第四十九話 集まった点
庭師から最初の記録を受け取ってから、紙は少しずつ増えていった。
俺が頼んだのは、特別なことではない。
決めた場所へ行く。同じ測定具を使う。紙に書かれた手順で三回測る。結果を決められた欄へ残す。
最初は庭師。
次は屋敷の門を守る衛兵。
その次は、厨房で働く使用人にも一度だけ頼んだ。
全員、魔素の研究をしている人ではない。
だからいい。
「増えましたね」
先生が机の上を見る。
同じ形の紙が七枚並んでいた。
俺が書いたものは一枚もない。
「これ、全部俺が見てない」
それが少し不思議だった。
庭の観測を始めた頃、紙にある点は全部、自分で立って、自分で感じて、自分で測った場所だった。
今は違う。
俺が行っていない時間。
俺が見ていない場所。
そこにあったものが、紙になって机の上へ届いている。
「まず並べる」
場所ごとに分ける。
門の外の道。
水路の近く。
屋敷の裏手。
庭の端。
まだ範囲は狭い。
領地図なら、全部まとめてもほとんど一つの点だ。
それでも一人で測っていた時より、同じ時間帯の記録が増えた。
「これとこれ」
門の外を庭師が測った記録。
ほぼ同じ時刻に、衛兵が水路を測った記録。
以前なら俺が門の外を測り、それから水路へ移動していた。
その間に時間が変わる。
今は違う。
二人いれば、ほぼ同じ時間に二か所を見られる。
「これなら広げられる」
先生が頷く。
「測る人が増えれば、ですが」
「うん」
でも人を増やせばいい、では終わらないことも分かっている。
俺は記録を一枚ずつ確認する。
庭師の紙。
衛兵の紙。
使用人の紙。
同じ記録用紙なのに、少しずつ違う。
庭師は『気づいたこと』の欄をたくさん書く。
衛兵は短い。
使用人は測定具の光り方を細かく書いていた。
「性格出るな」
先生が笑った。
「人が書いているのですから」
決めた部分は揃っている。
自由にした部分は揃わない。
狙った通りとも言える。
でも、一つ気になる紙があった。
「これ」
衛兵が水路の近くで測った記録だ。
三回の結果が、他の人よりかなりばらついている。
一回目は弱い。
二回目は強い。
三回目はまた弱い。
その日の同じ場所を測った別の記録とも違う。
『気づいたこと』には何も書かれていない。
「失敗?」
口にして、すぐに止めた。
まだ分からない。
本当にその時だけ魔素が大きく変わったのかもしれない。
測り方を間違えたのかもしれない。
道具に何かあったのかもしれない。
「聞いてみたい」
衛兵を呼んでもらった。
しばらくして、門の警備を交代した男がやってくる。
「この時、何かあった?」
俺が紙を見せると、衛兵はしばらく考えた。
「何か、と申しますと?」
「二回目だけ反応が強い」
「ああ」
思い出したらしい。
「その時でしたら、測定具が少し傾きました」
「なんで書かなかったの?」
「すぐ置き直しましたので、問題ないかと」
なるほど。
衛兵にとっては問題ではなかった。
俺にとっては重要だった。
「二回目は置き直した後?」
「はい」
「どれくらい傾いた?」
「少しです」
「触った?」
「もちろんです。位置を戻しました」
それだ。
測定具の位置を直すために近づいた。
触った。
向きも少し変わったかもしれない。
でも、だから二回目だけ強くなったとはまだ言えない。
俺は紙に書き足す。
『二回目の前、測定具が傾く。記録者が接触して置き直した』
これで、この結果の見え方が変わる。
「失敗じゃないな」
衛兵が首を傾げた。
「よろしいのですか?」
「うん。消さない」
むしろ残っていた方がいい。
同じようなことがまた起きた時、比べられる。
「でも次から書いて」
「傾いたことをですか?」
「測ってる途中で、いつもと違うことが起きたら全部」
言ってから考える。
全部では多すぎる。
鳥が鳴いた。
雲が動いた。
遠くで誰かがくしゃみをした。
そんなものまで書かれても困る。
「……測り方に関係ありそうなこと」
これも曖昧だ。
何が関係するか分からないから調べている。
衛兵も困った顔をしている。
「道具に触った。動かした。倒れた。途中で人が近くに来た。雨が降った……その辺」
「承知しました」
とりあえず、それでいい。
必要になれば増やす。
衛兵が戻ったあと、俺は記録用紙を直した。
『測定中の異常』
新しい欄を作る。
その下に小さく例を書く。
『道具を動かした・触った・倒れた・人や大きな動物が近づいた・天候が変わった』
