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第三十八話 昨日の線

次の日。


俺は昨日の紙を持って、同じ庭に立っていた。


紙には屋敷と井戸と木と塀。それから、昨日測った場所にいくつもの点が残っている。


点の間には線も引いた。


魔素の反応が似ている場所を、なんとなくつないだ線だ。


正しいとは思っていない。


だからこそ、今日は同じ場所をもう一度測る。


「昨日と同じ順番でやりますか?」


先生が測定具を持ちながら聞いた。


「うん。その方が比べやすい」


庭の中央から始める。


昨日はここで三回測った。


俺は紙を見て位置を確認し、その場所へ立つ。


……たぶん、ここだ。


「先生」


「はい」


「昨日、本当にここだった?」


「その辺りだったと思いますが」


その辺り。


俺は足元を見る。


庭には目印がない。


木や井戸なら場所は変わらない。でも庭の中央に立ったつもりでも、一歩くらいずれているかもしれない。


一歩。


六歳の俺なら大した距離ではない。


でも、昨日は数歩移動しただけで測定具の反応が変わった場所もあった。


「場所が分からない」


先生が少し考える。


「目印を置きますか?」


「置く」


昨日の紙を作った時点で気づくべきだった。


地図に点を書いても、現実のどこを測ったのか分からなければ、同じ場所をもう一度測れない。


マリーに頼んで、小さな木の杭をいくつか持ってきてもらった。


「こちらでよろしいですか?」


「うん」


マリーが杭を一本、地面へ刺す。


少し傾いている。


「マリー、それ斜め」


「地面が斜めなのです」


「ここ平らだよ」


「杭の方が斜めなのかもしれません」


先生が顔を背けた。


たぶん笑っている。


俺は杭を抜いて刺し直した。


庭の中央。


木の近く。


井戸の近く。


塀のそば。


昨日測った場所と完全に同じかは、もう分からない。


だから今日から、ここを基準にする。


紙にも同じ印をつけた。


「これなら明日も分かる」


「杭が抜かれなければ、ですが」


先生の言葉に、俺はクロムを見る。


少し離れた場所で毛づくろいをしていた。


「クロム」


顔が上がる。


「抜くなよ」


当然、返事はない。


でも念のためだ。


最初の杭へ戻る。


目を閉じ、周囲の魔素を感じる。


昨日の記憶を思い出す。


この場所では、もっと均一だった気がする。


今日は少し流れを感じる。


気のせいかもしれない。


「測って」


先生が測定具を置く。


石が淡く光った。


昨日の紙を見る。


「違う」


「そうですね」


「結構違う?」


「昨日より反応が偏っています」


もう一度測る。


少し変わった。


三回目。


また少し違う。


それでも昨日の三回より、今日は一方向の術式が強く反応している。


俺は今日の結果を、昨日とは別の印で紙へ書いた。


「次」


木の近くへ移動する。


ここは昨日、庭の中央より反応が強かった場所だ。


目を閉じる。


昨日と似ている。


先生が測る。


「ここは近い」


「昨日との差は小さいですね」


次は井戸。


ここも違う。


塀。


また違う。


全部測り終えて、紙を地面へ広げた。


昨日の点と、今日の点。


似ている場所もある。


違う場所もある。


「線を引いてみますか?」


先生に言われ、俺は少し迷った。


昨日と同じように、反応が似ている点をつなぐ。


一本。


もう一本。


途中で手が止まった。


「違う」


昨日の線と重ならない。


完全に別物というほどではない。


木の近くには、昨日も今日も似た特徴が残っている。


井戸の周りにも、何かあるように見える。


でも庭の中央や、その間にある場所は違う。


昨日描いた線を、そのまま今日には使えない。


「動いてる」


「魔素は常に流動していますから」


知っていた。


知っていたはずなのに、紙にすると意味が変わった。


昨日ここにあったものが、今日は少し別の場所にある。


川みたいだ。


でも川なら、川岸がある。


水は基本的に同じ場所を流れる。


魔素には、それが見えない。


「地脈も動くの?」


「大きな地脈は、そう簡単には変わらないと言われています」


「じゃあ、これは地脈じゃない?」


