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第四十五話 庭の外へ

領地図を見てから三日後、俺は初めて庭の杭を一本抜いた。


観測をやめるわけではない。むしろ逆だ。庭で分かることが増えたから、庭だけでは分からないことも増えた。


「本当に持っていくのですか?」


マリーが、俺の手にある杭を見る。


「同じ場所が分からなくなるから」


「行った先にも刺すおつもりで?」


「うん」


今日は先生と一緒に、屋敷の外へ出る。


遠くへ行くわけではない。父上から許されたのは、屋敷から歩いて行ける範囲だけだ。護衛もつく。


それでも俺にとっては、庭の外だ。


帳面、紙、筆記具、測定具。それから目印にする杭を数本。


荷物を見たマリーが言った。


「散歩の量ではありませんね」


「少ないよ」


「何と比べてですか?」


答えずに歩き出した。


屋敷の門を抜ける。


何度も通ったことのある道なのに、今日は見え方が違った。


今までは道だった。


今日は測る場所だ。


石が敷かれた場所。土がむき出しの場所。草の多い場所。木陰。小さな水路。


庭で調べていた時には、違いを作りそうなものを探していた。


外には最初から違うものしかない。


「どこから測ります?」


先生に聞かれて、少し迷った。


全部。


そう言いたくなったが、言わない。


それをやると終わらないことは、もう知っている。


「道」


最初の杭を、門から少し離れた道端に刺した。


測定具を置く。自分でも感じる。


庭とは少し違う。


でも、それが場所の違いなのか、今日の違いなのかは分からない。


記録する。


『門の外。道。晴れ。風弱い』


以前なら「魔素は少し弱い」とだけ書いていた。


今は条件も一緒に残す。


次は草地。


そこから木のそば。


一か所につき何度か測り、結果を書く。


三か所目を終えたところで、俺は気づいた。


「遅い」


先生が笑う。


「まだ屋敷が見えていますね」


このやり方では、領地どころか町まで行くのにも何日かかるか分からない。


庭では狭いから気にならなかった。


広くなると、測ることそのものが問題になる。


「減らそう」


「何をです?」


「測る場所」


全部を測れないなら、選ぶしかない。


似た場所を何か所も測るより、違いが大きそうな場所を選ぶ。


道。


草地。


木。


水。


まずはそれでいい。


四本目の杭は、小さな水路のそばに刺した。


屋敷へ水を引くための水路で、幅は俺がまたげるくらいしかない。底には石があり、澄んだ水が流れている。


しゃがんで目を閉じた瞬間、少し驚いた。


「違う」


先生が測定具を置く。


反応も、道や草地とは違った。


「水の近くはやっぱり違う?」


「一か所だけでは分かりませんよ」


「分かってる」


先に言われた。


俺は水路に沿って少し歩いた。


同じ水だ。


上から下へ流れている。


途中でもう一度測る。


似ている。


さらに進んで測る。


また似ている。


完全に同じではない。でも、今まで測った場所より共通するものがある気がした。


「水が魔素を運んでる?」


「可能性はあります」


「水があるから魔素が集まる?」


「それも考えられます」


「地下から来てる?」


「それも否定できません」


何を聞いても増える。


もう慣れた。


俺は帳面に三つとも書いた。


どれか一つを選ぶ必要はない。


水路をさらに進む。


屋敷から少し離れると、周囲の景色が変わった。建物が減り、畑が見える。その向こうには木々がまとまって生えている。


そして水路は、もっと大きな流れへつながっていた。


「川」


大きいと言っても、領地図に太く描かれていた川ではない。人が歩いて渡るには少し困るくらいの、小さな川だ。


それでも庭の井戸や水路とは全然違う。


水が絶えず動いている。


俺は川岸へ近づこうとして、マリーに服の後ろを掴まれた。


「そこまでです」


「まだ遠いよ」


「近いです」


「落ちない」


「落ちてからでは遅いです」


仕方なく、少し離れた場所に杭を刺した。


測定具を置く。


反応を見る。


もう一度。


場所を少し変える。


また測る。


「……水路より強い?」


先生も結果を見ている。


「そう見えますね」


川沿いに少し移動して測る。


似た傾向が出る。


もう一か所。


また似ている。


俺は川を見る。


水は動いている。


魔素も動いている。


二つが同じ方向へ流れているのかは分からない。


試しに目を閉じ、流れの方向を意識しないようにする。


難しい。


川がどちらへ流れているか、もう知っている。


知ってしまったものを知らないことにはできない。


「先に川を見ない方がよかった」


「なぜです?」


「魔素が水と同じ方向に流れてる気がする」


