第三十四話 何もない場所
庭の空気は、何もないように見える。
もちろん、本当に何もないわけではない。
空気がある。
光がある。
匂いも、温度も、湿り気もある。
そして。
魔素がある。
五歳の頃、俺は先生に教わって外の魔素を感じた。
自分の身体を巡る魔素とは違う。
大気や地面、生き物の周り。
この世界のどこにでも存在しているもの。
それなのに。
今まで魔素を飛ばす練習をしている時、俺は飛ばす方ばかり見ていた。
「先生」
練習を始める前に、俺は地面の印を指した。
「ここからあそこまで、外の魔素って同じ?」
先生が周囲を見る。
「まったく同じ、とは言えないでしょうね」
「こんな近くでも?」
俺が使っている練習場所は狭い。
飛ばしている距離なんて、ほんの数歩分だ。
「変化が小さければ、アルス様には分からないかもしれません。それでも完全に均一だと決める理由はありません」
なるほど。
俺は帳面を開いた。
『周りの魔素も条件?』
疑問符をつける。
「感じてみてもいい?」
「今日は飛ばす前に、それをやってみましょう」
俺は目を閉じた。
自分の中の魔素ではなく、外へ意識を向ける。
最初の頃よりは楽になった。
身体のすぐ外。
空気の中。
地面の近く。
ぼんやりと、そこにあるものを感じる。
でも。
「……同じに感じる」
「それも結果です」
先生が言う。
「違いがない?」
「違いを感じ取れなかった、ですね」
「あ」
またやった。
俺は書き直す。
『この範囲では、俺には違いを感じ取れない』
これならいい。
「場所を変えたら?」
俺は庭を見回した。
開けた場所。
木のそば。
建物の壁際。
日向。
日陰。
全部、同じ庭だ。
でも環境は違う。
「試してみますか?」
「うん」
最初に、いつもの場所。
しばらく外の魔素を感じる。
次に大きな木のそばへ移動した。
幹へ触れない程度の距離で立つ。
目を閉じる。
「……違う」
すぐ分かった。
魔素が多い、という感じとは少し違う。
動いている。
地面からなのか。
木からなのか。
それとも周りから集まっているのか。
まだ分からない。
ただ、いつもの場所より流れが分かりやすい。
「木の近く、動いてる」
「そう感じますか」
「先生も?」
「感じます」
よかった。
俺だけの勘違いではないらしい。
でも、それだけでは足りない。
「木があるから?」
「可能性は高いでしょうね」
「木の魔素?」
「それも含まれているでしょう」
含まれている。
つまり一つではない。
木自身の魔素。
周囲の魔素。
地面の流れ。
もしかすると水も。
俺は以前聞いた地脈の話を思い出した。
大きな流れだけではなく、小さな違いもそこら中にあるのかもしれない。
「ここで飛ばしていい?」
先生が少し考える。
「いつもより短い距離から始めましょう」
俺は板を木の近くへ運んだ。
棒も。
紐も。
いつもの実験道具が引っ越してくる。
「同じ条件じゃなくなった」
自分で言って気づいた。
地面が違う。
周りも違う。
立つ場所まで変わっている。
「でも今日は、それを変えるんだよね」
「そうです」
場所を変える。
その結果を見る。
他は、できるだけ同じにする。
まず丸い魔素。
今まで一番安定している形だ。
右手へ集める。
外へ出す。
形を作る。
「……ん?」
少し変な感じがした。
作れないわけではない。
でも、いつもの場所より外側が気になる。
周囲の魔素の流れを感じてしまう。
「集中しにくい」
「外を意識した直後だからかもしれませんね」
そうか。
場所のせいとは限らない。
俺自身が、いつもと違うことをしている。
帳面へ書く。
『木のそば――集中しにくい』
『ただし、直前に外の魔素を強く意識した』
これでは比較しにくい。
「一回、戻る」
いつもの場所へ移動した。
同じように外の魔素を感じる。
そのあと魔素の塊を作る。
「あ」
ここでも少し難しい。
先生を見る。
「場所じゃなかった?」
「少なくとも、それだけではなさそうですね」
