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第二十五話 届かなかった荷車

朝食の席で、いつものものがなかった。


最初は気づかなかった。

パンがあり、卵があり、果物もある。俺の前には水も置かれている。


でも、何かが足りない。


「牛乳は?」


聞くと、兄上が俺を見る。


「朝からそれか?」


「いつもあるから」


別に牛乳がなければ困るわけではない。


ただ、昨日まであったものが今日はない。

最近の俺にとって、それは十分に気になることだった。


母上が使用人へ視線を向ける。


「今朝の便が遅れているそうですよ」


「便?」


「荷物を運んでくる荷車です」


来ていない。


俺は昨日までの帳面を思い出した。


作る人。

運ぶ人。

売る人。

買う人。


線でつないだ真ん中が、一つ切れている。


「なんで?」


「アルス」


兄上がため息をついた。


「今度は牛乳がないだけで調査を始めるつもりか?」


「うん」


「聞くな、クラウス」


姉上が笑った。


「この子、もう止まらないわよ」


自分でもそう思う。



朝食を終える頃になっても、荷車は来なかった。


俺は厨房へ向かった。


料理長はすでに事情を知っていた。


「街道の一部が通れないらしいですよ」


「道が壊れた?」


「まだ詳しくは分かりません。別の荷が先に来ましてね。その御者から聞きました」


情報だけが先に届いたらしい。


「牛乳は?」


「今日は別のところから買うことになるかもしれません」


「買えるの?」


「街まで行けば」


昨日までは、いつもの商人から買っていた。


でも来ないなら別のところから買う。


俺は厨房の隅で考える。


一つ止まっても、全部が止まるわけではない。


別の方法を探す。


「高くなる?」


料理長が笑った。


「そこまで考えるようになりましたか」


「遠くから買ったら運ぶの大変だし、急に欲しいって言ったら高いかもしれない」


「その可能性はありますね」


昨日聞いた話が、もう目の前で起きている。


俺は少し嬉しくなった。


牛乳が来ないことを喜ぶのは違う気もするけれど。



昼前。


荷車は来た。


ただし、いつもの時間よりかなり遅い。


俺が見に行くと、荷車の車輪と側面には泥がついていた。御者も疲れた顔をしている。


牛乳も積まれている。


「来た」


思わず言うと、マリーが隣で笑った。


「ずっと待っていたような言い方ですね」


「待ってた」


牛乳ではなく、理由を。


荷下ろしが終わるまで待つ。


仕事中に質問してはいけない。

最近覚えた。


御者が一息ついたところで、俺は近づいた。


「道、どうしたの?」


「アルス様でしたか」


何度か屋敷へ来ている人らしい。


男は水を一口飲んでから答えた。


「魔物が出ましてね」


魔物。


俺の頭の中で、また別の線がつながった。


「荷車を襲った?」


「いいえ。少し違います」


男の話では、街道そのものが襲われたわけではなかった。


森から大型の魔物が出てきた。

それを討伐するために騎士たちが動いた。


戦いは街道から少し離れた場所だったが、逃げた別の魔物が街道近くまで出てきたらしい。


安全を確認するまで、通行が止められた。


「誰も怪我してない?」


「私が聞いた限りでは、大きな怪我人はいないそうです」


それならよかった。


「それで待ってた?」


「ええ。安全になってから通りました」


「急いで通らなかったの?」


御者が笑った。


「牛乳より命の方が高いですからね」


正しい。


ものすごく正しい。


俺は少し恥ずかしくなった。


帳面の線ばかり見ていると、運んでいるのが人間だということを忘れそうになる。


「牛乳、悪くならなかった?」


「保冷箱がありますから、この程度なら」


荷車を見る。


積まれている箱の一つに見覚えがあった。


市場で見たものと似ている。


「保冷箱がなかったら?」


「困ったでしょうね。夏場なら戻ることも考えます」


また保冷箱だ。


今度は、ただ遠くまで運ぶためではない。


予定外に止まっても、荷物を守る。


「便利だな」


「便利ですよ。重いですが」


そこは変わらないらしい。



俺は御者の荷車を観察する。


泥。


車輪。

馬。


保冷箱。


一つの荷物を運ぶだけなのに、必要なものが多い。


「道がずっと使えなかったら?」


「別の道を使います」


「遠い?」


「かなり」


「じゃあ高くなる?」


御者は少し考えた。


「運ぶ側としては、余分にいただきたいところですね」


「やっぱり」


