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第五十話 地図になる前

記録が十枚を超えた頃、俺は一度、観測を増やすのをやめた。


測るのをやめたわけではない。


新しい場所を増やすのをやめた。


庭。門の外。水路。屋敷の裏手。


今ある場所だけを、何日か続けて測る。


俺一人ではない。


マリーが測る日もある。庭師が測る日もある。衛兵が測ることもある。


同じ紙。


同じ手順。


同じ測定具。


それでも結果は毎日少しずつ違った。


「二十七枚」


机の上に並べた紙を数える。


最初の頃に自分で書いた記録は別にしてある。


今並べているのは、新しい手順を決めてから集めたものだけだ。


「ずいぶん増えましたね」


先生が向かいに座る。


「でも場所は四つ」


「以前のアルス様でしたら、もう十か所くらい増やしていたのでは?」


たぶん増やしていた。


川へ行く。


林へ行く。


もっと遠くへ行く。


領地図に点を増やす。


そっちの方が楽しい。


でも今は、同じ場所を繰り返す方が先だと分かる。


「並べたい」


場所ごとに紙を分ける。


門の外。


七枚。


水路。


六枚。


屋敷の裏。


六枚。


庭。


八枚。


日付順に並べ直す。


同じ場所でも結果は揃わない。


でも、ばらばらというほどでもない。


「ここ」


水路の記録を指す。


六枚のうち四枚は似ている。


一枚は少し違う。


もう一枚はかなり違う。


かなり違う方には、理由になりそうなことが書かれていた。


『測定前から小雨。二回目の途中で雨が強くなる』


「雨?」


「可能性はありますね」


「でも一枚だけじゃ分からない」


雨の日を増やせばいい。


そう思って、すぐに気づく。


雨は俺が決められない。


「雨待ちか」


「天気までアルス様の都合には合わせてくれませんからね」


面倒だ。


でも仕方ない。


紙の端に、


『雨の日の記録を増やす』


と書く。


次は門の外。


ここは日による違いが水路より大きい。


人も馬車もよく通る。


そのせいかもしれない。


道そのものの特徴かもしれない。


別の何かかもしれない。


「人が少ない時間にも測りたい」


また書く。


屋敷の裏手は比較的似ている。


庭は場所によって違う。


以前から見ていた木や井戸の近くは、やっぱり似た傾向が残りやすい。


新しい手順で測っても、その特徴は消えなかった。


少し嬉しい。


昔の測り方が全部駄目だったわけではない。


「先生」


「はい」


「前の記録も使える?」


「何に使うかによるでしょうね」


やっぱりその答えになる。


新しい記録と同じように細かく比べるには、前の記録は条件が足りない。


でも、何日も続けて木の近くで似た特徴が出ていたことまで無かったことにはならない。


俺は古い紙の束へ、


『旧方式』


と書いた札を置いた。


新しい方には、


『共通手順』


と書く。


混ぜなければいい。


違う方法で測ったものだと分かるようにしておく。


「昔の記録って、こういうことか」


父上に見せてもらった領地図を思い出す。


旧記録との不一致。


あの文字を見た時は、昔と今で地脈が変わったのかと思った。


でも、それだけではない。


測り方が変わった可能性もある。


道具が違ったかもしれない。


記録する項目も違ったかもしれない。


「昔の人に聞けないの困るな」


「記録が残っていれば、ある程度は分かりますよ」


「残ってなかったら?」


「分からないこともあります」


それはどうしようもない。


だから今、残す。


結果だけではなく、どう測ったかも。


使った道具。


場所。


時間。


天気。


途中で起きたこと。


全部を残す必要はないけれど、後から結果の意味が変わりそうなものは残したい。


「手順も記録なんだ」


今まで、記録は結果を書くものだと思っていた。


でも百年後にこの紙だけ見つかっても、測り方が分からなければ使いにくい。


俺は共通手順の紙を一枚取り、二十七枚の記録と一緒に束ねた。


「これも一緒」


先生が頷いた。


