第四十四話 大きな地図
魔道具のことを調べ始めてからも、庭の観測は続けた。
毎朝すべてを測るのではなく、杭を打った場所をいくつか選び、自分の感覚と測定具の反応を記録する。時々、記録用の箱も借りる。
十日を超える頃には、最初に使っていた大きな紙では足りなくなっていた。
「増えたな」
机の上には、同じ庭を描いた紙が何枚もある。
日付が違う。
線も違う。
その中に、何度測っても似た特徴が残る場所がある。
木。
井戸。
塀の端。
逆に、日によって大きく変わる場所もある。
最初は一枚の地図を完成させようとしていた。
今はもう、その考えはなくなっている。
「完成しないな」
俺が呟くと、机の端にいたクロムが尻尾を振った。
「別に困ってないけど」
完成しないことが失敗ではない。
変わり続けるものなら、完成した一枚を作ろうとする方がおかしい。
俺は紙を日付順に重ねた。
ここまでやると、別のことが気になってくる。
庭の外だ。
木の近くで特徴が残る。
井戸の近くでも残る。
だったら、大きな川ならどうなる。
森なら。
山なら。
この屋敷よりずっと大きな建物なら。
そして先生が言っていた地脈。
庭で見ているものと同じなのかは分からない。でも、もっと大きな魔素の流れが昔から知られているのなら、それを調べた人もいるはずだ。
「地脈の地図ってある?」
朝の授業が終わったところで聞くと、先生は少し考えた。
「ありますよ」
「あるの?」
思わず立ち上がった。
「ただし、アルス様が想像しているものと同じかは分かりません」
「見たい」
「この屋敷にも、領内のものならあるかもしれませんね」
先生はそう言ったが、どこにあるかまでは知らなかった。
そこで父上に聞くことになった。
昼食のあと、執務室へ向かう。
父上――アルベルトは机の上の書類から顔を上げた。
「地脈図?」
「うん。見たい」
「また妙なものに興味を持ったな」
妙ではない。
庭を調べていたら普通にここへ来ただけだ。
「何に使う?」
「比べたい」
「何と?」
「庭」
父上が黙った。
先生が横で説明してくれた。
ここ十日ほど、俺が庭の魔素を場所と時間に分けて記録していること。人や道具による違いまで調べ始めたこと。
説明が終わる頃には、父上の顔が少し変わっていた。
「庭から地脈まで行ったのか」
「まだ地脈か分からないよ」
「そうか」
父上は笑い、椅子から立った。
「来なさい」
執務室の奥にある棚へ向かう。
書類の束や帳面が並ぶ中から、丸められた大きな紙を一本取り出した。
机の上を片づけ、広げる。
庭で使っている紙とは比べものにならない。
川。
道。
森。
集落。
丘。
領内の地形が描かれている。
俺が知っている場所は、ほんの一部しかない。
「これが地脈図?」
「正確には領地管理用の地図だ。地脈について分かっている場所も書き加えてある」
父上が指を置いた。
普通の地図とは違う線がある。
川でも道でもない。
山側から伸び、途中で枝分かれし、一部は領外へ続いている。
「これ?」
「ああ。この辺りには比較的強い魔素の流れがあるとされている」
俺は顔を近づけた。
線は太い。
庭で俺が描いたものとは全然違う。
細かな曲がりもない。
途中で突然途切れている線もある。
「ここでなくなるの?」
「なくなるとは限らない」
「じゃあなんで線がないの?」
「分かっていないからだ」
その答えは好きだ。
分からないから書いていない。
「誰が調べたの?」
「一人ではない。昔から調べられたものを、領地の管理に必要な範囲でまとめている。魔術師、測量をする者、鉱山を調べる者。目的も時代も様々だ」
「同じ方法で測ってない?」
「おそらくな」
それは困る。
でも同時に面白い。
俺は地図の端を見る。
小さな文字で、いくつか注記がある。
『魔素濃度高』
『季節変動あり』
『地下水脈との関連不明』
『旧記録との不一致』
最後の文字で止まった。
「旧記録との不一致って?」
父上が覗き込む。
「昔の記録と、後の調査結果が合わなかったのだろう」
「変わった?」
「その可能性もある。測り方が違っただけかもしれん」
庭と同じだ。
昨日の線と今日の線が違う。
人によって感じ方も違う。
道具によっても違う。
大きくなっても、同じ問題がある。
俺は急いで部屋へ戻り、庭の紙を持ってきた。
机の上に並べる。
領地の地図。
庭の地図。
大きさが違いすぎる。
「アルス様、それを比べるのですか?」
マリーが不思議そうに聞いた。
「うん」
同じ形を探しているわけではない。
作り方を見る。
領地の地図にある地脈は、一本の線として描かれている。
俺の庭の線は毎日変わる。
「父上、この線っていつの?」
「場所によるな」
「全部同じ日に調べたんじゃない?」
「そんなことは不可能だ」
やっぱり。
領地全部を一度に測れるわけがない。
何年も違う記録が、一枚の地図に入っている。
「季節も違う?」
「当然違うだろう」
「天気も?」
「そこまで記録が残っているものは少ないはずだ」
俺は地図を見る。
昨日までなら、この線を見て「ここに地脈がある」と思ったかもしれない。
今は少し違う。
