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第五十一話 残された報告書

父上が約束していた報告書は、三日後に届いた。


正確には届いたというより、父上の執務室に用意されていた。


「持ち出してよいものだけ選んでおいた」


机の端に置かれていたのは、思っていたより少ない紙の束だった。もっと山のような記録が出てくると思っていた俺は、少しだけ拍子抜けする。


「これだけ?」


「六歳児に渡す量としては多いと思うが」


「全部じゃないよね?」


「当然だ」


父上――アルベルトが笑う。


領地の地脈に関する記録には、領地管理に関わる情報も含まれている。鉱山や水源、施設の位置など、何でも好きに持ち出していいわけではないらしい。


それは仕方がない。


俺が知りたいのは場所そのものより、どうやって調べたのかだ。


一番上の紙を取る。


少し古い。


文字の形も、今よく見るものとは微妙に違う。


『北東丘陵部 魔素流動調査』


その下に調査をした人の名前。


日付。


場所。


使用した測定具。


俺の手が止まった。


「道具が書いてある」


「書くだろうな」


父上には普通らしい。


俺には重要だった。


結果だけではない。


何を使って調べたのかが残っている。


次を見る。


調査人数。


天候。


調査した時間。


全部ではないけれど、俺が庭で作った記録用紙と似たものが並んでいる。


「同じことしてる」


「何がだ?」


「俺たち」


父上は俺の手元を覗き込んだ。


「庭の記録か」


「うん」


俺は急いで読み進める。


本文には、ある丘の周辺で比較的強い魔素反応が確認されたことが書かれていた。


一か所だけではない。


複数地点を測っている。


同じ地点も時間を変えて測っていた。


それから――。


「三回」


思わず声が出た。


一地点につき三回測っている。


俺たちと同じだ。


「父上、この人も三回測ってる」


「そうだな」


「なんで三回?」


「私に聞かれても、その調査をした本人ではないから分からん」


正しい。


報告書には理由まで書かれていなかった。


三回測ることが、その人たちの普通だったのかもしれない。


何か別の決まりがあったのかもしれない。


俺たちは、一回では偶然の変化を見分けにくいと思ったから三回にした。


同じ三回でも、理由まで同じとは限らない。


帳面を出す。


『同じやり方に見えても、理由が同じとは限らない』


最初の一枚を読み終え、次へ進む。


今度は川沿いの調査だった。


やっぱり日付と場所がある。


でも測定具の名前が違う。


回数も違った。


一地点につき一回しか測っていない。


「違う」


一枚目と並べる。


「こっちは一回だけ」


「目的が違うからではないか?」


父上が言う。


改めて表題を見る。


最初のものは『魔素流動調査』。


二枚目は『水路改修予定地事前調査』。


「地脈を調べたいわけじゃない?」


「水路工事をする前に、問題になるような魔素の偏りがないか確認したのだろう」


なるほど。


詳しい地脈図を作りたいわけではない。


工事をして大丈夫か知りたい。


だから必要なところだけ測る。


記録箱と同じだ。


道具には目的がある。


調査にも目的がある。


目的が違えば、測り方も変わる。


俺は二枚の報告書の上に指を置いた。


「じゃあ、結果だけ一緒にしたら駄目?」


父上が少し考えた。


「駄目とは限らん」


「限らない?」


「何に使うかによる」


またそれだ。


先生もよく言う。


何に使うか。


一枚目の調査と二枚目の調査は、やり方が違う。


だから細かな強さをそのまま比べるのは危ないかもしれない。


でも、どちらでも同じ場所に大きな異常が記録されていたなら、それ自体は使える情報になるかもしれない。


違う方法で測った記録は、使えないのではない。


使える範囲が違う。


俺は少し嬉しくなった。


第五十話で考えたことと同じだった。


昔の記録を全部捨てなくてもいい。


「次」


三枚目を取る。


今度はかなり古い。


紙も少し傷んでいる。


