から覗き込んだ。
「そんな当たり前のことを書くんですか?」
「当たり前だから書く」
当たり前のことほど、報告書から消える。
昨日それを知った。
俺は報告書へ戻った。
『流動、弱』
これを書いた人が感じた『弱い』。
『流動、微弱』
別の人が感じた『微弱』。
もし二人が同じ場所に立って、同じ測定具を見ても、同じ言葉を使うとは限らない。
さらに道具まで違う。
これを直接並べて、
昔より弱くなった。
そう結論づけたら危ない。
「先生に聞いてみよう」
昼から庭へ出た。
先生には、報告書の話を先にしておいた。
「なるほど。今日は魔法ではなく言葉ですか」
「言葉も測定の一部だと思う」
「面白い考え方ですね」
庭の基準杭のそばに測定具を置く。
何度も使っている場所だ。
俺、先生、マリーの三人で同じ反応を見る。
透明な石が淡く光っていた。
「先生、これ強い?」
「いいえ」
「弱い?」
「弱い方でしょう」
俺はマリーを見る。
「マリーは?」
「普通です」
やっぱり違った。
「俺も普通だと思う」
三人のうち二人が普通。
先生だけ弱い。
「先生が間違ってる?」
「そういうことになりますか?」
「ならない」
すぐ分かった。
正解を決めていないからだ。
俺たちは同じものを見て、それぞれ自分の基準で言葉をつけただけ。
先生にとって弱い。
俺とマリーにとって普通。
どれも、その人の感覚としては正しい。
でも記録を一つにまとめるなら困る。
「じゃあ、言葉を決めればいい」
俺は地面へしゃがみ込んだ。
帳面を開く。
『弱い』
『普通』
『強い』
三つ書く。
「これを全員で同じ意味にする」
「どうやって?」
先生に聞かれて止まった。
簡単だと思った。
言葉を決める。
それだけ。
でも『弱い』という文字を書いたところで、その意味は揃わない。
「見本を作る?」
測定具を指差す。
例えば、このくらいの光なら普通。
これより明らかに暗ければ弱い。
明るければ強い。
先生が測定具を持ち上げた。
「この発光石は、いつでも全く同じ明るさを出しますか?」
「……出さない」
もう知っている。
道具そのものにも揺れがある。
魔石の状態も変わる。
見る場所の明るさでも、光の見え方は違うかもしれない。
曇りの日と晴れの日。
朝と夕方。
室内と屋外。
見本にしたものまで動いたら、基準にならない。
「難しいな」
「数字で測れる道具なら簡単なんですけどね」
マリーが言った。
俺も一瞬そう思った。
十。
二十。
三十。
数字で区切れば、少なくとも言葉の境目は決めやすい。
でも今使っている道具には数字がない。
そもそも魔素を何という単位で表すのかも知らない。
無理に数字をつけても、俺が勝手に作った目盛りになるだけだ。
「数字がないなら、数字がないまま揃えるしかない」
「どうします?」
「比べるものを決める」
庭を見回す。
何かないか。
変わりにくくて、誰でも確認できるもの。
大きな木が目に入った。
でも駄目だ。
木の周りの魔素も変化する。
井戸も同じ。
俺たちは、それを調べていたのだから。
「魔素じゃないものを基準にしたら?」
先生を見る。
「例えば?」
「光り方」
「今の道具の?」
「うん。魔素そのものの強さじゃなくて、この道具がどう反応したかを書く」
少し考える。
測定具が何をどこまで捉えているかは分からない。
でも、それなら言える。
『魔素が強い』
ではない。
『この測定具の反応が大きい』
それなら少なくとも、記録している対象がはっきりする。
「でも大きいも曖昧か」
自分で気づいた。
先生が笑った。
「一つ進みましたね」
「進んだ?」
「何が分からないかが増えました」
それは進んだと言うんだろうか。
俺にとっては進んでいる。
帳面に線を引いた。
最初の『弱い・普通・強い』を消さずに残す。
その下へ新しく書く。
『言葉だけ決めても足りない』
『何についての言葉かを決める』
『言葉の境目も決める』
ここまで書いて、もう一つ思いついた。
「方向は?」
「方向?」
「流れ」
強い弱いより、方向なら揃えやすいんじゃないか。
北。
南。
東。
西。
これは俺と先生で意味が変わらない。
方角そのものを間違えなければいい。
俺は紙に十字を書いた。
上に北。
右に東。
下に南。
左に西。
その上へ矢印を一本引く。
「こっちは使える」
先生も頷いた。
「少なくとも『右へ流れる』よりは良いでしょうね」
あ。
また見つかった。
『右』。
見る人が反対側に立てば逆になる。
俺は以前の記録を思い出した。
『右へ少し流れる感じ』
書いた。
確かに書いた。
「昔の俺、駄目だ」
「数か月前ですよ」
「昔は昔」
帳面をめくる。
あった。
自分の字だ。
『少し右へ流れる』
どちらを向いていたのか書いていない。
つまり未来の俺が読んでも、どの方向か分からない。
「これ使えない」