昨日聞いた話が、本当に起こる。


魔物が出る。


騎士が動く。

道が止まる。


荷車が遅れる。

食べ物が届かない。


別の道を使えば、時間も手間も増える。


それが長く続けば、値段にも影響するかもしれない。


魔物一匹が、牛乳の値段まで動かす。


「すごいな」


「何がです?」


御者には意味が分からなかったらしい。


「魔物」


男が少し警戒した顔になる。


「見に行ってはいけませんよ」


「行かないよ」


そこはもう学習している。


たぶん。



午後になると、もう少し詳しい話が屋敷へ届いた。


父上のところへ報告が来ていた。


俺は執務室の端で、本を読むふりをしながら聞いていた。


完全にふりだった。


魔物は討伐された。


街道にも大きな被害はない。

通行も再開されている。


それで終わり。


……ではなかった。


「念のため、周辺を確認させよう」


父上が言った。


「単独で森から出たのなら問題ない。だが、何かに追われた可能性もある」


俺は本から顔を上げた。


倒した魔物だけを見て終わらない。


なぜそこにいたのかを見る。


「父上」


「やっぱり聞いていたね」


ばれていた。


俺は本を閉じる。


「魔物を倒したのに、まだ調べるの?」


「普段そこまで人里へ近づかない種類だからね」


「なんで来たか分からないから?」


「そういうことだ」


父上は地図を広げた。


街道。

森。

近くの村。


俺も机へ近づく。


「餌がなくなったとか?」


「あり得る」


「もっと強い魔物がいたとか?」


「それもあり得る」


「魔素が変わったとか?」


父上が俺を見る。


「可能性を増やしすぎると、調べる人が困るよ」


「あ」


そうだった。


考えられることを全部並べればいいわけではない。


「まず、何があったか確認する」


父上が言った。


「理由を考えるのは、そのあとだ」


俺は頷いた。


これは覚えておいた方がいい。


予想してから見ると、予想したものばかり探してしまうかもしれない。


先に観測。


理由は、そのあと。



部屋へ戻って帳面を開く。


今日は書くものが多い。


最初に、


『魔物が森から出る』


と書いた。


そこから矢印を伸ばす。


『騎士が動く』

『街道を止める』

『荷車が止まる』

『牛乳が遅れる』


そこまで書いて、少し笑った。


朝、俺が最初に気づいたのは牛乳だった。


でも逆にたどれば、その先には森の魔物がいた。


さらに別の線を書く。


『保冷箱がある』

   ↓

『待っても牛乳が悪くなりにくい』


同じ出来事の中で、魔道具も働いていた。


もう一本。


『危険なら待つ』

   ↓

『御者が無理をしない』


これは道具ではない。


人の判断だ。


全部が重なって、今日の牛乳は少し遅れただけで届いた。


もし保冷箱がなかったら。


もし御者が無理をしていたら。


もし騎士が道を止めなかったら。


結果は違っていたかもしれない。


俺は帳面の下へ書いた。


『一つの出来事から、いくつも変わる』


第24話で書いた、


『何かを変える』

   ↓

『人が反応する』

   ↓

『また世界が変わる』


その横に今日の出来事を並べる。


昨日は言葉だった。


今日は実物になった。



クロムが机へ飛び乗ってきた。


俺は帳面を守る。


最近こいつがどこに座るか分かってきた。


「今日は駄目」


クロムは帳面の前で止まり、俺を見る。


それから何事もなかったように向きを変え、窓辺へ移動した。


「分かったのか?」


返事はない。


たまたまかもしれない。


俺は帳面へ戻る。


最後に、父上から聞いたことを書く。


『先に、起きたことを見る』

『理由はあとで考える』


二行を眺めた。


たぶん、これは大事だ。


魔物が出たからといって、理由まで分かったことにはならない。


値段が上がったからといって、一つの原因だけとは限らない。


目の前で起きたことと。


俺が考えた理由は。


同じものではない。


その二つを混ぜなければ、世界をもう少し正確に見られる気がする。


俺は筆を置いた。


朝には牛乳がなかった。


それだけだった。


でも一日追いかけたら、森までたどり着いた。


世界は遠くにあるものまで、思っていたより簡単につながっている。


なら。


どこかで起きた小さな変化が、ずっと離れた場所まで届くこともあるのだろう。


五歳の俺には、まだその先までは見えない。


だから今は。


届かなかった牛乳から始めればいい。

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