調査した人の名前はある。


場所もある。


でも道具が書かれていない。


天気もない。


時間もない。


結果だけは細かい。


『第一地点、強』

『第二地点、中』

『第三地点、中』

『第四地点、強』


俺は止まった。


「強って、どれくらい?」


「分からんな」


「中は?」


「それも分からん」


「書いた人は分かってた?」


「おそらくな」


困る。


ものすごく困る。


書いた本人には分かる。


同じ時代に同じ仕事をしていた人にも分かったのかもしれない。


でも今の俺には分からない。


「これ、使えない?」


「さてな」


父上は答えをくれない。


自分で考えろという顔をしている。


俺は報告書を見る。


場所は分かる。


日付もある。


少なくとも、その日に、その人が第一地点と第四地点を『強』と判断したことは分かる。


「同じ紙の中なら比べられる?」


「なぜそう思う?」


「この人が全部測ってるなら、この人の『強』はたぶん同じ意味だから」


「道具が同じだったかは?」


「書いてない」


「途中で交代していたら?」


「分からない」


また減った。


でもゼロにはならない。


この報告書だけで、今の測定結果と細かく比較するのは難しい。


それでも、当時この地域に魔素の偏りがあると判断された記録としては残る。


俺は余白には書かず、自分の帳面に記した。


『昔の「強い」と今の「強い」は同じとは限らない』


そしてもう一つ。


『言葉の意味も残さないと、後の人には分からない』


そこで気づいた。


俺の記録用紙にもある。


『風――なし、弱い、強い』


庭師に指摘されて一度直した。


それでも『弱い』と『強い』の境目は完全には揃っていない。


記録者の感覚だと書いてあるから、まだ違いがあることは分かる。


でも百年後。


その紙だけを見つけた人は、俺たちがどんな風を『強い』と呼んでいたか分かるだろうか。


「残すの難しいな」


父上が笑った。


「今頃気づいたのか?」


「結果を書けばいいと思ってた」


最初はそうだった。


感じた。


測った。


書いた。


それだけ。


次に条件が必要になった。


手順が必要になった。


道具の種類が必要になった。


場所を示す方法が必要になった。


測定中の異常まで必要になった。


そして今度は、使った言葉の意味まで必要になった。


全部書いていたら終わらない。


「昔の人、全部残せばよかったのに」


「お前は今日の朝食について、百年後の人間が完全に再現できるほど詳しく記録しているか?」


「してない」


「なぜだ?」


「必要ないから」


言ってから分かった。


昔の人にとっても同じだ。


必要だと思わなかった。


当時は誰でも知っていた。


わざわざ書くほどではなかった。


だから消えた。


「残す時には、後で何が必要になるか分からない」


「そういうこともあるだろうな」


困った。


でも面白い。


未来の人が何を知りたがるのかなんて、今の俺には分からない。


なら全部残す。


それは無理だ。


世界全部を測れないのと同じだ。


残すものも選ばなければならない。


俺は報告書をさらにめくった。


四枚目。


五枚目。


六枚目。


調査した時代が違う。


人も違う。


道具も違う。


目的も違う。


書き方まで違う。


ある報告書には天気が細かく書かれている。


別のものには一言もない。


測定具の型まで残している人もいれば、『測定具使用』だけで終わっている人もいる。


測定地点を地図に細かく記したものもあれば、『村の北側』だけのものもあった。


「性格出るな」


以前、屋敷の人たちに記録を頼んだ時と同じだ。


庭師は気づいたことをたくさん書いた。


衛兵は短かった。


使用人は測定具の光り方を細かく残した。


昔の人も変わらない。


同じ調査記録なのに、残したいものが違う。


「この人、すごい」


一枚の報告書で手が止まった。


結果より先に、使った測定具の状態が書かれている。


『使用器具は調査開始前に基準器との照合を実施。第三日午後、反応石の発光に不安定あり。以後の記録は参考値として別記する』