「その方が良いでしょうね」


その日の午後。


俺はもう一度、父上の執務室へ行った。


今度は地脈図を見せてもらうためではない。


自分の紙を見せるためだ。


「これを見て」


机の上へ、小さな地図と記録用紙、それから測定手順を置く。


父上――アルベルトは最初の一枚を手に取った。


「これは以前言っていた庭の調査か?」


「庭の外も少しある」


「ずいぶん増えたな」


父上は記録を何枚かめくる。


最初は普通に見ていた。


途中から、少し読む速度が遅くなった。


「これを全部、お前が測ったのか?」


「違う」


「違う?」


「マリーと庭師と衛兵もいる」


父上が俺を見る。


「同じ測り方にした」


手順書を渡す。


父上はそれも読む。


「なるほど」


それだけ言って、もう一度記録へ戻った。


反応が薄い。


俺は少し待った。


「どう?」


「何がだ?」


「使える?」


父上が笑った。


「何に使うつもりなのかを聞かずに、使えるかどうかは答えられんだろう」


先生と同じことを言った。


大人はずるい。


でも正しい。


「場所ごとの魔素の違いを、長く見たい」


「長く?」


「毎日じゃなくてもいい。季節が変わった時とか、雨の日とか。何年か後も同じなのか見たい」


口にしてから、自分でも少し驚いた。


何年。


今までの実験は、数分。


長くても数日。


庭を測り始めてから、初めて時間の長さが変わっている。


今日と明日を比べるだけではない。


季節。


一年。


もっと先。


「お前が毎日測るのか?」


「ずっとは無理」


即答した。


他にも知りたいことがある。


魔法も続けたい。


魔道具も見たい。


川も林も行きたい。


町も見たい。


いつか領地の外にも行きたい。


庭だけを何年も測り続ける自分は想像できない。


「だから紙を作った」


父上の手元にある手順書を指す。


「俺じゃなくても測れるようにした」


父上が黙った。


「誰かが続けてくれれば、俺がいない日も残る」


「使用人に毎日測定させるつもりか?」


「毎日じゃなくていい」


そこまでは考えていない。


人には仕事がある。


俺の疑問のためだけに、ずっと時間を使ってもらうわけにはいかない。


「じゃあ、どうする?」


父上に聞かれて考える。


一週間に一度。


雨の日。


季節が変わった時。


何か大きな変化があった時。


それくらいなら続けられるかもしれない。


「少なくてもいい」


「それで分かるのか?」


「分からない」


父上が眉を上げた。


「でもゼロよりは分かる」


十年後。


今日と同じ場所を測る。


その時、一枚も昔の記録がなければ比べられない。


月に一枚でも残っていれば、百枚以上になる。


全部同じ人が測る必要もない。


同じ人が生きている必要さえない。


手順が残れば続けられる。


「人が変わっても、紙は残るから」


父上はしばらく何も言わなかった。


それから俺の小さな地図を広げた。


番号が四つある。


まだ屋敷の周囲だけ。


「領地図を見て、これを始めたのか?」


「庭から」


「そうだったな」


父上が笑った。


「庭からここまで来たのだった」


まだ、ここまでと言うほど広くない。


むしろ範囲だけなら、庭から少し外へ出ただけだ。


でも調べ方はかなり変わった。


最初は自分で感じたものを紙へ書いていた。


次に道具を使った。


人と道具で違うことに気づいた。


人がいるだけで変わるかもしれないと考えた。


記録する道具を調べた。


地図を見た。


外へ出た。


一人では足りないと分かった。


手順を作った。


人に渡した。


直した。


また渡した。


そして今、俺が見ていない場所の記録が机にある。


父上が立ち上がり、棚へ向かった。


以前と同じ場所から領地図を取り出す。


大きな紙が机に広がった。


俺の地図を、その端に置く。


比べると笑えるくらい小さい。


「この地図にも元になる記録があると言ったな」


「うん」


「見たいか?」


「見たい」


即答する。


父上はまた笑った。


