第三十七話 点をつなぐ
翌朝、俺は庭へ出る前に、紙を一枚持ってきた。
帳面ではない。もっと大きな紙だ。
「今日は何を書くんですか?」
マリーが紙を覗き込む。
「庭」
「お庭を?」
「うん」
「絵を描かれるのですか?」
「たぶん違う」
まだ自分でも、何になるのか分かっていない。
昨日まで俺が見ていたのは、一つの場所だった。同じ場所でも、朝と昼と夕方で魔素の感じ方が違う。測定具の反応も、完全には同じにならなかった。
だったら今度は逆にしてみる。
時間をできるだけ変えずに、場所を変える。
庭へ出ると、先生はすでに待っていた。その手には、昨日まで使っていた魔素測定具がある。
手のひらより少し大きな板。中央には透明な石があり、その周囲を細い術式が囲んでいる。魔素へ反応すると、石と術式が淡く光る。
数字は出ない。
だから、強いか弱いか。どちら側の術式が強く反応したか。自分で感じたものと同じか。そういうものを見る。
「今日はずいぶん大きな紙ですね」
先生も気づいた。
「庭を書こうと思って」
「庭を?」
マリーと同じ反応だった。
俺は紙を地面へ置いた。
屋敷。庭。大きな木。井戸。塀。
正確な大きさは分からない。だから、だいたいでいい。
「ここが今いるところ」
紙の上へ印をつける。
先生が少し考えてから言った。
「地図ですか?」
「地図ってほどじゃない」
道を知りたいわけじゃない。魔素がどうなっているかを見たい。
昨日、同じ場所を時間を変えて調べた。今日は同じ時間に、場所を変えて調べる。
「まずここ」
庭の中央で目を閉じる。
身体の中ではない。外側へ意識を向ける。
空気の中にある魔素。
最初の頃は、ただ「ある」としか分からなかった。今は少し違う。
濃い。薄い。流れている気がする。揺れている。
でも、それが本当に魔素の違いなのか、自分の感覚の違いなのかは分からない。
だから測定具を使う。
先生が地面の上へ置いた。中央の石が淡く光り、周囲の術式にも光が走る。
俺はそれを見て、紙に小さな丸を書く。
「次」
数歩移動する。また目を閉じる。
「……少し違う」
「どう違います?」
「こっちの方が、感じやすい」
先生が測定具を置く。さっきより少し強く見える。
でも、はっきり断言できるほどではない。
もう一度測る。
少し弱い。
三回目は、最初に近かった。
「やっぱり毎回同じじゃない」
「魔素そのものが動いていますからね」
「道具も?」
「道具にも誤差はあります」
それなら、一回だけ見て決めるのは危ない。
紙の丸の横へ小さく印をつけ、次へ進む。
庭の端。井戸の近く。木のそば。塀の近く。
感じる。測る。書く。そして、もう一度測る。
途中からマリーが暇そうになっていた。
クロムはもっと早く飽きたらしい。大きな木の根元で丸くなっている。
「クロムのところも測る」
「猫を測るのですか?」
「場所」
近づくと、クロムが片目だけ開けた。動く気はないらしい。
「ちょっとどいて」
尻尾だけが動いた。
「クロム」
動かない。
仕方がないので、少し離れた場所を測る。
目を閉じた瞬間、違いを感じた。
「あれ?」
昨日も、この木の近くでは少し違った。
木のそば。根のある場所。土。
何が原因かは分からない。
先生が測定具を置く。中央の石が光り、木に近い側の術式が少し強く反応した。
「昨日と似てる」
「そうですね」
紙を見る。
庭の中央。井戸。塀。木。それぞれに印がある。
でも、これではただ点が並んでいるだけだ。
俺は木と庭の中央の間を見る。
「ここも測りたい」
「構いませんよ」
半分くらいのところへ移動して測る。印をつける。
さらにその半分。
また測って、印をつける。
紙の上に点が増えていく。
先生が俺の手元を見ていた。
「何を探しているのです?」
「境目」
「境目?」
「木の近くと真ん中で違うなら、どこから変わるのかなって」
木の根元だけ急に違うのか。少しずつ変わるのか。それとも途中に別の場所があるのか。
