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第三十一話 六歳の帳面

六歳になった。


だからといって、朝起きた瞬間に何かが変わったわけではない。


身体が急に大きくなったわけでも、使える魔法が増えたわけでもない。クロムも相変わらず喋らないし、マリーは相変わらず何もないところで躓く。


「おっと」


廊下を歩いていたマリーの身体が傾く。


その手には、俺の着替えと水差しが載った盆。


落ちる。


そう思った瞬間、右足が一歩出た。


腰が沈み、盆だけがほとんど水平のまま残る。そのまま身体を回して姿勢を戻し、水差しからは一滴もこぼれなかった。


「危なかったです」


「……それ、本当に危なかった?」


「もちろんです」


一年近く見てきたが、俺にはもう分かっている。


たぶんこの人は、転びそうになるところまでが普通なのだ。


そこから先がおかしい。


「アルス様?」


「なんでもない」


俺は諦めて部屋へ入った。


机の上には、何冊かの帳面が積まれている。


五歳になったばかりの頃には、一冊あれば十分だと思っていた。


全然足りなかった。


魔素。

魔法。

魔石。

魔物。

道具。

食べ物。

市場。

値段。


気になったものを書いているうちに、一冊目はすぐに埋まった。


二冊目からは少し分けた。


魔法について試したこと。

本や人から聞いたこと。

外で見つけたもの。


最初からきれいに分類したわけではない。後になって探すのが面倒になったから、分けただけだ。


それでも最近は、自分が何を知りたいのか少し分かるようになってきた。


俺は魔法を使いたい。


それは間違いない。


でも、派手な魔法を一発撃てれば満足するわけではなかった。


どうして動いたのか。

何を変えたら結果が変わるのか。

同じことをもう一度できるのか。


そっちの方が気になる。


そのせいで、この一年で俺の魔法は妙な伸び方をした。


「今日もやりますか?」


庭で先生が聞く。


「やる」


いつもの位置に立つ。


目印にしていた木片は、もう使っていない。


今は地面にいくつかの印がある。


近い印。

少し遠い印。

さらに遠い印。


俺は手の前へ魔素を集めた。


外へ出す。


形を保つ。


前へ流す。


淡い塊が静かに進み、二つ目の印を越えたあたりで崩れた。


「もう一回」


同じ操作をする。


今度は少し手前。


三回目は、ほぼ同じ場所。


俺は帳面へ書き込んだ。


先生が覗き込む。


「以前より、ずいぶん安定しましたね」


「うん」


嬉しくないわけではない。


最初は木片まで届くだけで喜んでいた。それが今では、同じくらいの距離へ何度も届く。


でも、その代わりに別のことが気になっている。


「先生」


「はい」


「これ、なんで止まるの?」


先生が飛んでいった魔素の方を見る。


「形を維持できなくなるからですね」


「なんで維持できなくなる?」


「術者から離れるほど、操作が難しくなるからです」


知っている答えだった。


だから、もう一つ聞く。


「離れたら、何が変わるの?」


先生が黙った。


俺も黙る。


すぐ答えが返ってこないときは、だいたい面白い。


「……難しい質問ですね」


やっぱり。


「魔素そのものが消えているわけではありません。周囲へ散っています」


「うん」


「術者とのつながりが弱くなる、と説明する者もいます。操作できる範囲から外れる、と説明する者もいます」


「同じこと?」


「似ていますが、同じとは限りません」


それも面白い。


俺は地面へしゃがんだ。


さっき魔素が崩れた辺りを見る。


もちろん、何かが落ちているわけではない。


「じゃあ、遠くまで動かす方法も一つじゃない?」


先生が少し笑った。


「おそらく」


俺は立ち上がる。


これまでやっていたのは、自分の手元で形を作り、その形をできるだけ保ったまま前へ動かす方法だった。


だったら別のやり方は?