「それは分かりません」


また分からない。


でも、昨日より少しだけ問い方が変わった。


大きな流れと、小さな流れ。


変わりにくいものと、すぐ変わるもの。


もしかすると、同じ魔素の流れでも種類が違うのではなく、大きさや時間が違うだけなのかもしれない。


地面のずっと下に大きな流れがあって、その上で小さな流れが揺れている。


そんな想像が浮かぶ。


でも。


俺は紙へ書こうとして、止めた。


「まだ想像だな」


「何か思いつきましたか?」


「うん。でもまだ書かない」


「なぜです?」


「書くと、本当っぽくなるから」


先生が少し驚いた顔をした。


俺自身、言ってから気づいた。


帳面に残すのは便利だ。


でも文字には妙なところがある。


一度書くと、あとで読んだ時に、それが観察したことなのか、その時に考えただけなのか分からなくなることがある。


なら、分ければいい。


「やっぱり書く」


帳面を開く。


『観測』


昨日と今日で測定結果が違う。

木と井戸の近くは比較的似ている。

庭の中央付近は変化が大きい。


その下を一行空ける。


『予想』


大きく変わりにくい流れと、小さく変わりやすい流れが重なっている?


最後に大きく疑問符をつけた。


「これならいい」


先生が覗き込む。


「観測と予想を分けたのですね」


「うん。これなら間違ってても困らない」


予想は間違っていい。


むしろ、間違っているかどうかを見るためにある。


先生が何か言おうとしたところで、マリーの声がした。


「あっ」


振り向く。


マリーが杭につまずいていた。


身体が前へ傾く。


まただ。


右足が出る。


身体が回る。


手に持っていた盆は水平のまま。


何事もなかったように止まった。


「危なかったです」


「だから、それは本当に危なかったの?」


「もちろんです」


マリーの足元を見る。


杭は無事だった。


「よかった」


「私より杭ですか?」


「マリーは転ばないから」


「転びますよ」


「見たことない」


「毎日のように転びそうにはなっています」


それは知っている。


先生がとうとう笑った。


マリーは少し不満そうだったが、俺は杭の位置を確認する。


動いていない。


これで明日も同じ場所を測れる。


いや。


明日だけじゃない。


一週間後。


一か月後。


季節が変わったら?


雨の日。


暑い日。


寒い日。


風の強い日。


同じ場所を長く測り続けたら、何か見えるかもしれない。


俺は紙を見る。


昨日は、庭の魔素を一枚の地図にしようとしていた。


でも、それでは足りない。


庭は同じでも、魔素は同じではない。


「紙、一枚じゃ足りないな」


「また帳面が増えるのですか?」


マリーが嫌そうな顔をした。


「たぶん」


「置き場所も考えてくださいね」


「まだ置けるよ」


「アルス様の『まだ』は信用しておりません」


ひどい。


でも机の上に帳面が増えているのは事実なので、反論できない。


紙をもう一度見る。


同じ庭。


同じ木。


同じ井戸。


同じ塀。


なのに、昨日と今日で線が違う。


だったら地図というものも、一枚では足りないのかもしれない。


場所だけではなく、時間も一緒に残す。


今日の庭。


明日の庭。


一週間後の庭。


それを重ねていけば、変わるものと変わらないものが見えてくる。


俺は今日の日付を紙の隅へ書いた。


昨日の紙にも、昨日の日付を書き足す。


これで二枚。


たった二日分だ。


何も分からない。


でも。


昨日の線が今日消えたことは、失敗ではなかった。


線が変わることが分かった。


それも一つの結果だ。


帰る前に、杭をもう一度確認する。


庭の中央。


木の近く。


井戸。


塀。


明日もここを測る。


同じ場所で。


違う時間に。


俺は帳面の最後へ書いた。


『場所だけでは足りない。時間も残す』


その下へ、もう一つ。


『変わったことも結果』


昨日描いた線が間違いだったのか。


今日の線が間違いなのか。


それとも、両方ともその時だけは正しかったのか。


まだ分からない。


だから明日も測る。


三枚目の庭が、どんな形になるのかを見るために。

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