少し残念だった。
でも消さない。
その時点では、それで十分だと思っていた。
その記録自体が、今の俺との違いになる。
横に小さく書き足す。
『観測者の向き不明。方角として再利用不可』
マリーが覗き込んだ。
「自分の記録に厳しいですね」
「分からないものを分かることにしたら、もっと困る」
「それはそうですね」
今度から流れは方角で残す。
ただし、細かい向きまで感じ取れない時は無理に決めない。
北東に見えるけれど東かもしれない。
そんな時は、その曖昧さも残す。
「じゃあ方向は少し揃えられる」
問題は強さだ。
先生が別の方法を提案した。
「比較するのであれば、同じ日に同じ道具で測った地点同士を比べるのはどうです?」
「庭の真ん中より木の近くの方が反応が大きかった、みたいに?」
「そうです」
それなら『強い』の絶対的な意味を決めなくてもいい。
AよりBの方が強かった。
少なくとも同じ道具、近い時間、同じ手順なら比較しやすい。
もちろん完全ではない。
測っている間にも環境は動く。
でも『強い』と一語だけ残すより、ずっと意味が分かる。
俺は新しい欄を作った。
『比較対象』
これも必要だ。
何かを強いと言うなら、何と比べて強いのか。
「古い報告書にもあるかな」
部屋へ戻りたくなった。
「まだ終わっていませんよ」
先生に止められた。
そうだった。
今日は庭でも測る予定だった。
俺たちはいつもの三地点を測った。
ただし今日は、結果そのものより言葉に注意する。
一地点目。
俺は『普通』と言った。
先生は『やや弱い』。
マリーは『普通』。
二地点目。
俺は『少し強い』。
先生は『普通』。
マリーは『強い』。
三地点目。
三人とも『弱い』。
そこで面白いことに気づいた。
「言葉は違うけど、順番は同じ?」
三人の記録を並べる。
一地点目より二地点目の方が反応が大きい。
三地点目が一番小さい。
そこは三人とも同じだった。
先生が紙を見て頷く。
「そのようですね」
「じゃあ、言葉が違っても全部駄目じゃない」
『普通』と『強い』の境目は違う。
でも三地点を並べた時の順番は一致している。
昔の報告書でも同じことができるかもしれない。
同じ調査者。
同じ日。
同じ道具。
同じ手順。
その中で『強・中・弱』と分けているなら、今の俺たちの強さと直接比較できなくても、その日の地点同士の関係は読める。
昨日読んだ古い紙を思い出した。
第一地点、強。
第二地点、中。
第三地点、中。
第四地点、強。
あれだ。
「使える」
思わず言った。
昨日より使える情報が増えた。
意味が分からないから捨てるのではない。
分かる範囲だけ使う。
分からない範囲には入らない。
それでいい。
俺は三人の紙を重ねた。
「明日から『強い・普通・弱い』をやめる?」
先生は首を横に振った。
「やめる必要がありますか?」
まただ。
俺は考える。
ない。
便利だからだ。
庭で毎回長い文章を書くより、弱い、普通、強いと書いた方が早い。
ただ、それが誰にとっての言葉なのか分かればいい。
「記録した人の名前を一緒に残す」
「それも一つの方法ですね」
「あと、同じ人の中で比べる時に使う」
「良いでしょう」
完全な共通語にはならなかった。
でも使い方は決められる。
それで十分かもしれない。
何でも一度で完成させる必要はない。
部屋へ戻ると、俺は昨日の報告書をもう一度広げた。
クロムはまだ机の上にいた。
位置までほとんど変わっていない。
「お前、安定してるな」
黒猫がこちらを見る。
そこで俺は止まった。
安定。
また使った。
何が?
位置?
姿勢?
行動?
ずっと寝ている時間?
「……便利すぎるな、この言葉」
クロムは答えない。
俺は笑いながら帳面を開いた。
今日の最後のページに書く。
『同じ言葉を使っていても、同じものを意味しているとは限らない』
その下に、
『違う言葉を使っていても、同じ違いを見ていることがある』
さらに少し考えてから、もう一行。
『言葉を揃える前に、何を伝えたいのかを揃える』
筆を置く。
昔の報告書には、分からない言葉がたくさん残っている。
でも昨日より少し読めるようになった。
昔の人の『強い』が、俺の『強い』と同じかどうかは分からない。
分からなくてもいい。
その人が何と何を比べて、どちらを強いと残したのか。
そこまでなら読めることがある。
記録は、書いてある言葉だけを読むものではないらしい。
誰が、何のために、何と比べて、その言葉を使ったのか。
その向こう側まで考えないと、本当の意味は見えてこない。
俺は次の報告書を手に取った。
そこには地図が添えられていた。
線。
丸。
三角。
塗りつぶされた場所。
見たことのない印もある。
文字の意味を考えた次に待っていたのは、文字ですらなかった。
「……今度は記号か」
机の上で、クロムの尻尾が一度だけ揺れた。




