第四十二話 誰もいない庭
数日後、先生が一つの箱を持ってきた。
木でできた小さな箱だった。俺の両手に乗るくらいの大きさで、上には透明な石が一つ埋め込まれている。
「これが記録する道具?」
「正確には、魔素の反応を一定時間残すための魔道具です」
俺は箱を受け取った。
思ったより重い。
裏返すと、底には細い術式が刻まれていた。以前から使っている測定具より複雑に見える。
「ずっと測れる?」
「ずっと、ではありません。内部の魔石に蓄えた魔素が尽きるまでです」
「どれくらい?」
「この状態なら半日ほどでしょう」
十分だ。
むしろ今の俺には長すぎるくらいだった。
「どうやって見るの?」
先生が箱の側面を指した。小さな板が差し込まれている。
「こちらに反応が残ります」
引き抜いてみる。
板には何本かの細い線が刻まれていた。
「数字じゃない」
「ええ。一定以上の反応があった時に、対応する術式へ痕跡を残します。細かな変化をすべて記録するものではありません」
つまり、俺が欲しかったものとは少し違う。
でも、それでいい。
最初から欲しいものが全部揃っている必要はない。
何ができて、何ができないのか。
まずそこからだ。
「使っていい?」
「そのために持ってきました」
庭へ出る。
いつもの杭の前に箱を置いた。
先生が術式を起動すると、上の石が一度だけ淡く光る。
「これで?」
「記録が始まっています」
俺は箱を見る。
何も起きない。
光り続けるわけでもない。音もしない。
ただ置いてあるだけだ。
「離れよう」
俺と先生は庭を出た。
マリーも連れていく。
クロムは木の下にいた。
「クロムも」
黒猫を見る。
動かない。
「クロム」
耳だけが動いた。
「そこにいたら誰もいない庭にならない」
当然、返事はない。
俺は抱き上げた。
クロムは抵抗しなかったが、ものすごく不満そうな顔をしている。
「少しだけ」
そのまま屋敷へ戻った。
窓から庭を見ない。
誰かが近づかないようにも頼んだ。
完全に誰もいないとは言い切れない。
鳥が来るかもしれない。
虫もいる。
地面の中にも生き物はいる。
でも少なくとも、人間とクロムはいない。
今までよりは条件に近い。
「どれくらい待つ?」
「まず一時間ほどでよろしいのでは?」
長い。
一時間。
庭に置いた箱のことが気になる。
「見に行ったら駄目?」
「何のために離れたのです?」
分かっている。
でも気になる。
仕方がないので部屋へ戻った。
帳面を開く。
何を調べているのか整理する。
『人がいる時と、いない時で魔素の反応は変わるか』
その下に条件を書く。
『場所――庭中央の杭』
『時間――午前』
『記録――一時間』
『人――近づかない』
書いてから止まった。
天気。
風。
気温。
昨日まで散々、外では条件が勝手に変わると見てきた。
窓の外を見る。
晴れている。
風は弱い。
それも書く。
「全部は無理だな」
世界は俺の実験のために止まってくれない。
だったら、分かるものだけ残す。
一時間後、庭へ戻った。
箱は同じ場所にあった。
「触っていい?」
「もう止めます」
先生が術式を止め、側面の板を抜いた。
線の一部に、淡い色が残っている。
「これが一時間?」
「この時間に、どの程度の反応があったかを大まかに残したものです」
「いつ変わったかは?」
「分かりません」
そこまでは記録できないらしい。
一時間の途中で大きく変わったのか。
ずっと同じだったのか。
それも分からない。
でも比較はできる。
「次、先生がいる」
同じ場所。
同じ箱。
今度は先生だけが箱の近くに残る。
俺とマリーとクロムは屋敷へ戻った。
また一時間。
結果を見る。
「違う」
先生がいた時の方が、一部の反応が強く残っていた。
昨日までの測定と似ている。
「先生が変えた?」
「まだそうとは言えません」
「分かってる」
一回だけだ。
しかも時間が違う。
最初の一時間と次の一時間では、庭そのものが変わっているかもしれない。
俺は二枚の板を並べた。
誰もいない時。
先生がいた時。
違う。
でも、その理由は分からない。
「順番を逆にしたい」
先生が頷いた。
「明日は、私がいる状態から始めるのですね」
