第四十八話 知らない人の点
次に必要なのは、この紙を知らない人だった。
俺も先生もマリーも、もう測り方を知っている。紙に少しくらい説明が足りなくても、今までやったことを思い出して補えてしまう。
それでは、本当に紙だけで伝わるのか分からない。
「誰に頼む?」
朝食のあと、俺は二枚の紙を並べて考えた。
一枚は測り方。もう一枚は記録用。
先生が言った。
「魔法に詳しくない方がよいのでしょう?」
「うん。これを見たことない人」
「でしたら、屋敷で働いている者に頼むのが簡単ですね」
それならたくさんいる。
でも、誰でもいいわけではない。俺と普段からよく話す人なら、俺が何を調べているか知っているかもしれない。
マリーが少し考えた。
「庭師の方はいかがですか?」
「庭師?」
「アルス様が毎日庭で何かをしていることはご存じでしょうけれど、測定には参加していません」
ちょうどいい。
それに庭師なら、場所を見ることには慣れている。
さっそく頼んでもらった。
しばらくして庭へ来たのは、日に焼けた中年の男だった。俺とは何度か顔を合わせているけれど、話したことはほとんどない。
俺が庭に杭を打ち始めた頃から、たぶん迷惑をかけている。
「坊ちゃん、私に何か?」
「これをやってほしい」
二枚の紙と測定具を渡す。
「説明は?」
「紙だけ」
庭師が俺を見る。
「質問もなしで?」
「分からなかったら、分からないって書いて」
庭師は不思議そうな顔をしたが、紙を読み始めた。
俺たちは離れる。
今回は庭ではない。
昨日マリーに測ってもらった門の外の場所へ行ってもらう。地図には位置を書き、目印も追加してある。
俺はついていかない。
先生もマリーも行かない。
護衛だけ同行する。
「では、行ってまいります」
庭師が出ていった。
昨日よりは落ち着いて待てた。
一度マリーで試して、紙も直してある。今度はかなり分かりやすくしたつもりだ。
それでも、何か抜けている気はする。
「何個出ると思う?」
「何がです?」
「分からないところ」
先生は笑った。
「それを予想してしまうと、また先に答えを作ってしまいませんか?」
それもそうだ。
待つ。
俺は庭の観測を一回だけやり、その結果を書いた。
それでも庭師は戻ってこない。
昨日のマリーより遅い。
「やっぱり何かあったかな」
「紙を読みながら初めて行うのですから、時間はかかるでしょう」
やがて門の方から姿が見えた。
庭師は測定具を持っている。
もう片方の手には紙。
戻ってくるなり、俺は聞いた。
「できた?」
「一応は」
一応。
その言葉が気になる。
紙を受け取る。
場所。
日付。
時間。
天気。
風。
三回分の結果。
全部埋まっている。
「できてる」
「ええ。ただ、これで合っているかは分かりません」
「どこ?」
庭師が記録用紙を指した。
「まず風です」
また風か。
昨日、見えるもので三段階に分けた。
葉がほとんど動かない。
葉や細い枝が動く。
太い枝まで大きく動く。
今日は二番目に印がついている。
「弱い、で合ってるよ」
「ですが、測った場所には木がありません」
止まった。
確かに。
門の外の道には草はあるが、すぐ近くに木はない。
「少し離れた木を見ました。それで『弱い』にしましたが、それでよろしかったので?」
考えていなかった。
庭で作った基準を、そのまま外へ持っていった。
庭には木がある。
世界中の測定場所に木があるわけではない。
「駄目だ」
「間違えましたか?」
「庭師さんじゃなくて、紙が」
また一つ見つかった。
庭師はさらに続ける。
「それと、ここです」
『周囲で起きたこと』
その欄には、
『馬車二台。人五人。犬一頭』
と書いてあった。
細かい。
「全部数えたの?」
「周囲で起きたことを書け、とありましたので」
マリーは荷車一台とだけ書いた。
庭師は通ったものを全部記録した。
どちらも間違ってはいない。
紙に、どこまで書くのか決めていなかった。
「犬も?」
「生き物も魔素に影響するかもしれないのでしょう?」
俺は庭師を見る。
「知ってた?」
「坊ちゃんが庭で猫を連れて何か試していたのを見ましたから」
知らない人だと思っていた。
でも完全に何も知らない人ではなかった。
同じ屋敷で暮らしている。
庭で毎日実験していれば、見ている人もいる。
「知らない人って難しいな」
先生が頷く。
「まったく何の知識もない人を探す方が難しいかもしれませんね」
確かに。
人は何かを知っている。
仕事も違う。
経験も違う。
見てきたものも違う。
紙だけを読む前に、すでに頭の中にいろいろ入っている。
でも、それは悪いことなのだろうか。
俺は庭師の記録をもう一度見る。
馬車二台。
人五人。
犬一頭。
俺なら、ここまで書かなかったかもしれない。
「なんで人数まで書いたの?」
「人がいることで測定結果が変わるかもしれないのなら、一人と五人では違うかと思いまして」
なるほど。
俺が教えていないことを考えている。
いや、正確には紙に書いていない。
庭師が自分で考えた。
「先生」
「はい」
「同じやり方にしたいけど、考えないようにするのは違うよね」
先生は少し考えた。
「そうですね。何も考えず記録することが目的ではありませんから」
そうだ。
俺が欲しいのは、俺の代わりに同じ動きをする人ではない。
同じように比べられる記録だ。