この線は、世界そのものではない。
誰かが調べた結果を、後から一枚にまとめたものだ。
「これ、本当に今もここにある?」
父上はすぐには答えなかった。
「大きな地脈は急には変わらないとされている」
「されている?」
「ああ」
「調べ直してる?」
「必要があればな」
必要があれば。
その言葉で、この地図の目的が分かった。
これは地脈を研究するためだけの地図ではない。
領地を管理するための地図だ。
道がある。
村がある。
川がある。
鉱山もある。
その中に、必要だから地脈の情報も入っている。
昨日の記録箱と同じだ。
目的が違う。
「これで十分なんだ」
「何がだ?」
「この地図」
父上が少し怪訝な顔をした。
「地脈を全部知るためじゃないなら、これで使える」
「まあ、そういうことだな」
足りない情報があるから悪い地図なのではない。
使う人に必要なものが入っていれば役に立つ。
でも。
俺が知りたいものには足りない。
「もっと地脈だけ詳しく書いた地図は?」
「あるところにはあるだろう。鉱山や魔石の採取地、魔術施設の周辺では詳しく調べられることもある」
「見たい」
「すぐには無理だ」
まただ。
六歳には行けない場所が多すぎる。
「本は?」
「書庫を探してみなさい」
それならできる。
俺は領地図をもう一度見る。
大きな地脈。
庭の小さな変化。
その間には何があるのだろう。
屋敷。
町。
森。
川。
山。
大きさを少しずつ変えて見ていけば、どこかでつながるのかもしれない。
逆につながらないかもしれない。
「父上、この地図、借りていい?」
「駄目だ」
即答だった。
「なんで?」
「領地管理に使うものだからだ」
「見るだけ」
「ここでなら構わん」
持ち出しは禁止らしい。
仕方がないので帳面を出した。
地図そのものを写すつもりはない。
気になったことだけを書く。
『地脈図は、一度に測ったものではない』
『違う時代、違う人、違う方法の記録が混ざる』
『昔と今で一致しない場所がある』
『地図には目的がある』
そこまで書いて、もう一つ足した。
『線は地脈そのものではない』
父上が俺の帳面を見た。
「どういう意味だ?」
「線は紙に書いたものだから」
「それはそうだが」
「本物はもっと動いてるかもしれない」
地図の線は止まっている。
でも魔素は動く。
庭では毎日変わった。
大きな地脈がどれくらい動くのかは知らない。
一年。
十年。
百年。
もっと長い時間なら?
「地脈って昔から同じ?」
「少なくとも、人が暮らす程度の時間では大きく変わらないものも多いとされている」
「全部じゃない?」
「地震や火山活動、大規模な地形の変化の後に、魔素の流れが変わったという記録はある」
地面が変われば、魔素も変わる。
それなら水も。
森も。
生き物も。
また庭へ戻ってきた。
俺は領地図に描かれた川を見る。
地脈の線と近づく場所。
離れる場所。
交わって見える場所もある。
「川と関係ある?」
「ある場合もある」
「山は?」
「あるだろうな」
「地下水は?」
「それも研究されている」
「全部?」
父上が笑った。
「全部が分かっているなら、研究する者はいなくなるだろう」
確かに。
俺は地図から離れた。
答えを見に来たつもりだった。
地脈図を見れば、庭でやっていることの大きな完成形があると思っていた。
違った。
大きな地図にも、分からない場所がある。
測った時代も違う。
方法も違う。
途中で途切れた線もある。
昔と結果が合わない場所まである。
それが少し嬉しかった。
全部分かっている世界ではなかった。
「また見に来ていい?」
「仕事の邪魔をしなければな」
「明日は?」
「早い」
駄目らしい。
部屋へ戻る途中、俺は庭を通った。
いつもの杭が見える。
領地図では、この庭なんて点にもならない。
でも、その小さな場所ですら十日測っても分からないことだらけだった。
だったら、あの大きな地図の線の中には、どれだけの違いが隠れているのだろう。
木のそばでクロムが寝ている。
俺はその横に座り、庭の紙を広げた。
もう、地脈の線を真似して一本にまとめようとは思わない。
変わるなら、変わったまま残す。
分からないなら、空白にする。
違う結果が出たなら、どちらかを消さずに両方残す。
それでいい。
帳面の最後に書いた。
『大きな地図も、世界そのものではない』
そして少し考えてから、その下に続ける。
『地図は、その時までに分かったことの形』
こっちの方が気に入った。
完成した世界を紙に写すのではない。
見た人がいて、測った人がいて、残した人がいる。
それが少しずつ重なって、地図になる。
俺の庭の紙も同じだ。
まだ十日分しかない。
それでも、最初の日にはなかったものが見えている。
俺は領地図の大きさを思い出した。
庭から屋敷へ。
屋敷から町へ。
町から領地へ。
その先には、もっと大きな地図がある。
世界全部を一人で測るなんて無理だ。
でも、一人でやる必要があるとも限らない。
その考えだけは帳面に書かなかった。
まだ早い気がした。
今の俺が持っているのは、庭に打った数本の杭と、十日分の紙だけだ。
まずはそれで十分だった。




