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第三十六話 同じ場所の別の顔

翌朝、俺は庭へ出る前に窓を開けた。


少し冷たい空気が入ってくる。庭にはまだ長い影が残り、昨日測った大きな木の葉が小さく揺れていた。


机の上には、先生から借りた測定具がある。


昨日の最後に気づいたこと。


風を記録していなかった。


だから今日は、測る前に書いた。


『朝』

『晴れ』

『少し風』


正確な時刻も、風の強さも分からない。


それでも昨日よりはいい。



「アルス様、朝食前ですよ」


後ろからマリーの声がした。


「ちょっとだけ」


「その言葉を信用してよいのでしょうか」


「測るだけ」


「何をです?」


俺は窓の外を指した。


「昨日と同じ場所」


マリーは庭を見て、それから俺を見る。


「昨日測ったのでしたら、もう分かっているのでは?」


「今日は昨日じゃないから」


マリーが黙った。


自分で言っておいて、少し変な答えだと思う。


でも、間違ってはいない。


昨日と同じ木でも、今日は昨日ではない。



結局、朝食までという条件で庭へ出ることを許された。


先生はいない。


だから魔法の練習はしない。測定具も、決められた使い方だけにする。


まず、いつもの練習場所。


測定具を置き、反応を見る。


一回。

少し待って二回。


三回目。


やはり毎回、少しずつ違う。


俺は昨日描いた図と見比べた。


「……昨日とも違う?」


大きな差ではない。


見間違いかもしれない程度だ。


だから、


『昨日と少し違うように見える。確信なし』


と書く。



次に、大きな木のそば。


ここは分かりやすかった。


昨日と同じように、木側の反応が強い。


でも。


「同じじゃない」


昨日の図では、もっと広い範囲が反応していた。


今日は一部分が強く、その周囲は少し弱いように見える。


三回測っても、似た傾向だった。


『木側が強いのは同じ』

『反応の仕方は昨日と少し違う』


理由は書かない。


朝だから。

風だから。


気温かもしれない。


木そのものの状態かもしれない。


測定具の状態かもしれない。


そもそも俺の図が不正確なだけかもしれない。



「アルス様」


マリーが呼んだ。


「あと別の木」


「朝食が冷めます」


「一回」


「冷めます」


強い。


俺は測定具を抱えた。


「昼も測る」


「それは先生とご相談ください」


許可ではなかった。



朝食のあと、先生へ話すと、意外にもすぐ賛成してくれた。


「同じ場所を時間を変えて見るのですね」


「うん。朝と昼と……できたら夕方」


「良いでしょう。ただし今日は、魔法の練習を減らします」


「え」


「全部やれば疲労も増えます」


また条件だ。


俺は少し考えて、測定を選んだ。


魔法は明日もできる。


今日の朝は、今日しかない。



昼。


同じ場所へ行く。


天気は晴れたまま。


ただし朝より暖かい。

風も弱くなったように感じる。


まず自分で外の魔素を感じてから、測定具を使った。


いつもの場所。


三回。


木のそば。


三回。


別の木も三回。


「違う」


今度は朝より分かりやすかった。


大きな木のそばの反応が、朝とは少し違う。


俺自身が感じる流れも違う気がする。


先生へ帳面を見せる。


「時間で変わってる?」


「その可能性はあります」


「朝と昼だから?」


「それもまだ分かりません」


そうだった。


時間が変われば、時間以外のものも変わる。


気温。

光。


風。

植物の状態。


人や動物の動きだって違う。


朝と昼を比べただけで、「時間が魔素を変えた」とは言えない。


「時間だけ変えるって無理じゃない?」


思わず言った。


先生は少し考える。


「自然の中では難しいでしょうね」


困った。


条件を一つだけ変えたい。


でも世界の方が勝手にいくつも変えてしまう。



俺は木を見上げた。


葉が揺れている。


昨日とは風が違う。

朝とも違う。


同じ木なのに、光の当たり方も違う。


「実験室なら?」


「条件をそろえやすくすることはできます」


「でも木を持っていけない」


「そうですね」


先生が笑った。


俺は笑えなかった。


世界は実験のために動いているわけではないらしい。



「じゃあ、どうするの?」


先生に聞く。


