第一話 五歳の朝
俺の名前は、アルス・フォン・アークライト。
アークライト侯爵家の三男で、今日で五歳になった。
目を覚ました時、最初に見えたのはいつもの天井だった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ベッドの足元では黒猫のクロムが丸くなっている。
いつもと同じ朝。
違っていたのは、俺の頭の中だった。
「…………」
知らないはずのものを、知っている。
自動車。飛行機。テレビ。冷蔵庫。スマートフォン。
電気というものを使って明かりを灯し、遠く離れた人間と話し、巨大な鉄の塊を空へ飛ばす世界。
地球。
日本。
そして――神宮寺隼人。
「……俺だ」
声に出した瞬間、それまでバラバラだったものが一気につながった。
四十六年間、生きた記憶。
いや、少し違う。
知識や経験はある。
料理の仕方も、仕事をした経験も、本で読んだことも覚えている。けれど、前の人生で誰と暮らしていたのか、誰を好きだったのか、誰と別れたのか。そういう人間に結びついた記憶だけが、ひどく曖昧だった。
そして、その理由も思い出した。
「神様……」
豪華な玉座に座っていた老人。
俺が死んだと説明しているのに、夢だと思ってろくに話を聞かなかった俺。
健康な身体が欲しい。
前世の知識と経験は残してほしい。
でも、人間関係の記憶はいらない。
そして、もう一度人生を歩くなら、自分で選んだ人生だったことくらいは覚えていたい。
確かに、俺がそう頼んだ。
『五歳くらいになれば、自然と思い出すようにしておこう』
最後に神が言っていた言葉まで蘇ってくる。
俺は毛布から両手を出し、まじまじと眺めた。
小さな手だった。指も短い。
握って、開く。
もう一度握る。
「本当に五歳だ……」
当然だ。
五年間、この身体で生きてきたのだから。
アルスとしての記憶が消えたわけではない。
父上のアルベルト。
母上のソフィア。
兄上のクラウスに、姉上のエリシア。
いつも世話をしてくれるマリー。
庭で転んで膝を擦りむいたことも、姉上にお菓子を取られて泣いたことも、兄上の後をついて回って邪魔だと言われたことも覚えている。
俺は神宮寺隼人になったわけじゃない。
アルス・フォン・アークライトとして過ごした五年間の中に、もう一つの人生で得た知識と経験が流れ込んできた。
「なるほど……」
少しだけ安心した。
昨日までの自分が消えて、知らない大人に入れ替わったわけではないらしい。
その時、足元で何かが動いた。
クロムだった。
真っ黒な猫が身体を伸ばし、金色の目で俺を見る。
「おはよう、クロム」
返事はない。
クロムはいつものように俺を見ているだけだ。
俺が生まれた時から、なぜかずっとそばにいる黒猫。
五歳までの俺は、それを不思議だと思ったことがなかった。
家に猫がいて、その猫が俺になついている。それだけだったからだ。
でも、四十六年分の知識を持って改めて考えると、少し妙だ。
「お前、いつからいるんだ?」
クロムは首を傾げた。
「……猫に聞いてもしょうがないか」
頭を撫でると、クロムは目を細めた。
まあいい。
分からないものは、あとで調べればいい。
そう考えたところで、ふと手が止まった。
――調べる。
その言葉に、自分でも妙に強く反応した。
部屋を見回す。
窓。
燭台。
水差し。
木製の家具。
昨日まで何とも思わなかったものが、今日はまるで違って見える。
この世界には電気がない。
少なくとも、俺の知る範囲では見たことがない。
自動車もない。
テレビもない。
けれど、不便だと思ったこともなかった。
代わりに、この世界には別のものがある。
魔法。
そして――魔素。
俺は自分の胸に手を当てた。
魔素については、五歳のアルスも知っている。
特別な秘密ではない。
空気の中にも、大地にも、生き物の身体にも存在するもの。
人はそれを感じ、体内を巡らせ、扱うことで魔法を使う。
大人たちが魔法を使うところも何度も見た。
だから昨日までは、そういうものなのだと思っていた。
でも今は違う。
「……なんで?」
どうして魔素は身体の中を巡る?
どうして動かせる?