もっと強く押す。


それは前に試した。

速くなることはあったが、早く崩れることもあった。


もっと多く魔素を使う。


それも単純すぎる。

量が増えれば操作するものまで増える。


形を変える。


これはまだ、あまり試していない。


俺は手の前へ魔素を集めた。


いつもの丸い形。


そこから少し細くする。


「アルス様」


先生の声が変わった。


「分かってる。飛ばさない」


形を見るだけだ。


丸かったものを細くする。


すぐ崩れた。


「あ」


失敗。


もう一度。


今度は最初から少し細長い形を作ろうとする。


これも崩れる。


三回目。


やっぱり丸に近づく。


「丸い方が楽」


「今のアルス様には、でしょうね」


その言い方で気づいた。


「人によって違う?」


「もちろんです。得意な形も、操作も違います」


また増えた。


同じ魔法でも方法が違う。

同じ方法でも人によって違う。


だったら、一人で試した結果だけを世界のルールだと思ったら危ない。


俺は帳面を開く。


『丸い方が保ちやすい』


書いてから、その前に二文字足した。


『俺は』


これでいい。


先生が横から見ていた。


「ずいぶん慎重な書き方をするようになりましたね」


「前に間違えたから」


想像するだけでは火が出ない。


そう書きかけたことがある。


正しくは、あのときの俺には出せなかっただけだった。


一回の失敗で世界の仕組みを決めてはいけない。


一回の成功でも同じだ。


だから試す。


条件を変える。

戻す。

もう一度やる。


それを一年近く繰り返してきた。


派手なことは何もしていない。


空を飛べるようになったわけでもない。

巨大な火を出せるようになったわけでもない。


六歳の俺ができるのは、身体の中の魔素を感じて、動かして、少し身体を強化すること。


そして外へ出した魔素を、ある程度形にして動かすこと。


たったそれだけだ。


でも五歳になった朝とは違う。


あの頃は、魔素が動いただけで驚いた。


今は。


動いたら、その次が気になる。


「先生」


「はい」


「丸じゃなくても、同じくらい安定させられるようにしたい」


「何のためにです?」


俺は少し考えた。


特にない。


まだ用途は決めていない。


ただ、形を変えたときに何が変わるのか見たい。


「比べたいから」


先生はしばらく俺を見て、それから笑った。


「では、明日から形の練習を増やしましょう」


「明日?」


「今日は終わりです」


「まだできる」


「六歳になっても、そこは変わりませんね」


先生が帳面を閉じた。


取り上げられた。


「マリー」


「はい」


少し離れたところで待っていたマリーが、にこやかに近づいてくる。


逃げ道がなくなった。


「昼食のお時間です」


「あと一回」


「昼食のお時間です」


「形を見るだけ」


「昼食のお時間です」


強い。


この一年で俺の魔素操作はかなり上達した。


でもマリーを突破する方法は、まだ見つかっていない。


諦めて屋敷へ戻る。


その途中、クロムが庭の端を歩いていた。


細い塀へ飛び乗り、その上を当然のように進んでいく。


俺はなんとなく足を止めた。


猫の身体は細長い。


丸くない。


それでも崩れない。


「……当たり前か」


生き物と魔素の塊を一緒にするのは違う。


でも。


形が違えば、動き方も変わる。


それくらいなら同じかもしれない。


丸いもの。

細いもの。

平たいもの。


同じ量の魔素でも、形を変えたら何が変わるのか。


進みやすさ。

保ちやすさ。

動かしやすさ。


もしかすると、当たったときの違いもある。


そこまで考えて、俺は止めた。


まだ早い。


まずは形を作れるようになること。


順番を飛ばすと、何が原因で結果が変わったのか分からなくなる。


部屋へ戻る前に、先生から帳面を返してもらった。


最後に一行だけ書く。


『次――形を変える』


一年経っても、やっていることはあまり変わっていない。


分からないものを見つける。


試す。


失敗する。


少し分かる。


すると、その向こうにまた分からないものが現れる。


どうやら世界というものは、調べれば調べるほど小さくなるようにはできていないらしい。


むしろ逆だった。


俺の帳面と同じように。


知れば知るほど、次のページが必要になる。

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