「何がでしょう?」


「外を調べたい時。勝手にいろいろ変わるなら、一個ずつ比べられない」


先生はすぐには答えなかった。


「記録します」


やがて、そう言った。


「全部?」


「全部は無理です」


俺は先生を見る。


「では?」


「その時に分かる範囲で、関係しそうなものを残します。そして同じ観測を繰り返します」


一回で答えを出さない。


またそこへ戻ってきた。


「たくさん見たら、何度も一緒に変わるものが出てくる?」


「そういうこともあります」


なるほど。


一回の朝と昼だけでは分からない。


でも何日も見る。


晴れの日。

曇りの日。


風のある日。

ない日。


季節まで変わったら?


同じ木をずっと見ていれば、何かが見えるかもしれない。



夕方。


三回目の観測をした。


朝より空気が暖かい。

昼より風が出ている。


太陽は低くなり、大きな木の反対側へ長い影が伸びていた。


俺自身が感じる外の魔素も、朝や昼とまったく同じには思えない。


測定具にも違いが出た。


ただし。


三回の観測だけを並べても、きれいな規則にはならなかった。


朝より昼が強く、夕方はさらに強い。


そんな分かりやすい結果ではない。


場所によって反応の変わり方も違う。


「ぐちゃぐちゃ」


俺は三枚の図を見る。


期待していたものとは違った。


時間順に並べれば、何か一目で分かると思っていた。


分からない。


先生が横から見る。


「残念ですか?」


「ちょっと」


これは素直に残念だった。


でも。


三枚を捨てようとは思わない。


今日だけでは分からなかった。


それも結果だ。



部屋へ戻り、朝、昼、夕方の記録を机いっぱいに広げた。


クロムが近づいてきたので、先に紙を押さえる。


「今日は乗るなよ」


クロムは空いている場所へ座った。


珍しく協力的だ。



三つの記録をもう一度見る。


同じ場所。

同じ測定具。


できるだけ同じ置き方。


それでも結果は完全にはそろわない。


昨日とも違う。


俺は新しいページに書いた。


『場所は固定できても、環境は固定できない』


少し考えて、その下へ続ける。


『同じ場所でも、同じではない』


これは結構大きい気がする。


地図なら、木はいつも同じ場所に描かれる。


川も。

山も。


でも実際の世界は、その絵のまま止まっているわけではない。


水は流れる。


風は吹く。


生き物は動く。


魔素も動いている。



以前、地脈について聞いた。


土地には大きな魔素の流れがある。


その時の俺は、地下に見えない川のようなものが固定されている姿を想像していた。


でも。


本当に固定されているのだろうか。


川だって水量は変わる。


地下水も変わる。


季節もある。


だったら地脈も?


そこまで考えて、筆を止めた。


まだ飛びすぎだ。


俺が今日見たのは庭だけ。


地脈を測ったわけではない。


『地脈も変化する?』


疑問符をつけて、ページの端へ残す。


今はそれでいい。



次に、今日記録できなかったものを書く。


正確な気温。

風の強さ。


湿度。


光の強さ。


土の状態。


全部、今の俺にはきちんと測れない。


でも「測れない」と分かれば、必要な道具を探せる。


俺はふと気づいた。


第35話では、見る方法を増やせばいいと思った。


でも方法を増やすほど、今度は記録するものまで増える。


「終わらないな」


クロムが欠伸をした。


同意ではないだろう。


たぶん。



俺は三枚の記録を重ねず、日付と時間帯を書いて別々に残した。


今は意味が分からなくてもいい。


いつか似た記録が増えた時、比べられる。


今日の観測だけでは答えにならない。


でも今日を残さなければ、未来の観測と比べることもできない。



最後に一行を書く。


『世界は、場所だけでは記録できない』


どこで。


いつ。


どんな状態で。


何が起きたのか。


それを残す。


たぶん地図だけでは足りない。


地図の上に、時間を重ねる必要がある。



窓の外は、もう朝とはまったく違う色になっていた。


同じ庭。


同じ木。


同じ場所。


それでも世界は、朝からずっと変わり続けていた。


俺が見ていなかっただけで。


きっと昨日も。


その前の日も。


ずっと。

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