そもそも、魔素って何だ?
前の世界にはなかった。
少なくとも、神宮寺隼人が知っている科学の中には存在しない。
なのに、この世界では当たり前に存在している。
胸の奥が少しだけ騒がしくなった。
知らない。
四十六年分の知識が増えたのに、分からないものが目の前にある。
俺は目を閉じた。
魔素を感じる方法なら知っている。
子供でも最初に教わるような、ごく基本的なものだ。
呼吸を整える。
身体の内側へ意識を向ける。
すると、すぐに分かった。
温かいとも冷たいとも違う。
血液とも違う。
それでも確かに、何かが身体の中を巡っている。
昨日までなら、そこで終わっていた。
魔素がある。
感じられた。
それだけ。
でも今日は、その先が気になった。
流れているなら――動かせないのか?
右腕を見る。
胸の辺りに感じていた流れを、右肩へ。
そこから腕を通して、手のひらへ。
「…………」
何も起きない。
いや。
ほんの少しだけ、流れが変わった気がした。
もう一度。
今度は急がない。
水が細い管の中を流れるところを想像する。
肩から肘。
肘から手首。
そして指先へ。
「……あ」
右手の感覚が変わった。
熱くはない。
光ってもいない。
見た目には何も起きていないのに、左手とは明らかに違う。
俺は右手を握った。
力を入れたつもりはない。
それなのに、いつもより拳がしっかりしているように感じた。
「動くじゃん」
思わず笑った。
魔素は動かせる。
なら、どこまで動かせる?
一か所に集めたらどうなる?
身体の外へ出せるのか?
逆に外から取り込むことはできる?
魔法を使う時、何が起きている?
疑問が一つ浮かぶたび、その後ろから二つ、三つと新しい疑問が出てくる。
まずい。
これは面白い。
コンコン。
突然、扉が鳴った。
「アルス様、起きていらっしゃいますか?」
マリーの声だ。
慌てて手の力を抜く。
「起きてるよ」
「失礼いたします」
扉が開き、マリアンヌが入ってきた。
俺の専属メイドで、物心がついた頃から毎日のように顔を合わせている。
「お誕生日おめでとうございます、アルス様」
「ありがとう、マリー」
「今日は朝食のあと、奥様がお待ちですよ。午後には――きゃっ」
マリーの足が絨毯の端に引っかかった。
身体が前へ傾く。
俺は反射的に手を伸ばした。
だが、その必要はなかった。
転ぶ寸前だったはずのマリーは片足を滑らせるように前へ出し、何事もなかったように姿勢を戻していた。
手に持っていた服も落としていない。
「…………」
「どうかなさいました?」
「いや」
今の何?
明らかに転ぶところだったよな?
でも、マリーは普通の顔をしている。
五歳までの俺なら、「またマリーが転びそうになった」で終わっていた。
今は違う。
身体の使い方。
重心の移動。
反応速度。
見え方が変わっている。
「マリー」
「はい?」
「今、どうやったの?」
「何をでしょう?」
本人は本当に分かっていないらしい。
「……なんでもない」
また一つ増えた。
魔素だけじゃない。
昨日まで当たり前だったものの中に、分からないことが山ほどある。
マリーが着替えを準備している間、俺は窓の外を見た。
屋敷の向こうには街がある。
そのさらに向こうには、まだ見たことのない場所がある。
前世で知っていた世界とは違う世界。
ポテンシア。
魔素があって、魔法があって、魔物までいる。
そして俺は、この世界のことをほとんど知らない。
それなのに、なぜだろう。
怖いとは思わなかった。
むしろ――。
「アルス様?」
「うん?」
「何だか楽しそうですね」
そう言われて、初めて自分が笑っていることに気づいた。
「そうかも」
知りたいことがある。
試してみたいことがある。
昨日まで何でもなかった世界が、今日は分からないことだらけに見える。
だったら、一つずつ調べればいい。
五歳になったその朝。
俺は前世を思い出した。
けれど後になって考えると、本当に大きかったのはそこじゃなかったのだと思う。
あの日から俺は、この世界の「当たり前」を、そのまま受け取れなくなった。
そして最初に気になったのは――。
自分の身体を流れている、魔素だった。




