第三十話 届くまで
次の練習の日。
地面には、前回と同じ紐が伸びていた。
その先には、同じ木片が置かれている。
前回、一度も届かなかった場所だ。
俺は板の線に足を合わせ、棒の印へ手の高さをそろえた。
「今日は、あそこまで」
木片を指す。
先生が頷いた。
「届かせることが目標ですか?」
「違う」
自分で答えてから、木片を見る。
「何回やっても、だいたいあそこまで届くようにする」
一回だけ届いても意味がない。
前回までの俺なら、届いた瞬間に次の距離を考えていたかもしれない。
今日は違う。
まず、同じことを繰り返す。
一回目。
右手へ魔素を集める。
外へ出し、小さな塊を作る。
形を保つ。
そこへ前方向の流れを加えた。
魔素の塊が動く。
前回より滑らかだった。
だが、木片の少し手前で形が崩れた。
「足りない」
帳面へ結果を書く。
二回目。
今度は前へ動かそうとする意識が強すぎた。
塊は速く動いたが、途中で大きく崩れた。
俺はすぐに書く。
『速くなった』
『でも短い』
先生が横から帳面を見る。
「速く動いたのですから、成功では?」
「木片まで届いてない」
「では、もっと強く押しますか?」
俺は少し考えた。
前ならそうしたと思う。
強くする。
速くする。
たくさん魔素を使う。
でも二回目は、一回目より速かったのに早く崩れた。
「強くしたら届くとは限らない」
先生が笑った。
「そのようですね」
俺は一回目と二回目を見比べた。
違うのは移動させる操作の強さだけではないかもしれない。
俺自身が完全に同じ操作をできているわけではないからだ。
それでも、今見えている結果だけなら。
速さを上げればいい、とは言えない。
三回目。
今度は速くしようとしない。
形を保つ方へ意識を残す。
その状態で、ゆっくり前へ流す。
塊が進む。
少し揺れる。
保つ。
さらに進む。
木片のすぐ手前。
あと少し。
そこで消えた。
「惜しい」
思わず声が出る。
先生は何も言わなかった。
たぶん、俺がすぐ次をやろうとすると思っている。
俺は帳面を開いた。
先に記録する。
「やらないのですか?」
「忘れるから」
先生が笑った。
記録を書き終えてから、少し休む。
四回目。
同じ位置。
同じ高さ。
できるだけ同じ量。
同じくらいの形。
形を保ちながら動かす。
魔素の塊が進んだ。
木片へ近づく。
そして。
その真上を通り過ぎた。
「あ」
届いた。
勢いよく飛んだわけではない。
木片を吹き飛ばしたわけでもない。
ただ、淡い魔素の塊が目標の位置を越え、その少し先で崩れただけだ。
それでも俺は嬉しかった。
「届いた」
「届きましたね」
先生も頷く。
俺は帳面へ書こうとして、止まった。
成功。
そう書きたくなる。
でも一回だ。
だから、
『一回、木片を越えた』
とだけ書いた。
「もう一回」
五回目。
今度は届かなかった。
「やっぱり」
不思議とがっかりしなかった。
むしろ少し安心した。
一回できただけで完成ではない。
自分で決めた通りだ。
六回目は木片の少し手前。
そこで休憩。
七回目。
届いた。
八回目。
また届いた。
三回続けて成功させたくなったが、先生に止められた。
「今日はそこまでです」
「もう一回だけ」
「疲れ始めています」
俺は腕を確認した。
少し重い。
「……条件が変わる」
「ええ」
仕方ない。
木片を見ながら座る。
今日八回試して、木片を越えたのは三回。
三回しか、ではない。
三回も、でもない。
ただ三回。
今はそれでいい。
「先生なら全部届く?」
「この程度の操作なら、おそらく」
「毎回同じ場所まで?」
先生は少し考えた。
「かなり近づけることはできます。ただ、まったく同じ位置で消すとなれば、それは別の練習になりますね」
また分かれた。
動かす。
届かせる。
止める。
同じ場所で止める。
一つできるようになるたび、その中から次の操作が見つかる。
終わる気がしない。
でも、それが嫌ではなかった。
「先生」
「はい」
「魔法って、完成するの?」
先生が少し驚いた顔をした。
「どういう意味でしょう?」
「これで終わり、ってなる?」
先生はしばらく考えた。
「目的によるでしょうね」
また用途だ。
俺は笑った。
「その答え、多いね」
「便利な答えですから」
「ずるい」
「正しいとも言います」
たぶん正しい。
火をつけたいだけなら、火がつけば十分かもしれない。
遠くへ飛ばしたいなら、距離が必要になる。
同じものを何度も作りたいなら、再現性が必要になる。
何を完成と呼ぶかも、目的で変わる。
練習を終えて部屋へ戻る。
俺は八回分の記録を机へ広げた。
成功した三回だけを見ても意味がない。
届かなかった五回も同じように残す。
何が違ったのか。
まだ分からない。
でも記録が増えれば、あとで見えるかもしれない。
俺は新しいページへ書いた。
『届いたかどうかだけを見ない』
その下へ、
『どうやったら、また届くかを見る』
と続ける。
一回できること。
何度もできること。
誰かに説明できること。
その人もできること。
まだ全部は遠い。
でも、その方向へ進む方法は少し分かってきた。
クロムが机へ飛び乗った。
例の木片を見つける。
嫌な予感がした。
「待て」
前足が伸びる。
木片が机から落ちた。
ころころと床を転がり、俺の椅子よりずっと遠くまで行った。
「だから、その動かし方じゃないって」
クロムは俺を見る。
そして机の上で丸くなった。
俺は床の木片を拾う。
猫なら一回で簡単に届く距離だった。
でも、それでいい。
俺が調べているのは、木片を遠くへやる方法ではない。
魔素を。
自分が決めた形で。
自分が決めた方向へ。
何度でも動かせるようにする方法だ。
机へ戻り、最後の一行を書く。
『できた、では終わらない』
一度できたことを、もう一度できるようにする。
そして、なぜできたのかを残す。
たぶん俺は、これからも同じことを繰り返す。
世界のどこかで面白いものを見つけるたびに。
できるか試して。
失敗して。
比べて。
残して。
また試す。
五歳になってから増え続けていた帳面は、もう最初の一冊だけでは足りなくなり始めていた。
俺は次の帳面を用意してもらおうと思った。
まだ、書くことはいくらでもある。




