第二十四話 誰が値段を決めるのか
牛乳の値段が変わる。
取れる量。
欲しい人。
運ぶ手間。
保存できる時間。
いくつもの条件が関係している。
そこまでは分かった。
でも翌朝、帳面を見返していて、もっと単純な疑問が残っていることに気づいた。
「……結局、誰が決めるんだ?」
牛乳が昨日より高くなる。
その時。
誰かが「今日からこの値段」と決めているはずだ。
俺は帳面に書いた。
『値段を決める人』
そして、その下に候補を並べる。
作った人。
商人。
店。
買う人は――違う気がする。
でも昨日の商人は、欲しい人が増えれば値段が変わると言っていた。
なら買う人も関係している。
「全員?」
書いてから首を傾げた。
そんなわけがあるのか。
全員で集まって、牛乳の値段を相談しているとは思えない。
ちょうどその日の昼前。
昨日とは別の商人が屋敷へ来た。
今度は食料ではなく、布や生活用品を扱う商人だった。
俺はマリーを見る。
マリーは俺を見る。
最近は、これだけでだいたい会話が成立する。
「お仕事が終わってからですよ」
「うん」
俺は少し離れた場所で待った。
商人と屋敷の使用人が品物を確認している。
布。
糸。
紙。
油。
いくつもの品物が並ぶ。
その中で、一度だけ二人の会話が長くなった。
紙だった。
「前回より高いですね」
屋敷の使用人が言う。
「申し訳ありません。仕入れ値が上がっておりますので」
「この量なら、もう少し下がりませんか?」
「これ以上は少々……」
俺の耳が勝手にそちらへ向いた。
値段を話している。
しかも。
最初から決まっていない?
二人はしばらく話したあと、最初に商人が言ったものとは少し違う値段で決めた。
商人が帳面へ何かを書く。
屋敷側も確認する。
それで終わった。
俺はすぐマリーを見る。
「終わりましたか?」
「たぶん」
「では、少しだけですよ」
近づく。
商人は俺を見ると、丁寧に頭を下げた。
「アルス様」
「さっき、値段変わった?」
いきなり聞く。
男は少し驚いたあと、笑った。
「紙のことでしょうか?」
「うん」
「少しだけ」
「最初の値段は間違ってたの?」
「いいえ」
違うのか。
「じゃあ、なんで変わったの?」
「今回はまとめて多く買っていただけますから、その分を少しお安くしたのです」
「多く買うと安くできる?」
「できる場合もございます」
また場合。
俺はもう驚かない。
「じゃあ、最初から安い値段にしておけばいいのに」
商人が苦笑した。
「皆様が同じ量を買ってくださるわけではありませんからね」
確かに。
一枚買う人。
百枚買う人。
同じ条件ではない。
「じゃあ、値段って決まってない?」
「決まっているものもありますよ」
「どっち?」
「どちらもです」
困る。
俺は少し考えて、質問を変えた。
「この紙はいくら?」
商人が一枚当たりのおおよその値段を答える。
「それより高く売ってもいい?」
「売るだけなら」
「すごく高くても?」
「買ってくださる方がいれば」
なるほど。
「すごく安くても?」
「私がそれで商売を続けられるのでしたら」
昨日と同じ言葉が出た。
続けられるか。
「じゃあ、好きに決めていい?」
「好きに、という言い方は少し違いますね」
商人は紙の束を指した。
「私が倍の値段をつければ、アルス様のお屋敷は別の商人から買うでしょう」
「あ」
「逆に、仕入れた値段より安く売り続ければ、今度は私が商売を続けられません」
上がある。
下もある。
でも、その間に一本の正解があるわけではない。
「じゃあ、誰も決めてない?」
商人が考え込んだ。
「一人で決めてはいない、と申した方が近いでしょうか」
その答えが一番しっくりきた。
作る人が値段を出す。
商人が買う。
運ぶ。
店が売る。
買う人が、高いと思えば買わないこともある。
その結果を見て、また値段を変える。
誰か一人が決めているのではなく。
みんなの判断が、途中でぶつかっている。
「でも」
俺は市場を思い出した。
「みんな好きに値段つけたら、どれくらいが普通か分からなくならない?」
商人が頷いた。
「ですから、相場を調べます」
知らない言葉ではない。
前世にもあった。
「どこで?」
「市場を見ることもありますし、他の商人から情報を得ることもあります。商業ギルドで確認できる情報もありますよ」
商業ギルド。
もちろん名前は知っている。
アルスとして五年間暮らしてきた中でも聞いたことがある。
でも俺の中では、今までただの名前だった。
「商業ギルドが値段を決めるの?」
「いいえ」
商人はすぐ否定した。
「では何をするところ?」
今度は商人が少し困った。
質問の範囲が急に広がったらしい。
