第二十六話 分からないという答え
街道を止めた魔物について、調査の報告が届いたのは二日後だった。
その日の午後、俺は父上の執務室にいた。最近ここへ来る回数が増えているけれど、別に仕事を手伝っているわけではない。
端の椅子で本を読んでいるだけだ。
少なくとも、表向きは。
「周辺に大型種の痕跡はありませんでした」
騎士の報告を聞いて、俺は本から少しだけ顔を上げた。
父上は気づいているはずだ。
でも何も言わない。
「群れは?」
「確認できません。討伐した個体のものと思われる痕跡だけです」
「巣は?」
「見つかっておりません」
騎士は机の上へ簡単な地図を広げた。
魔物が最初に確認された場所。
移動した方向。
街道へ近づいた場所。
俺は本を閉じた。
もう隠す意味がない。
「アルス」
「うん」
「やっぱり聞いていたね」
「聞こえた」
父上が笑う。
「こちらへおいで」
許可が出たので、俺は机へ近づいた。
地図を見る。
森の中に、いくつか印がついていた。
「これ何?」
「足跡が確認された場所です」
騎士が教えてくれる。
一本の線にはなっていない。
ところどころ途切れている。
「途中は?」
「地面が硬く、痕跡が残らなかった場所もあります」
全部分かるわけではないのか。
「どこから来たの?」
騎士が地図の一点を指した。
「この辺りから来た可能性が高いと考えています」
「可能性?」
「その先は追えませんでした」
また途中で切れている。
俺は地図を見る。
「もっと探せば分かる?」
騎士はすぐには答えなかった。
「分かるかもしれません」
「じゃあ探す?」
「今回は、そこまでは行いません」
意外だった。
「なんで?」
父上が答えた。
「必要がないからだよ」
分からないのに?
俺の顔に出ていたらしい。
父上は地図の上へ指を置いた。
「街道周辺は確認した。近くの村にも被害はない。同種の魔物が続けて出ているわけでもない。より危険な魔物の痕跡も見つかっていない」
「でも、なんで出てきたか分からない」
「分からないね」
父上は普通に認めた。
「それでいいの?」
「よくはない。ただ、分からないことを一つ調べるために、人も時間も必要になる」
俺は騎士を見る。
森を歩く。
痕跡を探す。
危険な場所へ入る。
確かに無料ではない。
「全部調べてたら?」
「他の仕事ができなくなる」
父上の答えは簡単だった。
騎士には街道の安全確認以外にも仕事がある。
村の巡回もあれば、訓練もある。別の魔物が出ることだってある。
知りたいから調べる。
俺ならそれでいい。
でも領地を動かしている人たちは、それだけでは決められない。
「じゃあ、分からないまま終わり?」
「今回はね」
なんとなく気持ちが悪い。
答えのない問題を途中で閉じるような感じがする。
俺は地図を見続けた。
「アルス様」
騎士が声をかけた。
「分からなかったことも、記録には残しますよ」
「記録?」
「はい」
騎士は報告書を指した。
魔物の種類。
確認された場所。
時間。
足跡。
周囲で見つかったもの。
見つからなかったもの。
全部書いてあるらしい。
「なんで?」
「同じことがまた起きるかもしれませんから」
俺は報告書を見る。
今は分からない。
でも、次があれば比べられる。
「あ」
四十年前の備蓄記録を思い出した。
あれを書いた人たちも、未来の俺が読むために書いたわけではない。
その時に必要だったから残した。
でも記録が残っていたから、今と比べられた。
「次に同じ魔物が出たら、この記録を見る?」
「必要なら」
「違う場所でも?」
「場所や状況が似ていれば、参考にはするでしょう」
なるほど。
一回では分からない。
二回でも分からないかもしれない。
でも、残しておけば増やせる。
「分からなくても記録するんだ」
「分からないからこそ、ということもありますね」
その言葉が残った。
騎士が退出したあと、俺は父上の机の横に残った。
「父上」
「何だい?」
「さっきの魔物、なんで森から出たと思う?」
「分からない」
「予想は?」
「いくつかできるよ」
父上は指を折った。
「餌を探していたのかもしれない。何かから逃げていたのかもしれない。単に行動範囲が普段より広かっただけかもしれない」
「魔素が変わったとか」
「それも否定はできない」
たくさんある。
「どれが正解?」
「分からない」
また同じ答えだった。
「一番ありそうなのは?」
父上が少し考える。
「それを決めるだけの材料がない」
俺は黙った。
父上は答えを出せないのではない。
出さないのだ。
材料が足りないから。
部屋へ戻って、帳面を開いた。
第25話で書いた二行がある。
『先に、起きたことを見る』
『理由はあとで考える』
その下へ、今日分かったことを加える。
『調べても理由が分からないことがある』
書いてみると、あまり気持ちのいい文章ではなかった。
だからといって消す理由もない。
さらに書く。
『分からなかったことも残す』
こっちは気に入った。
答えが出なければ失敗。
なんとなく、そう思っていた。
魔法の実験でも、成功する方法を探していた。
失敗したら、何が違ったのかを調べる。
でも。
違いさえ分からない失敗もあるかもしれない。
条件が足りない。
観測が足りない。
今の自分では測れない。
そんな時に、無理やり理由を一つ選んだらどうなる?
俺は帳面に書いた。
『予想と、分かったことを分ける』
少し間を空ける。
『分からないものは、分からないまま残す』
これでいい。
クロムが机の横に座っていた。
俺は黒い猫を見る。
そういえば。
以前、クロムの魔素を感じ取ろうとした時も、よく分からなかった。
猫にも魔素はある。
馬にもある。
魔物にもある。
でもクロムは、うまく読めなかった。
俺は一度、帳面へ書きかけた。
『クロムには魔素がない?』
止める。
違う。
分からないだけだ。
書き直す。
『クロムの魔素――今の自分では確認できない』
クロムが俺を見る。
「これならいいだろ」
当然、返事はない。
それも同じだ。
返事がない。
だからといって、言葉が分からないとは限らない。
理解していて無視している可能性だってある。
特に猫なら。
俺は少し笑った。
夕方。
もう一度、自分がこれまで書いた帳面を最初からめくった。
五歳になって、魔素を動かした日。
魔法を見た。
外の魔素を感じた。
失敗を記録した。
形を作った。
保冷庫を見た。
魔石を見た。
魔物を見た。
市場を見た。
値段を見た。
人の判断を見た。
ずいぶん増えた。
でも、最初の頃のページには断定する書き方が多い。
『こうなる』
『これはこうだ』
最近のページには別の言葉が増えている。
『らしい』
『場合がある』
『可能性』
『今回は』
『まだ分からない』
前より曖昧になっている。
なのに。
前より世界が見えている気がした。
不思議だった。
知らないことを減らしているはずなのに、分からないことは増えている。
たぶん。
知れば知るほど、その外側が見えるからだ。
俺は新しいページを開いた。
真ん中に大きく書く。
『分からない』
以前なら、そこから答えを探したと思う。
今日は違う。
その言葉を丸で囲んだ。
分からないなら、そこが次に見る場所だ。
今すぐ調べなくてもいい。
十年後でも。
もっと先でも。
記録さえ残っていれば、また戻ってこられる。
俺は帳面を閉じた。
答えが出なかった魔物の調査は、終わった。
でも。
分からないという記録は残った。
それなら、本当の意味ではまだ終わっていないのかもしれない。




