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第二話 魔法という当たり前

朝食の席には、すでに家族が揃っていた。


父上のアルベルトと、母上のソフィア。

兄上のクラウスと、姉上のエリシア。


五年間、毎日のように見てきた光景だ。


「アルス、お誕生日おめでとう」


母上が笑顔で迎えてくれる。


「ありがとうございます、母上」


自分では普通に答えたつもりだった。


けれど、なぜか母上が目を丸くした。


「まあ」


「どうしました?」


「いえ。今日はずいぶん大人っぽい返事をするのね」


まずい。


五歳児だった。


四十六年分の経験が戻ったからといって、いきなり別人のように振る舞えば不自然だ。


「五歳になったから」


そう答えると、隣に座っていた姉上が吹き出した。


「アルス、五歳は大人じゃないわよ」


「昨日よりは大人だよ」


「一日しか違わないじゃない」


「一日分は大人になってる」


姉上が少し考えた。


「……それはそうね」


納得するんだ。


向かい側で兄上が笑いを堪えている。


父上まで口元を緩めていた。


よし。


たぶん大丈夫だ。


俺は自分の席に座った。


マリーが朝食を運んでくる。

焼いたパンと卵、野菜のスープ。それに果物。


昨日まで何の疑問も持たずに食べていたものだ。


ところが今日は、つい目で追ってしまう。


パンは小麦だろう。

卵も見たところ普通の卵だ。

野菜には見覚えのあるものと、ないものが混ざっている。


食器は陶器。

スプーンは金属。


前世とは違う世界なのに、何もかもが違うわけではない。


むしろ似ているものの方が多い。


だったら、どこから違う?


「アルス?」


「はい?」


父上がこちらを見ていた。


「食べないのか?」


「あ、食べます」


考えるのは後だ。


スープを一口飲む。


普通に美味しい。


これも昨日までなら、それで終わっていた。


塩はどこで採れるんだろう。

この野菜はこの辺りで育てているのか。

冬はどうやって保存している?