「壊れた?」


「調子が悪くなったのだろう」


「結果を消してない」


その日の記録も残っている。


ただし別になっている。


道具がおかしかった可能性がある、と分かるように。


俺たちが測定具を傾けた記録を消さなかったのと同じだ。


百年以上前かもしれない人が、同じようなことをしている。


会ったこともない。


名前しか知らない。


それでも、紙を読むと少しだけ考え方が見える。


「この人に聞きたい」


「無理だろうな」


「分かってる」


何を基準器にしたのか。


なぜ三日目から別記にしたのか。


どの時点で器具がおかしいと判断したのか。


聞きたいことは増える。


でも本人はいない。


残されたものから考えるしかない。


そこで、紙の意味が少し変わった。


記録は結果を残すものだと思っていた。


違う。


考えた人がいなくなった後も、その人が何を見て、どう判断したのかを少しだけ残せる。


完全には残らない。


だからこそ、何を残すかが大事になる。


「父上」


「何だ?」


「この報告書を作った人たち、俺が読むと思ってた?」


「お前が生まれる前のものもあるぞ」


「じゃあ思ってない」


「当然だろう」


それでも俺は読める。


俺のために書かれたものではない。


未来の誰かのためですらなかったかもしれない。


その時の仕事を終わらせるために作った記録が、後から別の人に使われている。


それは少し不思議だった。


俺が庭で作った記録も、同じことになるだろうか。


俺がいなくなった後。


知らない誰かが箱を開ける。


六歳の子供が書いた紙を見つける。


『風――弱い』


何だこれ、と思うかもしれない。


少し笑った。


「どうした?」


「俺の紙、百年後に読まれたら分かりにくいかも」


「百年残すつもりなのか?」


「残ってたら面白い」


父上は呆れたように笑った。


俺は報告書をまとめ直す。


今日は地脈のことを知るつもりだった。


どこを流れているのか。


昔と今で変わったのか。


水や地形とどう関係するのか。


それを調べるために来た。


なのに、ほとんど地脈を見ていない。


見ていたのは紙だった。


誰が測った。


何を使った。


何回測った。


何を書いた。


何を書かなかった。


そして、何が今では分からなくなっているのか。


でも無駄ではない。


むしろ先にこっちを知ってよかった。


報告書に『強い』と書いてあるから、本当に今より強かった。


そんな読み方をしなくて済む。


俺は帳面の新しいページを開いた。


『古い記録を読む時』


その下へ書く。


『何を調べるための記録か』

『誰が調べたか』

『いつ調べたか』

『どこを調べたか』

『何を使ったか』

『どう測ったか』

『言葉の意味は同じか』

『書かれていないものは何か』


八つ。


また増えた。


「アルス様」


後ろからマリーの声がした。


振り返ると、いつの間にか執務室の入口に立っている。


「お昼です」


「もう?」


「もう、です」


最近この会話が多い。


「あと一枚」


「その一枚が何枚続きます?」


答えない。


父上が笑った。


仕方なく帳面を閉じる。


報告書は借りていいことになった。ただし父上が選んだものだけで、書き込みは禁止。


部屋へ戻ったら、一枚ずつ自分の記録と比べてみるつもりだ。


執務室を出る前に、もう一度大きな領地図を見た。


そこには地脈が線で描かれている。


以前は、その線の先を知りたかった。


今は、その線の下に何枚の紙があるのかが気になる。


何人が歩いたのか。


何回測ったのか。


どんな道具を使ったのか。


どれだけの結果が一致しなかったのか。


そして最後に、誰がその点を線にしたのか。


地図には見えない。


でも、線だけが突然生まれたわけではない。


その下には、誰かが残した記録がある。


俺は借りた報告書の束を抱え直した。


自分がまだ知らない昔の観測者たちが、急に少し近くなった気がした。

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