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第三話 最初の実験

翌朝。


目を覚ました俺が最初にしたことは、右手に魔素を集めることだった。


目を閉じる必要はなかった。


胸の辺りに意識を向け、そこから肩、肘、手首へと流れを追っていく。


昨日より、はっきり分かる。


「……できる」


右手。

左手。


右足は少し難しい。

左足は、やっぱりもっと難しい。


昨日と同じだ。


ということは、少なくとも偶然ではない。


俺はベッドの上で足を組んだ。


昨日、マリーに止められてから考えていた。


魔素を動かすこと自体はできる。


でも、それだけでは何も分からない。


右手に集めた時、本当に魔素が増えているのか。

それとも、ただ自分がそう感じているだけなのか。


何か確かめる方法が必要だ。


「測れればいいんだけどな」


体温計のようなものがあれば分かりやすい。


いや、魔素を測る道具がこの世界に存在する可能性もある。


知らないなら聞けばいい。


昨日までの俺には五年分の知識しかない。


この世界について知っているつもりになる方がおかしい。


「よし」


まずは勉強だ。


そう決めたところで、扉が開いた。


「アルス様、おはようございます」


「おはよう、マリー」


入ってきたマリーが、俺を見る。


それからベッドを見る。


もう一度、俺を見る。


「何をしていらっしゃいました?」


「座ってた」


「それだけですか?」


「魔素もちょっと動かした」


隠しても仕方がない。


マリーはため息をつかなかった。


代わりに、少しだけ笑った。


「昨日より素直ですね」


「嘘ついてもばれるから」


「よろしいことです」


やっぱりばれるらしい。


マリーがカーテンを開ける。


朝の光が一気に部屋へ入ってきた。


「今日は旦那様がお時間を取ってくださるそうですよ」


「父上が?」


「はい。アルス様が魔法について知りたがっていると、奥様からお聞きになったそうです」


思ったより早い。


俺はベッドから飛び降りた。


「いつ?」


「朝食の後です」


「じゃあ早く行こう」


「その前にお着替えです」


「自分でできる」


「存じております」


「じゃあ――」


「ですが、前後を逆に着る方のお手伝いをするのも私のお仕事です」


「一回だけだよ」


「三回です」


覚えてるのか。


前世の記憶が戻っても、五歳までの失敗は消えてくれないらしい。



朝食を終えた俺は、父上と一緒に屋敷の庭へ出た。


少し離れたところにはマリーもいる。


見学というより監視だろう。


「さて」


父上が俺の前で立ち止まった。


「昨日の話だが、本当に魔法を学びたいのか?」


「はい」


「なぜだ?」


いきなり難しい質問だ。


便利だから。

使ってみたいから。


普通なら、それで十分なのかもしれない。


でも俺が知りたいのは、少し違う。


「どうして魔法が使えるのか知りたいです」


父上が黙った。


まずかったかな。


五歳児の答えとしては変だったかもしれない。


「使いたい、ではないのか?」


「使いたいです」


それも本当だ。


「でも、どうして使えるのかも知りたい」


父上はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく笑った。


「なるほど」


それだけ言うと、庭の端に置かれていた小さな木片を指した。


「では、まず見ていなさい」


父上が右手を向ける。


木片が浮いた。


昨日の水差しと同じだ。


ただし、今度は見る場所が違う。


木片ではない。


父上だ。


魔素。


自分の身体の中にあるものなら感じられる。


なら、他人の魔素は?


俺は意識を集中した。


「…………」


分からない。


父上の身体に何かがある気はする。


でも、自分の魔素ほどはっきりしない。


木片はゆっくり上昇し、俺の目の高さで止まった。


「何が分かった?」


「木が浮きました」


「それは見れば分かるな」


「父上の魔素を見ようとしたけど、よく分かりませんでした」


木片が落ちた。


父上が俺を見る。


「見ようとした?」


「はい」


「魔素を?」


「はい」


何かおかしかったらしい。


後ろにいるマリーまでこちらを見ている。


「アルス」


「はい」


「お前は、自分の魔素を感じられるのか?」


「感じられます」


「いつからだ?」


昨日です。


そう答えようとして、少し考えた。


正確には、昨日から意識して感じている。


それ以前にも教わったことはあるし、何となく存在は分かっていた。


「昨日、ちゃんと分かりました」


「ちゃんと、とは?」


「動かせます」


また父上が黙った。


今度は長い。


「やってみなさい」


俺は右手を出した。


胸から肩へ。

肩から腕へ。


昨日より滑らかに魔素が流れる。


手のひらに集め、そのまま維持する。


「これです」


父上が俺の手を取った。


目を閉じる。


しばらくして、目を開けた。


「誰に教わった?」


「誰にも」


「では、どうやった?」


「流れてるから、動かしました」


父上の眉間に皺が寄った。


説明が足りないらしい。


「水みたいに考えたんです。ここから、こっちに流す感じで」


右手で胸から腕までをなぞってみせる。


「そうしたら動きました」


「……そうか」


父上は考え込んだ。


驚いてはいる。


でも、奇跡を見たような反応ではない。


それが少し嬉しかった。


できないことをしたわけではない。


この世界には魔素があり、人はそれを扱える。


俺がやったのは、その入り口に立っただけだ。


「アルス」


「はい」


「魔素を扱う感覚には個人差がある。お前のように早く掴む者もいる」


やっぱりそうなのか。


「でも、できる人は他にもいる?」


「もちろんだ」


「五歳でも?」


「少ないが、いる」


よかった。


いきなり世界で俺だけ、なんて話ではないらしい。


「ただし」


父上の声が少し低くなった。


「できるからといって、好きに使っていいわけではない」


「危ないから?」


「そうだ」


父上がさっきの木片を拾った。


「魔素は便利だ。身体を強くすることもできる。物を動かすことも、火を起こすことも、水を操ることもできる」


木片を俺に渡す。


「だから、失敗すれば人を傷つける」


俺は木片を見る。


軽い。


これがゆっくり飛んできても痛くないだろう。


でも、速かったら?