「うん」
もし明日も先生がいる時だけ同じような違いが出れば、少しだけ可能性が高くなる。
それでも足りない。
別の日。
別の天気。
俺。
マリー。
他の人。
比べるものはいくらでもある。
俺は箱を持ち上げた。
「中、見ていい?」
「壊さないのであれば」
「壊さない」
たぶん。
部屋へ戻り、先生に教えてもらいながら蓋を開けた。
中には小さな魔石と、何枚かの薄い板。それらをつなぐように術式が刻まれている。
俺はじっと見る。
「これが感じてる?」
「感じている、という表現が正しいかは分かりませんが、ここが周囲の魔素へ反応します」
先生が一つの術式を指した。
「こっちが記録?」
「そうです」
別の術式。
測る部分と、残す部分。
分かれている。
「じゃあ、もっと細かく残すこともできる?」
「理屈としては可能でしょう。ただし記録する情報が増えれば、術式も複雑になります。必要な魔素も増えますし、記録を残す部分も大きくなるでしょう」
なるほど。
欲しいものを増やせば、道具も大きくなる。
魔素も使う。
複雑にもなる。
何でも入れればいいわけではない。
「これを作った人は、何を残したかったの?」
「長時間その場にいられない時に、大きな魔素反応があったかどうかを確認するためでしょうね」
だから細かい変化はいらない。
目的が違う。
俺は箱を見る。
できないことばかり気にしていた。
でも、この道具は失敗しているわけではない。
俺が別の使い方をしたいだけだ。
「道具って、目的で形が変わるんだ」
「当然でしょう」
先生は簡単に言った。
俺には、その当然が面白かった。
魔法と同じだ。
何を起こしたいのか。
何を知りたいのか。
必要なものが違えば、作り方も変わる。
だったら俺が欲しいのは何だ?
誰もいない場所の魔素を記録する。
できれば途中の変化も知りたい。
時間も分かる方がいい。
でも全部を一度に求めたら複雑になる。
「まず、短くすればいい?」
「何をです?」
「一時間を十分にする」
先生が少し考えた。
「なるほど」
一時間の結果を細かく記録できないなら、測る時間そのものを短くする。
十分ごとに人が取りに行けば、その人が近づいてしまう。
でも箱をいくつか用意して、時間をずらして動かせれば――。
そこまで考えて止まった。
「箱、いっぱい要るな」
「そうなりますね」
高そうだ。
六歳の俺が実験のために何個も使っていい道具ではない気がする。
別の方法を考えた方がいい。
「一個で順番に残せない?」
先生が箱を見る。
「それができれば便利でしょうね」
できない、とは言わなかった。
でも、今すぐ作れるとも言わない。
それでいい。
俺はまだ、この箱の仕組みすら全部分かっていない。
まず使う。
比べる。
どこが足りないのかを見る。
作ることを考えるのは、その後だ。
翌日から、同じ実験を何度か繰り返した。
先生がいる時。
誰もいない時。
順番を変える。
時間を変える。
マリーにも立ってもらう。
結果は毎回同じではなかった。
それでも、人が近くにいる時には反応の出方が変わることが多い。
まだ「人が周囲の魔素を変える」とは書けない。
でも「何も違わない」とも言えなくなった。
俺は帳面に結果を並べ、その下に線を引いた。
『人がいる時といない時で、違いが出ることがある』
それだけ。
原因は書かない。
さらに下へ、新しく書く。
『測る道具には、作った人の目的が入っている』
こっちは今日、かなり分かった気がする。
道具は世界そのものを見せているわけではない。
作った人が「これを知りたい」と決めた部分を見せている。
なら。
本を読む時も同じなのかもしれない。
地図も。
記録も。
誰かが何を残そうとしたのかで、見える世界は変わる。
そこまで書いて、手を止めた。
広がりすぎた。
今は庭でいい。
帳面の最後に、明日の予定を書く。
『記録する魔道具について調べる』
庭を調べていたはずなのに、今度は道具の方へ道が伸びた。
でも、たぶんそれでいい。
世界を知ろうとすると、世界だけを見ていても足りない。
それを見るために使っているものまで、知らなければならないらしい。