測ってみる。
はっきりした線は見つからない。
木へ近づくほど、少しずつ反応が変わっているようにも見える。でも完全には揃わない。
風が吹いた。
葉が揺れる。
測定具の光も、ほんの少し揺れた。
「風?」
俺が言うと、先生は首を傾げた。
「可能性はあります」
「風が魔素を運んでる?」
「それだけでは説明できない場所もあります」
「じゃあ地面?」
「それも関係しているでしょう」
「木?」
「それもあるかもしれません」
全部ある。
困る。
俺は紙を見た。
原因を一つ探しているのに、世界の方が一つになってくれない。
風。地面。木。水。時間。天気。
そこに生き物までいる。
「これ、一個ずつ調べられないな」
先生が笑った。
「外ですからね」
その言葉で少し納得した。
部屋の中なら、かなり条件を揃えられる。同じ机。同じ木片。同じ距離。それでも完全には同じにならなかった。
外なら、もっと無理だ。
風を止められない。木を消せない。地面も動かせない。空も変えられない。
だったら。
全部を止めて調べるんじゃなくて、動いているものを動いているまま見る方法が必要になる。
俺は紙へ視線を戻した。
点がいくつもある。
一つだけなら、ただの測定結果だ。
でも並べると。
「……形に見える」
「何がです?」
「まだ分からない」
木の近くにある点。庭の中央にある点。井戸の近くにある点。
それぞれの反応を思い出しながら、似ているものをなんとなく線でつないでみる。
正しい線ではない。
本当にそこを魔素が流れているかも分からない。
ただの予想だ。
それでも、点だけを見ていた時にはなかったものが、紙の上に現れた。
「流れみたい」
先生がしゃがみ込み、しばらく紙を見る。
「面白いですね」
「あるの?」
「魔素の流れそのものは、昔から知られています」
やっぱり。
少し安心する。
自分だけが変なものを見つけたわけではない。
「地脈も?」
「もっと大きな流れを、そう呼ぶことがあります。ただ、アルス様が今描いているものと同じかどうかは分かりません」
俺は線を見る。
世界には地脈がある。それは知っている。
でも。
「大きい流れがあるなら、小さい流れもある?」
「あるかもしれません」
「地脈の近くだと、全部同じ方向に流れる?」
「そうとは限りません」
「木があったら?」
「変わるかもしれません」
「川は?」
「変わるでしょうね」
「建物は?」
先生が笑った。
「一つずつ調べましょう」
また増えた。
俺は紙の余白へ書く。
『木』
『水』
『地面』
『風』
『建物』
その下に少し考えて、
『生き物』
も足した。
クロムを見る。
まだ寝ている。
「クロムがいる時といない時も違うかな」
金色の目が開いた。
なぜか嫌そうな顔をされた気がした。
「測らないよ」
目が閉じた。
本当に猫なのか、たまに疑いたくなる。
昼が近づく頃には、紙は印だらけになっていた。
きれいな地図ではない。線も適当。測った場所も少ない。明日になれば結果が変わるかもしれない。
それでも、捨てる気にはならなかった。
一つの場所を測る。別の場所を測る。時間を変える。また測る。
それを重ねれば、いつかこの庭の魔素がどう動いているのか見えるかもしれない。
庭で見えるなら、その外も。
屋敷の周り。
森。
川。
町。
もっと遠く。
そこまで考えて、俺は紙を畳んだ。
まだ庭すら分かっていない。
順番だ。
まずは目の前から。
「明日も測る」
先生が頷く。
「同じ場所を?」
「うん。同じ場所」
昨日と今日で違うなら、今日描いたこの線も明日には違うかもしれない。
それなら、それも記録すればいい。
俺は帳面を開き、最後に一行だけ書く。
『点をつなぐと、流れに見える』
少し迷ってから、その後ろへ付け足した。
『見えるだけかもしれない』
今は、それでいい。
分からないものを、分かったことにしない。
その代わり。
分からないまま、次も見る。




