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第四話 身体を巡るもの

父上から出された課題は、思っていたより難しかった。


全身に魔素を巡らせる。

言葉にすれば、それだけだ。


右手ならできる。

左手もできる。足はまだ少し怪しいが、昨日よりは感覚を掴めている。


問題は、それを全部同時にやろうとした時だった。


「……消えた」


右腕を意識する。

左腕にも意識を広げる。


そこまではいい。


胸、腹、右脚。


左脚まで行こうとしたところで、最初に意識していた右腕の感覚が薄くなる。


もう一度。


今度は脚から始める。


右脚、左脚、腹、胸。


両腕まで広げると、今度は脚が分からなくなった。


「なんでだ?」


魔素がなくなったわけではない。

意識できなくなっただけだ。


俺は床に座ったまま、自分の身体を見下ろした。


前世でも似たようなことはあった気がする。

右手と左手で違う動きをする。一つなら簡単なのに、同時にやろうとすると急に難しくなる。


身体の問題というより、頭の問題なのかもしれない。


「だったら……」


全部を同時に動かそうとするから難しい。

一つの流れにしてしまえばいい。


右手から肩へ。

肩から胸。

胸から左肩を通って左手へ。


戻して腹へ。

腰から脚へ流し、また上へ戻す。


身体の中に一本の道を作る。


血液の流れとは違う。

そもそも魔素に決まった通り道があるのかも分からない。


でも、想像するだけなら自由だ。


俺は目を閉じた。


右手。


腕。


肩。


胸。


ゆっくり動かす。


「…………」


さっきより楽だ。


一度に全部を意識するのではなく、今どこにあるのかだけを追っていく。


胸から腹へ。


腰。


右脚。


足先まで行ったところで、また戻す。


できる。


左脚も同じ。


最後に身体を一周させるように、ゆっくり流していく。


「おお……」


思わず声が出た。


できた。


いや。


父上の言っていた「全身に巡らせる」が、これで正しいのかは分からない。


でも昨日より、明らかに広い範囲へ魔素を動かせている。


俺は目を開けた。


目の前では、クロムが座っていた。


「見た?」


クロムは前足を舐めている。


「今の結構すごくない?」


今度は顔を洗い始めた。


興味がないらしい。


「猫だもんな」


そう言いながら立ち上がった時だった。


少しだけ身体が軽い。


「ん?」


気のせいか?


俺はその場で軽く跳んだ。


普通。


もう一度。


今度は魔素を脚へ流してから跳ぶ。


「うわっ!」


思っていたより高く跳ねた。


着地でバランスを崩し、慌てて床へ手をつく。


痛くはない。


でも、今のは明らかに違った。


「……何これ」


脚に力を入れたつもりはなかった。


魔素を流しただけだ。


もう一回。


そう思って立ち上がったところで、扉の方から声がした。


「何が、もう一回なのでしょうか?」


「…………」


振り返る。


マリーがいた。


いつから?


「おはよう、マリー」


「おはようございます、アルス様」


笑っている。


でも、視線が俺の足に向いている。


「今、跳びましたね?」


「ちょっとだけ」


「普通に跳んだのではありませんね?」


なぜ分かる。


「魔素を脚に流してみたら、思ったより高く跳んだ」


正直に答えると、マリーは俺のところまで歩いてきた。


そして、しゃがむ。


「足を見せてください」


「痛くないよ」


「それを確認するのは私です」


昨日と同じだ。


足首。

膝。

脚全体。


順番に確かめていく。


「本当に何ともない?」


「うん」


「違和感は?」


「ない」


マリーはようやく手を離した。


怒られるかと思ったが、少し困ったような顔をしただけだった。


「アルス様」


「はい」


「魔素で身体を強くすること自体は、珍しいことではありません」


「そうなの?」


「はい。騎士の方々も使いますし、冒険者の方々にも使う方は大勢いらっしゃいます」


そうだったのか。


五歳の俺も、なんとなくは知っている。


父上も昨日、身体を強くできると言っていた。


でも、実際に自分でやると話が違う。


「じゃあ、今のも普通?」


「魔素を扱える方なら、いずれ覚えることです」


なるほど。


また俺だけの発見ではない。


でも、それで興味がなくなるわけではなかった。


むしろ逆だ。


「どうして強くなるの?」


「はい?」


「魔素を脚に流したら、どうして高く跳べるの?」


マリーが止まった。


「それは……身体強化ですから」


「身体の何が強くなってるの?」


「何が、と申されましても……」


困らせてしまった。


マリーは魔法の研究者ではない。


聞く相手が違う。


「ごめん。父上に聞く」


「そうしてください」


少し安心した顔をされた。


でも、俺の疑問は消えない。


筋肉が強くなった?


骨?


それとも身体全体?