前世の知識が勝手に続きを考える。


同じ物でも速度が違えば、ぶつかった時の結果は変わる。


もっと硬ければ。

もっと重ければ。


「分かりました」


「本当か?」


「人に向けません」


「自分にも無茶をするな」


そっちもか。


父上は俺の性格を知っている。


前世を思い出す前から、気になるものを見つけると触りたがる子供だった。


そこは変わっていないらしい。


「では今日は、魔法を使う前の基本だけだ」


「基本?」


「魔素を感じ、巡らせる」


それならもうやっている。


そう思ったが、口には出さなかった。


「魔素を身体の一部だけに集めようとするな。まず全身を巡らせることを覚えなさい」


「どうして?」


「身体を痛めないためだ」


まただ。


結果だけではなく理由まで返ってくる。


ありがたい。


「集めすぎると痛める?」


「可能性がある。特に慣れないうちはな」


「どれくらい?」


「アルス」


「はい」


「今は、限界を確かめようとするな」


ばれた。


後ろから小さな笑い声が聞こえた。


マリーだ。


「笑った?」


「いいえ」


絶対に笑った。


父上も少し笑っている。


「まずは全身だ。右手だけではない。身体の隅々まで同じように意識してみなさい」


俺は目を閉じた。


胸。


肩。


腕。


手。


腹。


腰。


脚。


昨日より広く意識する。


難しい。


一か所に集める方がずっと簡単だ。


右手に集中すれば、そこだけを考えればいい。


全身となると、意識が散る。


足を考えると手が分からなくなる。

手を考えると背中が消える。


「……難しい」


「それでいい」


父上の声が聞こえる。


「最初からできる必要はない」


最初からできる必要はない。


その言葉で、少し力が抜けた。


そうだ。


できないなら、それも情報だ。


俺はもう一度試した。


やっぱり失敗する。


今度は腕を意識しすぎた。


もう一度。


今度は足。


もう一度。


少しだけ広がった気がする。


「…………」


面白い。


成功することより、失敗するたびに違いが出ることの方が面白かった。


何が違った?


どこで意識が切れた?


呼吸は関係ある?


姿勢は?


目を開けた状態でもできる?


「アルス」


「はい?」


「今日はここまでだ」


「え?」


まだ始まったばかりだ。


空を見上げる。


太陽の位置は、ほとんど変わっていないように見える。


「もう少し」


「駄目だ」


「あと一回だけ」


「その一回が十回になる顔をしている」


父上まで分かってるのか。


「マリー」


「はい」


「頼んだ」


「お任せください」


何を?


そう思った瞬間、後ろから身体を持ち上げられた。


「うわっ」


「では戻りましょう、アルス様」


「歩ける! 自分で歩けるから!」


「存じております」


マリーは俺を抱えたまま屋敷へ向かう。


「父上!」


助けを求めたが、父上は手を振るだけだった。


裏切られた。


「明日も教えてください!」


「全身を巡らせられるようになったらな」


遠ざかる父上の声を聞きながら、俺は考えた。


全身。


右手だけならできる。


左手もできる。

足は少し難しい。


なら、最初から全部を意識する必要はないんじゃないか?


右手から左手。

左手から胸。

胸から腹。

腹から足。


小さく分けて、最後につなげる。


「マリー」


「駄目ですよ」


「まだ何も言ってない」


「お部屋に戻って続きをなさるおつもりでしょう?」


「…………」


なんで分かるんだ。


「今日はお休みください」


「じゃあ考えるだけ」


「それでしたら」


許可が出た。


身体を使わなければいいらしい。


俺はマリーに運ばれながら、頭の中で身体をいくつかの場所に分けてみた。


腕。

脚。

胸。

腹。

背中。


一度に全部が難しいなら、分ける。


分けても難しいなら、もっと細かくする。


それぞれができたら、つなげる。


前世の知識が、魔法の答えを持っているわけじゃない。


でも。


分からないものを、小さく分ける。


比べる。


失敗した条件を変えて、もう一度試す。


そのやり方なら知っている。


俺はマリーの肩越しに庭を見た。


さっきの木片が地面に落ちている。


魔法を使えるようになることより先に、知りたいことができた。


魔素は、どこまで細かく扱えるんだろう。


そして。


細かく扱えるようになった先には、何ができるんだろう。


「明日が楽しみだな」


「今日をちゃんと休んでくだされば、ですが」


「休むよ」


考えるだけだ。


俺は嘘をついていない。


たぶん。

アルスの母


挿絵(By みてみん)

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