「商人の登録や契約の記録、取引の仲介、揉め事が起きた時の確認。地域によって違いはありますが、商売に必要な情報も扱います」
値段を決める場所ではない。
でも。
値段を考えるための情報は集まる。
「今日、紙が急にすごく高くなったら分かる?」
「大きな変化なら、理由を探す商人は多いでしょうね」
「なんで?」
「理由が分からなければ、買うべきか待つべきか判断できませんから」
また判断だ。
誰かが正解を教えてくれるわけではない。
情報を集める。
理由を考える。
それから自分で決める。
「間違えることもある?」
「もちろん」
即答だった。
「値上がりすると思って大量に仕入れたのに、下がることもあります。売れると思った品が売れないこともありますよ」
「損する?」
「します」
商人が笑う。
あまり楽しそうな話ではないのに、普通に笑っている。
「怖くない?」
「怖いですよ。だから調べるのです」
その言葉を、俺は覚えておくことにした。
商人が帰ったあと。
俺は帳面を開いた。
『値段を決める人』
昨日書いた言葉を見る。
横線を引いた。
消すわけではない。
質問そのものが少し違っていた。
新しく書く。
『誰か一人が決めるわけではない』
その下へ線を伸ばす。
作る人。
運ぶ人。
売る人。
買う人。
そして、
『情報』
を加えた。
相場。
季節。
取れる量。
欲しい人。
運ぶ費用。
みんなが同じ情報を持っているわけでもない。
同じ情報を見ても、同じ判断をするとは限らない。
だから商人は間違える。
「……これ、面白いな」
俺は小さく呟いた。
魔法とは全然違う。
魔素なら、同じ条件をそろえていけば、少しずつ再現しやすくなると思っていた。
でも人が入ると違う。
昨日買った人が、今日も買うとは限らない。
高いと思う人もいれば、安いと思う人もいる。
同じものを見ても判断が変わる。
再現しにくい。
だからといって、何も分からないわけではない。
たくさん取れれば安くなりやすい。
欲しい人が増えれば高くなりやすい。
道が悪くなれば、運ぶ負担が増える。
絶対ではない。
でも、傾向はある。
俺はその言葉を書いた。
『決まりではなく、傾向』
少し眺める。
これは覚えておいた方がいい気がした。
世界には、決まっているものだけがあるわけではない。
石を落とせば下へ落ちる。
でも、商人が明日何を買うかは決まっていない。
それでも完全なでたらめではない。
条件があって。
情報があって。
その人なりの理由がある。
午後。
俺は父上の執務室を訪ねた。
聞きたいことが一つだけ残っていた。
「父上」
「どうした?」
「領主なら、物の値段を決められる?」
父上の手が止まった。
「またずいぶん違うところへ行ったね」
俺もそう思う。
昨日までは牛乳だった。
「決められる?」
「命令を出すこと自体はできる場合もある」
できるのか。
「じゃあ、牛乳を一Gにしてって言ったら?」
父上が笑った。
「農家と商人が困るだろうね」
「でも命令したら一G?」
「一時的にはそうなるかもしれない」
一時的。
そこが重要そうだった。
「その後は?」
「売る人がいなくなるかもしれない。別の土地へ持っていくかもしれない。作る人が減るかもしれない」
俺は黙った。
値段だけを変えても、その後で人が動く。
「命令したら終わりじゃないんだ」
「人は命令された通りに動くだけの駒ではないからね」
父上は机に置いていた書類へ視線を戻した。
「何かを変えれば、その結果を見て別の誰かが行動を変える。領地を治める時に難しいのは、むしろその先だよ」
その先。
俺は帳面を開いた。
『何かを変える』
矢印。
『人が反応する』
さらに矢印。
『また世界が変わる』
書いてみる。
終わらない。
結果が、次の原因になる。
「父上」
「うん?」
「これ、ずっと続く?」
父上は俺の帳面を見た。
「人が暮らしている限りはね」
俺は三つの言葉を結んだ矢印を見る。
魔素は流れる。
物も流れる。
お金も流れる。
そして。
人の判断も、次の人の判断へつながっていく。
一つ動かしたら、一つだけ変わるわけではない。
「難しいな」
思わず言うと、父上が笑った。
「五歳でそこに気づいたなら、十分だと思うよ」
俺は帳面を閉じた。
全部を予測する必要はない。
たぶん、できない。
なら。
何かを変えた時、その先で何が起きたのかを見る。
予想と違ったなら、その違いを見る。
魔法の実験と同じようで。
人がいる分だけ、ずっと答えが揺れる。
それでも観測はできる。
俺は執務室を出ながら、一つだけ覚えておくことにした。
世界は、命令しただけでは完成しない。
動かした後にどう動くのか。
そこまで見なければ、何をしたのかさえ分からないのかもしれない。