いちいち疑問が出てくる。


面倒くさい頭になったな。


そう思いながらパンに手を伸ばした時、父上が何気なく指を動かした。


テーブルの少し離れたところにあった水差しが、ふわりと浮いた。


「…………」


水差しは空中を滑るように移動し、父上の手元で止まる。


父上はそれを掴んで、自分の杯へ水を注いだ。


誰も驚かない。


母上も。

兄上も。

姉上も。


マリーでさえ、何もなかったように食器を並べている。


俺も昨日まではそうだった。


魔法だから。


それで終わり。


「父上」


「なんだ?」


「今の、どうやったんですか?」


父上の手が止まった。


「水を注いだだけだが」


「その前です。水差しを動かしたやつ」


「ああ、魔法か」


やっぱり。


魔法。


便利な言葉だ。


でも、説明にはなっていない。


「どうして動くんですか?」


「どうして?」


父上が少し困った顔をした。


その反応で分かった。


質問の仕方が悪い。


魔法が存在する世界で、「なぜ魔法が使えるのか」と聞くのは、前世で「なぜ歩けるのか」と聞くようなものなのかもしれない。


普通に使っている人間が、その仕組みまで知っているとは限らない。


「アルスは魔法に興味が出てきたの?」


母上が助け舟を出してくれた。


「うん」


これは嘘ではない。


むしろ、ものすごく興味がある。


「もう五歳だものね。少しずつ教えてもらってもいい頃かしら」


「まだ早い」


父上が即答した。


「えー」


思わず声が出た。


「そんな顔をするな。魔素を感じる程度なら構わんが、魔法を一人で試すのは駄目だ」


「どうして?」


「危ないからだ」


それは分かる。


火が出るなら火傷するだろうし、物を飛ばせるなら誰かに当たるかもしれない。


問題はそこじゃない。


「失敗すると、どうなるんですか?」


父上が眉を上げた。


「……妙なところを気にするな」


「知りたい」


「そうだな」


父上は少し考えてから、杯を置いた。


「術による。何も起きないこともあるし、狙いと違う場所で発動することもある。魔素の扱いを誤れば、自分の身体を痛めることもある」


なるほど。


何も起きない失敗と、何か起きてしまう失敗がある。


「じゃあ、さっきの水差しを動かす魔法は?」


「物を動かすだけなら比較的簡単だ。対象を捉えて、魔素を通し、望む方向へ力を加える」


対象を捉える。

魔素を通す。

方向を決める。


俺は頭の中で、その三つを並べた。


「重いものだと難しくなる?」


「当然だ」


「遠いものは?」


「難しくなる」


「速く動かすのは?」


「それも難しい」


「同時に二つは?」


父上が黙った。


母上が笑っている。


「アルス」


「はい」


「朝食を食べなさい」


「はい」


質問は打ち切られた。


残念。


でも、かなり分かった。


少なくとも魔法は、「魔法だから何でもできる」というものではないらしい。


重さ。

距離。

速さ。

数。


条件によって難しさが変わる。


それなら、たぶん理由がある。


理由があるなら調べられる。



朝食を終えると、俺は自分の部屋へ戻った。


もちろん一人ではない。


「アルス様」


後ろからマリーがついてくる。


「なに?」


「旦那様のお話、聞いていらっしゃいましたよね?」


「聞いてたよ」


「魔法を一人で試してはいけませんよ」


先回りされた。


「試さないよ」


「本当ですか?」


「本当」


マリーがじっと俺を見る。


信用がない。


五年間の俺、何をした。


いや、だいたい覚えている。


木に登って降りられなくなった。

廊下を走って花瓶を割った。

庭で見つけた虫を部屋に持ち込んだ。


これは信用されなくても仕方がない。


「魔法は試さない」


もう一度言うと、マリーはようやく頷いた。


「でしたら結構です」


嘘は言っていない。


魔法は試さない。


魔素を動かすだけだ。


父上も、それくらいなら構わないと言っていた。


部屋へ戻ると、クロムが窓辺に座っていた。


「クロム」


黒猫がこちらを見る。


「ちょっと付き合って」


返事はない。


でも逃げもしないので、付き合ってくれることにする。


俺は床に座った。


まずは朝と同じ。


目を閉じ、自分の身体の内側へ意識を向ける。


ある。


やっぱりある。


胸の奥だけじゃない。


意識してみると、身体のあちこちに流れを感じる。


血管のように一本の道があるわけではない。

もっと曖昧で、身体全体に薄く広がりながら巡っている感じだ。


それを右手へ集める。


朝より簡単だった。


「できた」


今度は左手。


これもできる。


右足。


少し難しい。


左足。


もっと難しい。


「なんでだ?」


俺は目を開けた。


右手と左手では、それほど差がない。

なのに足へ動かそうとすると、急に感覚がぼやける。


距離?


いや、腕と足では普段の使い方が違う。


意識のしやすさ?


試しに右手の人差し指だけへ集めてみる。


できる。


中指。


できる。


薬指。


「……あれ?」


急に難しくなった。


小指も少し難しい。


面白い。


魔素そのものの問題だけじゃないのかもしれない。


身体をどれだけ細かく意識できるか。


それが操作のしやすさに関係している?


俺は右手を開いた。


前世の知識が、そのまま答えを教えてくれるわけではない。


当然だ。


地球に魔素なんてなかった。


でも、考え方は使える。


条件を変える。

比べる。

同じ結果になるか確かめる。


分からなければ、一つずつ切り分ければいい。


「次は……」


そこで扉が開いた。


「アルス様?」


マリーだった。


俺は両手を膝の上に置いた。


「何もしてないよ」


「まだ何も聞いておりませんが」


「…………」


マリーが目を細める。


まずい。


「魔法は使ってない」


「魔素は?」


鋭い。


「……動かしただけ」


マリーは小さくため息をついた。


怒られるかと思ったが、そうはならなかった。


代わりに俺の前まで来ると、しゃがんで両手を取る。


手のひら。

指先。

手首。


順番に確かめていく。


「痛いところは?」


「ない」


「痺れは?」


「ないよ」


「気分は悪くありませんか?」


「全然」


「では、今日はここまでです」


「え」


「ここまでです」


笑顔だった。


笑顔なのに、逆らってはいけない感じがする。


「まだ全然やってないよ」


「だからです」


「?」


「楽しい時ほど、やりすぎるでしょう?」


何も言い返せなかった。


俺のことをよく知っている。


前世の俺ではない。


五年間、一緒にいたアルスのことを。


「明日ならいい?」


「先生に教わってからです」


「いつ?」


「奥様に聞いてください」


逃げたな。


俺は不満だったが、ここで続ければ本当に禁止されそうだ。


仕方なく立ち上がる。


その横をクロムが通り過ぎ、さっきまで俺が座っていた場所に丸くなった。


「クロムもそう思う?」


当然、返事はない。


俺はもう一度、自分の右手を見た。


今日は動かしただけ。


それでも分かったことがある。


魔素は身体の中を巡っている。

意識すれば、その流れを変えられる。

そして、場所によって動かしやすさが違う。


たったそれだけ。


答えには程遠い。


でも、それでいい。


一日で全部分かってしまったら、つまらない。


窓の外では、風に揺れた木の葉が朝の光を反射していた。


この世界では、誰もが魔法を知っている。


だからこそ俺は、少しだけ気になった。


みんなが当たり前に使っているものを、一つずつ分解していったら――。


最後には、何が残るんだろう。

クロム


挿絵(By みてみん)

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