「また増えた」
「これで何度目ですか?」
「分からない」
最初の九行がどうなっていたか、もう思い出せない。
でも、それでいい。
使ったから変わった。
人に渡したから足りないものが見つかった。
「最初からこれ作れたかな」
先生に聞く。
「今のものを、ですか?」
「うん」
先生は紙を見てから首を振った。
「難しかったでしょうね」
俺もそう思う。
庭だけで使っていたら、場所の説明が足りないことには気づかなかった。
マリーに渡さなければ、知っている人にしか分からない手順だとも気づかなかった。
庭師に渡さなければ、木のない場所では風の基準が使えないことも分からなかった。
衛兵が測定具を傾けなければ、途中の異常を残す欄も作らなかった。
「失敗したから増えたんだ」
「そういう見方もできますね」
完成させてから使うのではない。
使って、困ったところを直す。
また使う。
また直す。
魔法の実験と同じだった。
最初から正しい形を知る必要はない。
俺は七枚の記録をもう一度並べる。
一枚だけでは、ただの結果だ。
七枚あれば比較できる。
場所が違う。
人が違う。
時間が少し違う。
条件も完全には同じではない。
それでも、同じ形で残っている部分がある。
「地図に入れよう」
大きな紙を広げた。
屋敷。
門。
道。
水路。
庭。
それぞれの測定場所へ、小さな番号を書く。
一。
二。
三。
紙の記録にも同じ番号をつける。
これなら地図に全部を書き込まなくても、番号から元の記録を探せる。
「便利ですね」
マリーが覗き込む。
「線は?」
「まだ引かない」
以前なら、点が増えたらすぐにつなぎたくなった。
今は待てる。
七枚では少ない。
同じ場所でも日によって変わる。
人による違いもある。
線を引けば、それらしい形は作れる。
でも、それが世界にある線なのか、俺が紙の上に作った線なのかは分からない。
「まず点だけ」
地図には番号だけが増えていく。
その横に日付も書かない。
詳しいことは記録用紙を見る。
地図は場所を見るためのもの。
記録用紙は、その場所で何があったかを見るためのもの。
一枚に全部入れない。
これも、やっているうちに分かってきた。
「父上の地図もこうなのかな」
領地図には、すべての調査記録が書かれていたわけではない。
必要なものだけが線や印になっていた。
その元には、もっとたくさんの記録があるのかもしれない。
今度見せてもらった時に聞いてみよう。
「アルス様」
マリーが地図の一点を指した。
「こちらは?」
屋敷の裏側。
まだ番号がない。
「誰も測ってない」
「でしたら、私が明日行きましょうか?」
俺はマリーを見る。
「いいの?」
「門の外へ行くより近いですから」
理由はそれらしい。
でも、少し嬉しかった。
俺が頼んでいない場所を、マリーの方から測ると言った。
「じゃあお願い」
「承知しました」
「同じ時間に、俺は庭を測る」
二か所。
同時に二つの点が増える。
先生にも頼めば三つ。
庭師が空いていれば四つ。
でも、そこで止めた。
急に増やしすぎると、また問題が出た時に何が原因か分からなくなる。
まず二つでいい。
「少しずつだな」
最初は世界を見たかった。
庭から始めて、領地図を見て、もっと広く測れないかと考えた。
でも実際にやっているのは、紙を直したり、杭の場所を決めたり、誰かが測定具を傾けた理由を聞いたりすることばかりだ。
地味だ。
それでも、机の上には俺が見ていない七つの記録がある。
これは前にはなかった。
俺は帳面を開いた。
『変な結果を消さない』
その下に書く。
『なぜ変だったか分かれば、その記録も使える』
さらに、
『地図と記録を分ける』
と続けた。
最後に少し考えてから、もう一行。
『点が増えても、急いで線にしない』
クロムが机へ飛び乗った。
地図の上を歩こうとする。
「待って」
抱き上げる。
黒い前足が、まだ何も書かれていない場所に一度だけ触れた。
そこにも、いつか点が置かれるのだろう。
俺が置くかもしれない。
マリーかもしれない。
知らない誰かかもしれない。
それでも、同じ方法で残せるなら比べられる。
地図を見る。
まだ屋敷の周りだけだ。
空白の方が圧倒的に多い。
でも今は、その空白が嫌ではなかった。
何もない場所ではない。
まだ誰も、この紙に点を置いていない場所だ。
だったら、これから増やせばいい。
一つずつ。
誰かが見たものを、次の誰かが使える形で残しながら。