その途中で何かに気づいたなら、それは残した方がいい。
でも、みんなが好きなように書けば、今度は比べにくくなる。
「決めるところと、自由なところを分ける?」
口にすると、先生が頷いた。
「良い考えだと思いますよ」
測定の場所。
道具の向き。
待つ時間。
回数。
これは揃える。
天気や風も、できるだけ同じ基準で選べるようにする。
その上で、気づいたことを書く場所は自由に残す。
俺は記録用紙を直し始めた。
『周囲で起きたこと』
だった欄を、
『決められた項目』
と、
『気づいたこと』
に分ける。
人が通った数。
大きな動物。
馬車。
雨が降り始めた。
測定具が倒れた。
そういう比較に使いそうなものは、できるだけ選ぶだけで書けるようにする。
それ以外は自由欄。
「でも全部項目にしたら、また増える」
「増えるでしょうね」
先生が言う。
「じゃあ、必要になったら増やす」
今は人と大きな動物くらいでいい。
虫まで数え始めたら、測定どころではなくなる。
庭師が紙を覗き込んだ。
「風はどうされます?」
そうだった。
木がない場所でも使える基準が必要だ。
草。
服。
髪。
砂や埃。
いろいろ考えたが、どれも場所によって無いことがある。
「感じた強さじゃ駄目?」
俺が言うと、先生が答える。
「人による違いは出るでしょうね」
「でも、何もない場所でも使える」
完全に同じにはできない。
それなら、無理に同じに見せない方がいいかもしれない。
「風は感じた強さで、なし、弱い、強い。その代わり人で違うかもしれないって残す」
「それも一つの方法でしょう」
全部を完璧に揃える必要はない。
揃えられないものがあるなら、揃っていないと分かるようにしておけばいい。
俺は風の項目の横へ小さく書いた。
『記録者の感覚』
これで、この欄だけは他の項目より人による違いが出やすいと後から分かる。
「もう一つあります」
庭師が言った。
まだある。
「場所の目印ですが、『大きな石の近く』とあります」
「うん」
「あの道には大きな石が二つあります」
知らなかった。
「どっちで測った?」
「門に近い方です」
俺が前に測ったのは。
どっちだ?
思い出す。
道を歩いて、草地へ移る前。
大きな石。
一つしか意識していなかった。
「分からない」
同じ場所を測らせるつもりだったのに、最初の俺の記録が曖昧だった。
今からでは確かめられない。
「じゃあ、今日の場所を新しい基準にする」
庭師が測った場所へ、今度は杭を残す。
地図にも書く。
石だけではなく、門から見てどちら側かも残す。
あとから別の人が行っても探せるようにする。
「最初の俺の記録は?」
「場所が不確かな記録として残せばよいのではありませんか?」
先生が言った。
消さない。
間違いとも決めない。
ただ、場所の精度が低い。
俺は最初の記録に、
『位置不確か』
と書き足した。
それだけで意味が変わった。
同じ場所の比較には使いにくい。
でも、その日のその辺りを測った記録としては残る。
「捨てなくていいんだ」
「使える範囲が違うだけでしょう」
その考えは気に入った。
正確ではない記録。
条件が足りない記録。
昔の記録。
違う方法で測った記録。
全部、使えないわけではない。
何に使えるかを間違えなければいい。
父上の部屋で見た地脈図を思い出した。
違う時代。
違う人。
違う方法。
あれも同じなのかもしれない。
全部を同じ精度の情報として扱う必要はない。
どこまで分かっている記録なのか。
それも一緒に残せばいい。
俺は庭師に聞いた。
「もう一回やってくれる?」
「今日ですか?」
「別の日でいい」
少し安心した顔をされた。
どうやら俺の実験は、屋敷の人たちから見ると少し面倒らしい。
でも断られなかった。
「次は別の場所?」
「同じ場所」
庭師が不思議そうにする。
「同じところをまた測るのですか?」
「うん」
「坊ちゃんは、同じことを何度もなさるのですね」
その言葉に少し笑った。
「違うかもしれないから」
同じ場所。
同じ道具。
同じ手順。
それでも結果は変わる。
だから何度も見る。
庭師が帰ったあと、俺は新しい記録用紙を机へ置いた。
最初の九行だけだったものから、かなり変わった。
でも、完成したとは思わない。
次の人へ渡せば、また何か見つかるだろう。
帳面を開く。
『同じやり方にすることと、同じ考え方にすることは違う』
その下に、
『決めるところと、自由に残すところを分ける』
さらに一行。
『記録には、どこまで信用できるかも残す』
少し考えて、「信用」という言葉に線を引いた。
何か違う。
代わりに書く。
『何が確かで、何が曖昧かも残す』
こっちの方がいい。
知らない人に紙を渡したら、俺が知らなかったことが返ってきた。
俺は同じ点を置いてほしかった。
でも庭師は、俺が見ていなかったものまで記録してきた。
違う人が見ることは、誤差を増やすだけではない。
俺には見えなかったものが増えることでもある。
それなら。
世界をたくさんの人で見るというのは、一人の目を増やすことではないのかもしれない。
違う目を、そのまま使えるようにすることなのかもしれない。
その考えには、まだ名前をつけなかった。
ただ帳面の端に、小さく一つだけ書いた。
『違う人だから見えるものもある』
庭の外へ置いた点が、また一つ増えた。