原因候補が一つ減った。
外の魔素へ意識を向けたあと、自分の魔素だけへ集中する。
その切り替えがまだ下手なのかもしれない。
「今日は実験失敗?」
聞くと、先生は首を傾げた。
「何も分からなかったのですか?」
考える。
木の近くでは、外の魔素の流れを感じやすかった。
そして。
外へ強く意識を向けた直後は、いつもの操作まで少し変わった。
「分かったことある」
「では、失敗ではありませんね」
そうだった。
少し休む。
今度は魔法を飛ばさない。
外の魔素だけを見ることにした。
いつもの場所。
木のそば。
壁際。
三か所を順番に回る。
一回ではなく、何度か。
木のそばは、やはり違いを感じやすい。
壁際は――。
「分からない」
何か違う気もする。
でも自信がない。
「分からないなら?」
先生が聞く。
「分からないって書く」
もう慣れた。
帳面にそのまま残す。
最後に日向と日陰も試した。
こちらも、俺にははっきりした違いが分からなかった。
「もっと練度が上がったら分かる?」
「分かるようになるものもあるでしょう」
「全部?」
「それは保証できません」
当然か。
人間の目だって、どれだけ鍛えても見えないものはある。
耳も同じ。
魔素を感じる能力だって、無限ではないのだろう。
だったら道具が必要になる。
以前見た測定具。
「先生」
「はい」
「測定具を場所ごとに置いたら?」
「比較できますね」
「木の近くと、ここ」
「できます」
「地面も?」
「調べ方を変えれば」
やっぱり。
自分で感じられないなら、別の目を使えばいい。
俺は少し嬉しくなった。
その日の授業は、ほとんど魔法を飛ばさずに終わった。
部屋へ戻る。
帳面を開き、今日の結果を並べる。
『いつもの場所――大きな特徴は感じない』
『木のそば――流れを感じやすい』
『壁際――分からない』
『日向と日陰――今の俺には違いが分からない』
これだけ見ると、地味だ。
でも。
俺は第28話から使っている実験条件の一覧を見た。
立つ位置。
手の高さ。
距離。
魔素の量。
呼吸。
疲労。
そこへ新しく書く。
『周囲の魔素』
少し考えて、
『場所』
も加えた。
同じ魔法を使っているつもりでも。
場所が変われば、周りは変わる。
森。
街。
山。
川。
地下。
魔素の濃い場所。
薄い場所。
地脈の近く。
もし周囲の魔素が魔法へ影響するなら、同じ術者が同じ操作をしても、世界のどこでも同じ結果になるとは限らない。
そこまで考えて。
俺は手を止めた。
「……それ、困るな」
再現したいのに。
場所まで条件に入るなら、急に面倒になる。
でも。
面倒だから無視していいわけではない。
むしろ逆だ。
どこまでなら無視できるのか。
どこから影響が大きくなるのか。
それが分かれば、場所が違っても使える方法を考えられるかもしれない。
窓辺にクロムがいた。
俺は黒い背中を見る。
こいつの魔素は、今でもよく分からない。
でも以前とは少し考え方が変わった。
クロムだけを見る必要はないのかもしれない。
クロムの近くと。
クロムがいない時。
周囲に違いはあるのか。
思いついて、すぐ帳面へ書きかける。
そして止めた。
「……まだいいか」
やることが増えすぎる。
クロムが振り返った。
「お前は後回し」
尻尾が一度動いた。
不満なのかもしれない。
たぶん違う。
俺は新しいページを開いた。
真ん中に、
『外』
と書く。
これまで俺が見ていたのは、自分の身体と、自分が出した魔素だった。
でも魔法は、その二つだけで起きているわけではない。
その周りには最初から世界がある。
空気。
地面。
生き物。
そして魔素。
俺が何かをする前から、全部そこにある。
最後に一行を書く。
『何もない場所は、何もないわけではない』
俺が魔素を飛ばす時。
それは空っぽの世界を進んでいるのではない。
すでに動いている世界の中へ、自分の操作を一つ加えている。
そう考えると。
今まで見ていた魔法が、少しだけ別のものに見えてきた。