「実際にそうなのでは?」


「そうかもしれない。でも川を見たから、そう感じてるだけかもしれない」


先生が少し黙った。


俺は川に背を向けた。


それでも水の音は聞こえる。


これでは駄目だ。


耳を塞ぐ。


目を閉じる。


もう一度、周囲の魔素を探す。


さっきより分かりにくい。


何度か繰り返したが、はっきりしなかった。


「分からない」


それだけ書く。


今日はそれでいい。


少し休憩してから、川を離れた。


次に向かったのは木々のある場所だった。


森と呼ぶほど深くはない。領地の中ではよくある小さな林らしい。


中へ入ると、空気が変わる。


日差しが弱くなる。


土は柔らかい。


落ち葉がある。


匂いも違う。


そして魔素も。


「庭の木と似てる?」


最初に浮かんだのは、それだった。


庭の大きな木の周りでは、何日測っても似た特徴が残った。


ここには木が一本ではなく、たくさんある。


測定具を置く。


反応は庭の木のそばより複雑に見えた。


「木が多いから?」


言ってから首を振る。


違う。


そう決めるのは早い。


木だけではない。


土も違う。


日差しも違う。


湿り気も違う。


生き物も多い。


「外って面倒だな」


「今さらですか?」


先生に笑われた。


でも庭とは本当に違う。


庭では条件を探せた。


外では条件の方から押し寄せてくる。


俺は紙に簡単な位置関係を描いた。


屋敷。


道。


水路。


川。


林。


領地図と比べれば、ほんの小さな範囲だ。


それでも庭よりずっと大きい。


測った場所へ点をつける。


まだ線は引かない。


五か所や十か所測ったくらいで、流れを描くのは早い。


「帰る時間です」


マリーが言った。


「もう?」


「もう、です」


空を見る。


屋敷を出た時より太陽が高い。


ほとんど進んでいない気がするのに、時間だけはかなり経っていた。


帰り道、俺は自分で描いた紙を見ながら歩いた。


庭では、点を増やせば何か見えると思った。


外では、それだけでは無理だ。


世界は広すぎる。


全部の場所へ杭を刺すことなんてできない。


毎日同じ場所へ来ることも難しい。


一人で測れる量には限界がある。


屋敷の門が見えたところで、領地図を思い出した。


あの地図は、一人が作ったものではなかった。


違う時代。


違う人。


違う方法。


たくさんの記録が重なって、一枚になっていた。


昨日までは、それを欠点のようにも感じていた。


同じ条件ではない。


同じ道具でもない。


だから正確に比べられない。


でも今日、庭の外へ出て少し分かった。


一人で全部を同じ条件で測るなんて、最初から無理なのだ。


「先生」


「はい」


「違う人が測ったものを、一緒に使う方法ってある?」


先生が俺を見る。


「条件を揃える、という意味ですか?」


「うん。同じやり方で測って、同じ書き方で残す」


同じ場所を同じ人が永遠に測ることはできない。


でも、違う人が同じ方法で測れるなら。


一人で歩ける範囲より、ずっと広くなる。


先生は少し考えた。


「測量や商業の記録では、似た考え方が使われていますよ。誰が記録しても意味が通じるように、方法や書式を決めるのです」


「魔素でも?」


「あります。ただ、すべてが統一されているわけではありません」


それで十分だった。


また、すでにある。


なら調べられる。


部屋へ戻ると、俺は今日の紙を机に広げた。


庭の地図を隣に置く。


大きさが全然違う。


それでも今日の紙にある点は、庭で最初につけた一つ目の点と同じだ。


ただの始まり。


帳面を開く。


『全部を測ることはできない』


その下へ書く。


『だから、測る場所を選ぶ』


さらに続ける。


『一人で測れる量には限界がある』


ここで少し手を止めた。


それから最後に書いた。


『違う人が同じ方法で残せれば、一人より広く見られる』


昨日、領地図を見ながら考えたことが、少しだけ形になった。


世界全部を一人で測る必要はない。


たぶん、世界全部を一人で知る必要もない。


誰かが見たものを、別の誰かが使える形で残す。


それをまた誰かが続ける。


そうすれば、一人の目では届かない場所まで見えるかもしれない。


窓の外には、いつもの庭がある。


その向こうに道があり、水路があり、川があり、林がある。


さらにその向こうにも世界は続いている。


今日歩いたのは、領地図ならほとんど点にしかならない距離だった。


それなのに、帳面には新しい問いが一ページ増えている。


俺は最後に次の予定を書いた。


『同じ測り方を作る』


今度は地図を広げる前に。


誰が点を置いても、あとから比べられるようにする。

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