魔素そのものが力を出している可能性もある。


試したい。


ただし、さっきのように跳ぶのはまずい。


高く跳べることを知らずにやったから、着地に失敗した。


次は結果が分かっている。


同じことを部屋でやれば、今度は完全に俺が悪い。


「マリー」


「はい」


「庭なら跳んでもいい?」


「旦那様か先生がご一緒なら」


駄目だった。


「じゃあ、歩くのは?」


「普通に歩くのでしたら」


普通に、か。


俺は少し考えた。


「魔素を流しながら普通に歩く」


マリーも考えた。


「走らない?」


「走らない」


「跳ばない?」


「跳ばない」


「木に登らない?」


「登らない」


「物を蹴らない?」


「蹴らない」


「分かりました」


許可が出た。


条件が多い。


でも、これで試せる。



朝食を終えると、俺はマリーと一緒に庭へ出た。


クロムもついてきた。


屋敷の庭は広い。

芝生の向こうには木々が並び、そのさらに先には騎士たちが使う訓練場もある。


今日はそちらには行かない。


普通に歩くだけだ。


まずは魔素を意識しない。


一歩。


二歩。


三歩。


いつもの感覚を覚えておく。


次に、身体全体へゆっくり魔素を巡らせる。


右足を出す。


「……軽い」


気がする。


歩幅は変えない。


速さも変えない。


ただ歩く。


それでも違う。


足を前へ出すのが楽だ。

姿勢も少し安定している気がする。


「マリー」


「はい」


「魔素を使ってるの、分かる?」


「分かりますよ」


即答だった。


「どうやって?」


「見れば」


「見えるの?」


「魔素そのものが、はっきり見えているわけではありません」


マリーは少し考えた。


「動きが違います。それに、慣れている方なら何となく感じます」


何となく。


また曖昧な言葉が出た。


でも、それを馬鹿にする気にはならなかった。


人間は前世でも、すべてを数字で判断していたわけじゃない。

経験を積んだ人間が、説明できない違和感に気づくことはある。


この世界では、その中に魔素まで含まれている。


「じゃあ、隠せる?」


「何をです?」


「魔素を使ってること」


「アルス様」


「やらないよ。気になっただけ」


先に言っておく。


マリーは俺の顔をしばらく見てから答えた。


「上手な方なら、分かりにくくすることはできます」


できるのか。


「どうやって?」


「それは私には分かりません」


「そっか」


分からないことが増えた。


でも、それでいい。


俺はまた歩き始めた。


魔素を少し弱くする。


感覚が変わる。


強くする。


また変わる。


強くすればするほど良い、というわけではなさそうだった。


強く意識しすぎると、歩く動作そのものがぎこちなくなる。


「……多すぎても駄目なのかな」


ちょうどいい量がある?


それとも俺が下手なだけ?


今は判断できない。


何度か試しているうちに、クロムが俺たちの横を通り過ぎた。


黒い尻尾を立て、芝生の上を歩いていく。


俺はその動きを眺めた。


静かだ。


身体がほとんど上下しない。


足音もほとんど聞こえない。


「猫って、やっぱり歩くの上手いな」


「猫ですからね」


マリーの答えは普通だった。


でも俺は、クロムから目を離せなかった。


前世でも猫はいた。


だから猫がこういう動きをすること自体は知っている。


知っているのに、今までちゃんと見ていなかった。


前足を置く。

身体が進む。

後ろ足が続く。


無駄が少ない。


「真似したらどうなるんだろう」


「アルス様?」


「なんでもない」


今は歩くだけ。


約束した。


俺はクロムの後ろを、ゆっくり歩いた。


同じようにはできない。


人間と猫では身体の作りが違うのだから当然だ。


それでも、足を置く場所。

重心が移る順番。

身体に力を入れるタイミング。


意識すると、自分の歩き方まで違って感じられる。


魔素だけを見ていたはずなのに、いつの間にか身体そのものを見ている。


面白い。


魔素が身体を強くするなら、元の身体の使い方も関係するのではないか。


同じ魔素を使っても、立ち方や歩き方が違えば結果が変わる?


だったら――。


「アルス様」


「うん?」


「そろそろ戻りましょう」


「もう?」


「もう、です」


空を見る。


確かに、思っていたより時間が経っていた。


「分かった」


今日は素直に戻ることにした。


知りたいことは増えた。


でも、全部を一度に試す必要はない。


屋敷へ向かいながら、俺は自分の手を開いた。


魔素を集めれば、感覚が変わる。


脚へ流せば、跳ぶ力が変わる。


全身へ巡らせれば、歩く感覚まで変わる。


魔法というと、火を出したり、水を操ったりするものだと思っていた。


でも、その前にあるものの方が面白い。


魔素は、身体に何をしている?


身体は、魔素にどう反応している?


まだ何一つ答えは出ていない。


それでも昨日より、分からない場所が少しだけ見えるようになった。


そして妙なことに。


見えるようになるほど、分からないことは増えていった。

アルスの父


挿絵(By みてみん)

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