「すべてここにあるわけではない。古いものは別に保管されているし、専門家や施設が持っている記録もある。ただ、領内で近年調べ直された場所なら報告書が残っている」


「測り方も?」


「記載されているものもある」


それだ。


「見たい」


「今度、読めるものを選んでおこう」


今度。


以前ならすぐ見たいと言ったかもしれない。


今日は待てる。


先に自分の記録を整理したい。


「父上」


「何だ?」


「この線、誰が引くの?」


領地図の地脈を指す。


「調査結果をまとめる者だ」


「測った人とは違う?」


「違うことも多い」


また一つ役割が増えた。


測る人。


記録する人。


集める人。


地図にする人。


同じ人である必要はない。


「じゃあ、線を引く人が間違えることもある?」


「あるだろう」


「後で直す?」


「必要ならな」


領地図を見る。


紙に描かれた線が、少し違って見えた。


世界に最初から線が引かれているわけではない。


誰かが点を集める。


その人が、ここには流れがあると判断する。


そして線を引く。


新しい記録が増えれば、線が動くこともある。


消えることもある。


増えることもある。


「俺のは、まだ線いらない」


「そうなのか?」


「点が少ないから」


父上は俺の地図を見る。


「慎重だな」


慎重なのかは分からない。


ただ、一度線を引くと、その線が本当にあるように見えてしまう。


俺自身がそうだった。


最初に庭の点をつないだ時、流れを見つけた気がした。


でも今なら分かる。


あれは仮の線だ。


紙の上で、俺がつないだだけ。


本当に世界の中でつながっているかは、別の話だ。


部屋へ戻ると、二十七枚の記録を箱へ入れた。


古い記録は別の束。


共通手順も一緒にする。


小さな地図は一番上。


まだ四つしか番号がない。


俺は新しい帳面を開いた。


最初のページに大きく書く。


『観測記録』


その下へ、今までに分かったことを短くまとめた。


『同じ場所でも変わる』

『見る人で違う』

『見る人が場所を変える可能性もある』

『道具によって見えるものが違う』

『道具には目的がある』

『地図は世界そのものではない』

『一人で全部は測れない』

『同じ手順は人に渡せる』

『違う人だから見えるものもある』

『変な結果を消さない』

『分からないものは分からないまま残す』


十一個。


最初の頃なら、もっときれいな答えが欲しかったと思う。


地脈はこう流れる。


木の周りではこうなる。


水は魔素をこう動かす。


そんな答え。


今の帳面には、ほとんど答えがない。


代わりに、どう見れば間違えにくいかが増えている。


「全然、魔素のこと分かってないな」


クロムが横で丸くなっている。


「でも前より分かってないことが分かる」


変な言い方だ。


でも、それでいい気がした。


俺は最後に一行だけ追加した。


『点を集めても、すぐに答えにしない』


そして帳面を閉じる。


窓の外には庭がある。


杭が見える。


あそこから始まった。


小さな場所を何度も測っただけなのに、調べるほど世界は簡単ではなくなった。


それでも嫌にはならない。


むしろ逆だ。


簡単な答えがなくなるたび、次に見るものが増える。


明日は魔法の練習をする。


その次は本を読むかもしれない。


雨が降れば水路を測りたい。


父上が報告書を用意してくれたら、昔の人の測り方も見たい。


川の先もまだ知らない。


林の中もほとんど測っていない。


領地図には空白がある。


その外には、もっと大きな地図がある。


全部を俺が調べる必要はない。


たぶん、全部を俺が理解する必要もない。


俺が途中まで見たものを残せば、誰かが続きを見られる。


誰かが残したものがあれば、俺もその先から始められる。


そうやって点が増えていく。


いつか誰かが、その点の間に線を見つけるかもしれない。


その線が間違っていたら、また誰かが直せばいい。


俺は箱の中の記録を一度だけ見て、蓋を閉じた。


地図になるのは、まだ先でいい。

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